そこは、今日も春の日の午後だった。
暖かい水色の空と うららかな陽射しが、世界を包んでいる。
小さな川が作る水音に混じって、彼女の歌が聞こえてきた。

  「ある時 あの子は この橋を渡り
   何も言わずに姿を消した
   何も言わずに姿を消した」

おそらく、それが、氷河が母親に一度だけ教えてもらったという3番の歌詞なのだろう。
“あの子”はどこに行ったのか。
そこは、橋のこちら側に残された子供には足を踏み入れることのできない国なのか。
そもそも二人がいた世界は どういう世界で、橋の向こう側は誰がいる世界なのか――。
それは不思議な歌だった。
誰が生きているのか。
橋のこちら側とあちら側の、どちらが希望のある世界なのか。
どちらが過去で、どちらが未来なのか。
何もかもすべてがわからない。
ただ、彼女の歌う歌が 幸福だった二人が別れる歌だということだけが、確かなことだった。

「君は誰なの」
瞬は、少女に向かって尋ねた。
そして、彼女がもし 自分が思っている通りの人だったらと考え、急いで言葉を改める。
「あなたは誰なんですか」

少女は、瞬の問いかけには答えを返してこなかった。
逆に、瞬に尋ねてくる。
「あなたはあの子を幸せにできるの。あの子を寂しくさせないことができるの」
「僕は――」
彼女の言う“あの子”が氷河であるのなら、この人はやはり――と、瞬が全身を緊張させた時、
「瞬、どこだっ! 瞬!」
“あの子”の声が、春の野に響いてきた。
「氷河……」
瞬が 声の主の方を振り返ると、“あの子”は、瞬の姿を見い出して ほっと安堵したような顔になった。

「おまえは夕べから異様に大胆だぞ。そんな格好で外に出て、星矢にでも見付かったら、どう説明するつもりなんだ」
シャツブラウス1枚の瞬の姿を 氷河が軽い口調でからかってみせたのは、尋常では考えられない春の野の出現に、実は彼が心身を緊張させていたからだったらしい。
瞬に直接触れられるところまで来ると、氷河は少し真顔になった。
「突然消えるから、また変な神にさらわれたのかと思った。ここはどこだ。エリシオン……ではないな」

ここはハーデスの神殿のない真の死者の楽園エリシオンなのかもしれないよ――。
ふと脳裏に浮かんできた考えを、瞬は言葉にすることはしなかった。
視線で、氷河に、金髪の女の子を示す。
ナターシャの姿を認めた氷河は しばらく、その見知らぬ金髪の少女に 怪訝そうな視線を投じていた。
やがて それが誰なのかということに気付いて瞳を見開き、唇の端から かすれた声を洩らす。
「マーマ……」

そうだったのだ。
彼女は、氷河が母の名を名付けた彼の娘ではなく、その名の本来の持ち主だったのだ。
愛する息子のために その命を投げ出した美しい女性というイメージが強かったので、瞬の中では、氷河の母親と幼い少女の姿が重なることがなかった。
幼い少女が、“あの子”ではなく、瞬を見詰めてくる。

「私は知っているの。私のママが言ってた、パパと一緒にいる暗い髪の綺麗な男の人っていうのはイエス様のことなんだって。パパはもういない。パパは、私とママを残して死んでしまったの。いつか一緒に暮らせる日っていうのは、私とママが死んで、パパのところに行く時のことなの」
「あ……」
「私は寂しかった。ママが寂しそうにしているから悲しかった。だから、私だけは寂しい人を作るまいと思っていた。なのに、私は……私も あの子を一人にしてしまった……」

それが彼女の悲しい心残り。
氷河のために命を失ったことを後悔してはいなくても――彼女の真の願いは、氷河と共に生き続けることだったのだ。
「あの子を一人にしない人じゃないと、私はあの子を渡せない。あなたは冥界で、一度 生きることを放棄し、死のうとした」
だから、彼女は瞬の前に現われたのだ。
懸命に生きようとして死を余儀なくされたのなら、それは仕方がない。
だが、自分から死を望むような弱い者に“あの子”を委ねるわけにはいかないと考えて。

