階段を駆け上がり 廊下を疾走するなどという行為は、城戸邸内では 星矢の専売特許である。
敵襲があったわけでもないのに廊下を走る瞬の姿というものは、氷河にはそれだけで非常事態――というより異常事態だったのだろう。
彼は、ドアにぶつかるような勢いで部屋の中に飛び込もうとしていた瞬の腕を素早く掴んだ。
「瞬、どうしたんだ」
「あ……」
自分の手首を掴んで引き止めた人間が誰なのかを認識した途端、瞬は ほとんど反射的に その手を振り払ってしまっていた。

「いや! いやだ! 僕は氷河なんか嫌いだ! 僕は氷河なんて大嫌いなんだからっ!」
「瞬……?」
突然『嫌いだ』と言われてしまったことよりも、瞬の剣幕に驚いたように、氷河が その瞳を見開く。
視界をかすめた氷河の瞳の青い色に、瞬の胸は一瞬 鋭い痛みを覚えたのだが、感情に任せて口にしてしまった自分の言葉に、瞬は引っ込みがつかなくなった。
まさか、そんな言葉を口にしてしまったあとで、『本当は大好きだけど、嫌いというしかなかった』などという弁明をするわけにもいかない。
そして、瞬は 今は、とにかく氷河のいない場所に行きたかった。
だから、瞬は、心にもない言葉を言い募るしかなかったのである。

「氷河なんか嫌い! 僕は氷河を好きじゃない。放してっ」
「瞬!」
今だけは、氷河の側にだけはいたくなかったので、瞬は悲鳴のように そう叫んだのに、氷河は瞬の願いを叶えてはくれなかった。
瞬の願いを叶えるどころか――彼は瞬の手首を掴んでいた手に更に力を込め、自分の方に引き寄せ、そして、もう一方の手で 取り乱している瞬の身体を抱きしめてしまった。
氷河の腕に拘束されて身動きができなくなった瞬の耳許で、氷河が なだめるように低く囁く。
「おまえが俺を嫌いでも、俺はおまえが好きだぞ」
「あ……」

その時になって、氷河の胸の中で、瞬は、自分が泣いていることに気付いた。
「おまえを泣かせたのは誰だ。俺が仕返ししてきてやる」
本気で言っているのか、冗談で言っているのか――。
氷河の言葉が全く想定外のものだったせいで、瞬は、『今は氷河の側にいたくない』という気持ちを忘れてしまった。
氷河から逃げたいという気持ちが薄れると、それとは別の思いが瞬の胸に去来する。
というより、瞬は、その思いを五感で感じていた。
氷河の腕に動きを封じられ、彼の胸に頬や肩で触れていることが とても快い。
そして、自分がそう感じていることは、瞬には意外なことだったのである。

瞬は、それまで、自分は 氷河の眼差しに心を動かされ縛られているだけなのだと思っていた。
自分は 応えずにはいられない氷河の恋に“反応”しているだけなのだと、それまで瞬は思っていた。
自分自身が、これほど能動的に氷河を好きでいるとは思っていなかった。
これほど強く 自分の方が・・・・・氷河を求めていたことを、氷河の体温に気付かされてしまった瞬は、そんな自分の心に戦慄したのである。
(どうしよう……。きっと僕は、この思いで、あの子を不幸にしてしまう……。そんなことはしちゃいけないのに、きっと僕は、氷河を放したくなくて、氷河と離れていることに耐えられなくて、あの子から父親を奪ってしまう……!)

最初から父母の記憶のない自分と、母の記憶を持つ氷河。
両者のどちらがより強く親を求め慕っているかといえば、それは氷河の方である。
同じように、あの少女も、父と過ごした楽しかった頃の思い出があるから 父親を求めているのだろう。
(だけど、僕だって、こんなに氷河が好きなのに!)
瞬は、そう叫んでしまいそうになったのである。
その言葉を、だが、瞬は実際に口にすることはできなかった。
氷河に先に言われてしまったせいで。

「俺は おまえが好きなんだ」
そう囁く氷河の唇が、瞬の頬と髪をかすめる。
氷河の声は、溜め息のように熱がこもり、甘い。
突き放さなければならないと思うのに――そう思うほどに、瞬の心は氷河に引きつけられ、寄り添っていく。
それは瞬の意思の力では止められなかった。

どうすればいいのかが わからない。
氷河から離れなければならないと思うのに、瞬の心と身体が 瞬の意思に反抗する。
(僕は……僕はどうすればいいの……! 僕は氷河を突き放さなきゃならないのに……!)
だというのに、瞬の手と心は――足や感情や言葉までが――瞬に『それはいやだ』と抵抗してくるのだ。
瞬は泣きたくなって――既に泣いていたはずなのに、また泣きたくなって――実際に、瞳から新しい涙をこぼした。

