いつ自分が氷河を解放したのか、いつ自分が氷河に放してもらえたのかを、瞬は憶えていなかった。 死より深く眠っていたような気がする。 いっそ あのまま死んでしまえれば、自分は おそらく完全に幸福な生と死の体現者になれただろうにと、瞬は思っていたのである。 朝の光の中で、あの少女と同じ色の氷河の髪を見た途端に生まれてきた罪悪感が、瞬の意識の上から その夢想を掻き散らしてしまうまで。 いつも太陽の光より眩しく綺麗だと思っていた氷河の金髪が、今は瞬を悲しませる。 氷河には――氷河の髪には なおさら――そんなつもりはないだろう。 そんなつもりはないのに、それは瞬を悲しませ苦しませる。 そんなことを望んではいないのに、ただ そこに存在するというだけで、自分も誰かを不幸にする時がくるのだろうかと、瞬は考えずにいられなかった。 そんなことを、瞬は考えたくなかったのだが。 一つの存在になってしまったような錯覚を覚えるほど、二人の人間が あれほど近く寄り添い合い溶け合えること、その歓喜を知ってしまったら、もう自分は氷河から離れることはできないだろうと思う。 そう思うのに、瞬は氷河に再び触れることが恐かった。 「この橋の上で あの子と見たのは 澄んだ水にいつも映る笑顔ふたつ 澄んだ水にいつも映る笑顔ふたつ」 静かで端正な――触れたいのに触れられない人の眠り顔を見詰めている瞬の唇から、歌うというより囁くように洩れてきたのは、あの少女が歌っていた歌だった。 人は 自分の考えや感情を表現するために詩を詠み 歌を歌うのだと、瞬はそれまで信じていたのだが、考えなければならないことを考えないために 詩を読み 歌を歌うことも、人にはあるのだということを、その時 瞬は初めて思った。 「なぜ、その歌を知っている」 眠っていると思っていたのに、氷河は既に目覚めていたらしい。 まるで どんな憂いも知らない いたずらっ子のように片目を開け、それから両目を開けて、氷河は、その腕を、彼の顔を覗き込んでいた瞬の裸の肩にまわしてきた。 「『好き』とか『愛してる』とか『気持ちよかった』とか、もっと聞いて楽しい言葉を聞かせてもらえるかと期待していたのに、縁起でもない。それは別れの歌だぞ。もしかしたら、死別の歌だ」 「別れの歌?」 文句を言いながら、それでも嬉しそうに、氷河が瞬の身体を引き寄せる。 死ぬまで一緒にいることは叶わないかもしれない人との大切なキスだというのに、瞬は氷河の胸の上で別のことに気をとられていた。 瞬は、この歌を、橋のある どこかの小さな町で 二人の子供が幸せな子供時代を過ごしている明るい歌だと思っていた。 あの少女の歌う この歌が どこか寂しげに聞こえるのは、あの少女のガラスのような声と歌い方のせいなのだと。 そして、ナターシャは、この歌を、『ママから教えてもらった。パパは歌は知らない』と言っていた。 パパが教えてくれたのは、シロツメクサの花輪の編み方だと。 氷河は この歌を知らないはず――氷河が この歌を知っているはずはないのだ。 「氷河……は、どうして この歌を知ってるの。あの……あんまり有名な歌じゃないよね」 「チェコの民謡だろう。マーマ……母に教えてもらった」 「え……」 初めての朝と 恋人とのキスを喜ぶことをせず、縁起の悪い歌にこだわっている瞬に、氷河は少し不満そうだった。 だが、ちょっと我儘をきいてくれたら、どんな願いでも叶えてやると約束したばかりだった手前、氷河は瞬の不粋を責めることはできなかったらしい。 彼は、瞬の求めに応じて、瞬の知りたいことに答えてくれた。 「1番と2番の歌詞だけを聞いていると、楽しい歌だろう。いつも一緒にいる二人の子供。並んで水に映る仲のいい二人の笑顔――。なのに、妙にどこか寂しい――というか悲しい印象の曲で、だから不思議に思ってマ……母に訊いたんだ。一度だけ、3番の歌詞を教えてもらった」 その3番の歌詞が、仲のいい二人の子供が別れを余儀なくされる内容だった――というのか。 それは にわかには信じ難いことだったのだが、今の瞬には、歌の内容よりも知りたいことがあった。 震える声で、氷河に尋ねる。 「氷河のマーマは……誰からこの歌を教えてもらったの……」 「彼女の母から――つまり、俺の祖母から、だな。チェコのボヘミアで暮らしていたことがあったそうだから」 「氷河のお母さんのお父さんは――」 「冷戦時代の戦役で戦死したと聞いている」 「……」 これはいったいどういうことなのか。 瞬は、くらりと大きな目眩いを感じた。 懸命に考えを整理しようとして、だが、どんなに整然と考えを整理できたとしても、それで得られるものは推論でしかないことに気付く。 事実を知っているのは、あの少女だけなのだ。 思考と感情が入り乱れる 頼りない状況で、その結論ともいえない結論に辿り着いた瞬は、目ではなく手探りで自分の服を探し、身に着け、そして、そのまま部屋を飛び出した。 「瞬っ!」 それは、氷河の目には突拍子のない行動に見えたのだろう。 訳のわからない言動を繰り返す恋人の名を呼ぶ氷河の声が聞こえたが、瞬は今は立ち止まり振り向いてはいられなかった。 あの少女は誰なのか、それを確かめなければならない。 「会いたいの。今すぐ会いたいの。お願い。あのアーチを出して!」 夏の早朝。 薔薇の花の上には、まだ朝露が消えずに残っている。 虚空に向かって、祈る思いで叫んでから、瞬は自分が裸足でいることに気付いた。 白いシャツブラウスを一枚 羽織っただけの姿で、あの少女の前に立つことの失礼にも、その段になって 瞬は思い至ったのだが、目の前に あのアーチが陽炎のように浮かびあがってくるのを見た途端、瞬の中から すべてのためらいは消えてしまった。 会いたい人に、人はいつも会えるとは限らない。 今 この機会を逃したら、二度と会えない人かもしれないのだ。あの少女は。 蔓薔薇のアーチがはっきりした形になる前に、瞬はあの少女の住む世界につながる その門の中に飛び込んだ。 |