「僕は、もう二度とあんなことは考えない。僕はずっと氷河と一緒にいる。僕は絶対に、氷河を一人になんかしない」
瞬は、我が子を思う母親に、ほとんど何も考えずに そう答えていた――断言していた。
本当は生きていたいという思い、生きて仲間たちと共に在りたいという気持ちは、世界を守るために死を覚悟した あの時に最も強く、瞬の心を支配していた。
それでも、希望をもって生きる人々のために、仲間たちの命と希望を守るために、瞬は あの時 我が身の消滅を決意したのだ。
あの死の決意は、誰よりも何よりも生を望む瞬の叫びだった。
多くの人々を、仲間たちを、氷河を、生かすためでなかったら、瞬は決してあの決意に至ることはできなかったのだ。
その思いに気付き感じてもらえるのか、その言葉を信じてもらえるのか――。
嘘をついたつもりはないし、軽い気持ちで そう断じたわけでもない。
それでも、彼女の裁断を待つ間、瞬の心は不安に揺れていた。

瞬を無言でじっと見詰めていた少女が、やがて ふっと その目許を緩める。
「なら、いいわ」
吐息のような声で そう告げてから、彼女は瞬に微笑みかけてきた。
「そんなに緊張して恐がらなくても――この子が好きだという人を、この子から引き離すようなことを、私がするはずがないでしょう。この子をよろしく」
「あ……」

彼女が求めていたのは、死なない人間ではなく、いついかなる時も生きようとする人間だったのかもしれない。
彼女は、瞬の人となりを見極めるためではなく、瞬に生きる覚悟を促すために――“この子”を悲しませないでくれと頼むために、瞬をこの場に呼び寄せたのだったかもしれない。
そう、瞬は思ったのである。
アンドロメダ座の聖闘士より詰めの甘い――あっけないと言っていいほど甘い――彼女の裁定の言葉を聞いて。
彼女はただ、我が子が寂しい人間になる可能性を少しでも減らしたいと考えて、そのためだけに、瞬をこの春の野に呼んだのだと。

母の願いが切なくて泣きそうになった瞬の横に立つ氷河を、彼女が愛しげに見詰める。
姿は人形のように可憐な少女。
だが、彼女は確かに母親の目をしていた。
我が子の幸福だけを祈り願う母の眼差しをしていた。
「いったい……」
その彼女の息子は、幼い少女の姿をした母と恋人が、彼等の息子と恋人を無視して勝手に会話を成立させていることへの戸惑いの中から、まだ抜け出すことができずにいたらしい。
何がどうなっているのかと問いかけようとした氷河の声を、彼の母が遮る。
「氷河」

彼女は、彼女がなぜここにいるのか――というより、なぜ瞬がここにいるのか――を、我が子に説明する気はないようだった。
大きくなってしまった小さな息子に、彼女は、氷河の求めるものとは全く違うことを語り始めた。
「あの歌には4番もあるのよ。教えてなかったわね」
「え」

  「この橋の上を あの子と影とが
   大きな夢小さな夢ロンド踊る
   大きな夢小さな夢ロンド踊る」

“影”は、“あの子”を求める生者なのか、“あの子”を求める死者なのか。
あの子と影を見詰めているのは、あの子と違う世界に存在することを余儀なくされた母親なのか、母子の愛を見詰めていることしかできない恋人なのか――。
涙で何も考えられなくなってしまった瞬の視界で、次第に春の野の光景がぼやけていく。
その歌が、この夢幻の舞台のエンディングだったらしく、その歌の最後のリフレインの響きが消えた時、瞬は氷河と共に城戸邸の夏の庭の中にいた。
そこで咲いているのは、無数の小さな白い鈴のようなシロツメクサの花ではなく、赤やピンクや白の薔薇の花。
薔薇の花や葉の上にあった朝露は既に消えてしまっていた。






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