「おまえは本当に俺が嫌いなのか」
瞬の考えに逆らって、瞬が首を横に振る。
そんなことがあるはずがない――と、瞬の心と身体の大部分が 氷河に向かって懸命に訴えていた。
「なら、泣くことはない」
氷河の腕が更に強い力をこめて、瞬の身体を抱きしめてる。
「でも、だめなんだ……だめ……」
言葉とは裏腹に、瞬の両手は氷河にすがりつき、瞬の指は氷河の背にしがみついてしまっていた。

「すぐに だめじゃなくなる」
氷河が、瞬のうなじに手を添え、瞬の顔を上向かせる。
唇に唇で触れられたせいで、瞬は軽い目眩いに襲われた。
自分の手足の所在がわからなくなり 重心を見失ったと思った時には もう、瞬は、あれほど一人で逃げ込もうとしていた部屋の中で、氷河と二人きりになってしまっていた。
氷河の指が 瞬の首と肩をゆっくりとなぞっていく。

「ああ……だめ……氷河、だめ……」
少しずつ自分の四肢の自由を奪っていく氷河の身体の重みに酔いながら、何がだめなのかと、瞬は自問したのである。
この人が自分のものでなくなることが、この人が自分以外の誰かのものになることが“だめ”なのだと、“瞬”が瞬に答えてきた。
その上、“瞬”は、瞬に断りなく、その指を氷河の髪に絡ませ、氷河の唇を瞬の肌に押しつけようとさえする。
瞬は、そんな“瞬”をどうしても止めることができなかった。
「僕……は氷河が好きなの。僕、何でもする。氷河が ずっと僕と一緒にいてくれるなら」
「俺はおまえの望みは どんなことでも叶えてやるぞ。だから、おまえもちょっとだけ俺の我儘をきいてくれ。そうしたら、俺は 死ぬまでおまえの側にいる。おまえだけのものでいる」
瞬自身にも誰が言っているのか わからない訴えに、氷河が微笑するような声で答えてくる。

氷河が『死ぬまで』と言うのなら、それは本当に『死ぬまで』なのだ。
氷河は、欲しいものを手に入れるために虚言を弄するようなことはしない。
もちろん、欲しくないものを欲しいと言うこともない。
氷河は、嘘をつくなどという面倒なことは決してしない。
『死ぬまで おまえの側にいる』と氷河が言うなら、彼はその言葉を必ず実行するだろう。
少なくとも今、氷河は、その言葉が実行されないものだとは、全く考えていない。
彼は瞬との約束を守る――守ろうとする。
瞬が望むことを叶えるために。

氷河の心を疑うことは、瞬にはできなかったし、彼の言葉を信じないことも、瞬にはできなかった。
だが、近い将来、あるいは遠い未来に、何かが起こるのだろう。
二人の気持ちだけではどうにもできない何かが。おそらく。
そして、いつか、あの少女が 二人と同じ時の流れの上に立つことになるのだ――。

この恋が不幸な人を作るかもしれない――という不安を消し去ることはできないのに、瞬は“瞬”を止められなかった。
氷河の愛撫と囁きに促されるまま、“瞬”が氷河のために身体を開いてしまう。
“瞬”だけでなく 瞬までもが、もはや氷河を受け入れずにいることはできなくなっていた。
「ああ……っ!」
不安が――不幸の予感が――逆に、氷河を身の内に受け入れる瞬の歓喜を深く大きく強くしていく。
二人の未来にあるものが完全な幸福ではないだろうことが恐くて、瞬は乱れずにいられなかった。
ものを考える力を早く失ってしまいたいと、瞬は願わずにはいられなかったのである。

瞬は、自分が自分の意思で正気を手放したのか、氷河の愛撫や 氷河との交合の衝撃のせいで それを見失ったのかが わからなかった。
悪い予感があるからこそ、これ以上ないほど密接に氷河とつながっていられる今を 幸せだと感じ、身体の内と外から氷河の熱に侵されている感覚を 快いと感じる。
瞬は、自分から身体を氷河に押しつけ、氷河が瞬から身を引こうとするたびに、自分から彼を締めつけ絡みつき引きとめた。

「瞬……」
驚きを伴った低い声が瞬の名を呼ぶのが聞こえたが、その声に答える時間も惜しいとばかりに、瞬は、氷河を感じ続けるために我が身を使い続けた。
氷河が すぐに瞬の求めに応じ、瞬が求める以上のものを瞬に与えるために、その力と熱をもって瞬を突き上げてくる。
「ああ……あっ……ああっ!」
何を考えることもできなくなった瞬は、ただ快く、ただ幸福だった。
この時が永遠に続けばいいと願いながら、打ちつけられてくるものの衝撃と快さに耐えていた瞬は、だが、やがて、その時があまりに長く続くことに恐怖を覚えることになったのである。
この快楽がこのまま続けば、自分はきっと狂ってしまう――と、瞬は思った。

「ひょ……が……氷河、もう、やめて……。やめて、だめ、僕、もう ああ……」
氷河に泣いて懇願しながら、瞬の心と五感は全く別のことを望んでいた。
このまま狂ってしまえたなら、自分は完全な幸福を手に入れられるだろうと、瞬の心と五感は感じていた。






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