瞬の期待通りに(あるいは、不吉な予感通りに)、太陽が その残光だけを残す庭に あの蔓薔薇のアーチが現われる。
瞬は、氷河と同じ色の髪を持つ あの少女に会うのが恐かった。
だが、会わずにいるのも不安だった。
知ることへの恐れと、知らないでいることの不安。
その両者の間で迷い ためらい、瞬は結局 前者を退けた。

アーチをくぐり、春の野に入る。
水音を頼りに進む瞬の耳に、また あの歌が聞こえてきた。
  「この橋の上を あの子と通った
   春の日にも秋の日にも肩を並べ
   春の日にも秋の日にも肩を並べ」

「こんにちは。来てくれたの?」
彼女は、今日は腕輪を編んでいるらしい。
瞬の姿を認めると、彼女は、編みかけの腕輪を薄緑色のスカートの上に置いて、招待状を持たない訪問者を笑顔で迎えてくれた。

改めて見ると、彼女の金髪と瞳は、氷河のそれと全く同じ色だった。
金色といっても、それは一つの色ではなく、青色と言っても、それは一つの色ではない。
無数の金色があり、無数の青色がある。
にもかかわらず、氷河の母と同じ名を持つ この少女は、氷河と同じ金と青を、その身に備えているのだ。
彼女の“おうち”の場所を尋ねることに意味はない。
それはわかっていたので、瞬は、昨日とは違う質問を彼女に向かって投げかけた。

「ナターシャ。君のパパは君と同じ金色の髪をしているの?」
「ええ、そうよ」
「瞳の色も同じ?」
「ええ、おんなじ」
もとより『違う』という答えが返ってくるとは思っていなかったのではあるが、それは心穏やかに聞いていられることでもなかった。
次の質問を ためらいなく口にすることができない。
肩で大きく息をつき、一度 目を閉じてから、瞬は 意を決して彼女に尋ねた。

「ナターシャ。君のパパはどこにいるの」
「戦いに行ってるんだって。もうずっと帰ってこないの。暗い髪のねぇ、綺麗な男の人と一緒にいるんだって」
「戦い……?」
「でも、いつかまた三人で暮らせるようになるのよって、ママは言ってるの。それまで寂しくても我慢してねって」
世界が光にあふれているからではなく――違う理由で、瞬は目眩いを覚えた。
ぐらりと、大きく身体が揺れる。

『君のパパといる暗い髪の人の名は何というのか』と 訊きそうになって、瞬は慌てて その言葉を喉の奥に押しやったのである。
その答えを聞くのが恐いせいもあったが、おそらく彼女は その人物の名を知らされてはいないだろう――と思ったから。
娘から父親を奪っている冷酷な人間の名を、母が娘に知らせるわけがないと、瞬は思った。

瞬の髪は日本人としてはかなり色素の薄い方だったが、金に比べれば、それは『暗い』としか言いようのないものだろう。
『黒い』とは言わず『暗い』と表するところに、瞬は、その人物に対する 少女の母の憎しみ――とまではいかないにしても、好意のなさを感じないわけにはいかなかった。
ここは、時間が捩じれ、空間も捩じれている場所。
この少女が 未来の氷河が 瞬の知らない誰かとの間に儲けた娘であるということは、本当に ありえることだろうか――と、瞬は改めて考えてみたのである。

氷河が今 自分を好きでいてくれることは知っている。
その気持ちを疑うことは、瞬にはできなかった。
疑いたくないというのではなく、疑えないのだ。
氷河が浮気なたちではないことも、氷河はただ一人の人を傍迷惑なほど一途に思い続けるタイプの人間だということも、瞬はよく知っていた。
氷河の その気質が容易に変質すると思うことは、瞬にはできなかった。

だが、何か――氷河の一途だけでは済まない何かが、未来の氷河の身の上に起こるのかもしれない。
そして、彼は、瞬の知らない女性との間に子供を儲けたのかもしれない。
そして、その時にも アテナの聖闘士たちの戦いは まだ収束を見ておらず、氷河は戦いの中にいるのだろう。
だから氷河は、彼の娘の許に帰ることができずにいるのだ――。

そう考えて、瞬は、だが そう考えようとしている自らの卑劣を自覚しないわけにはいかなかった。
懸命に自分を奮い立たせて、瞬は、別の可能性を考えた――考えたくない別の可能性を考えた。
もしかしたら、未来の自分が氷河を引きとめて、この少女の父親をこの少女の許に帰さずにいるのかもしれない。この少女が自分の前に現われたのは、『私とママから パパをとらないで』と訴えるためなのかもしれない――という可能性を。

それは あくまでも想像にすぎず、可能性にすぎないことだというのに、その可能性を考えるだけで、瞬は 少女の前に立っていられない気持ちになったのである。
その可能性を“馬鹿げた考え”にできる場所に、瞬は帰りたかった。
「あ……」
“暗い髪の人”を責める気配を見せようとしない少女の瞳を見詰めたまま、一歩二歩 後ずさる。
それから彼女に背を向けて、瞬は その場から駆け出した――逃げだした。
シロツメクサの野原を駆け、蔓薔薇のアーチをくぐって、自分の世界に戻る。
あの少女の世界を出れば、もう逃げる必要はないというのに、瞬は、薔薇が盛りの城戸邸の庭を走り抜け、邸内の自分の部屋のドアの前まで駆け続けた。

瞬が逃れようとしている相手は あの少女ではなく、自分の中に生まれた 何の根拠もない“馬鹿げた考え”なのである。
自分の中にあるものから完全に逃げられる場所など、あるわけはない。
それは瞬にもわかっていた。
だが、せめて、自分以外の人間の目や心のない閉ざされた空間に、瞬は 我が身を隠したかったのである。
だから、瞬は自室に向かった。
瞬が自分の部屋の中に飛び込んでしまえなかったのは、氷河がそこにいたからだった。






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