その夜、寝台に横になっても、瞬は なかなか眠りの中に落ちていくことができなかったのである。 そんな瞬の許に、来客が一人あった。 もっとも、彼は、実際に瞬の許にやってきたのではなく、瞬の視覚に作用しているそれは、幻影にすぎないもののようだったが。 突然 音もなく部屋の中空に現われた黒尽くめの男が、冥府の王ハーデスだと、瞬には すぐに察することができた。 彼は、瞬がアテナの話から想像していたよりも、はるかに造作の整った若い男だった。 真の黒とはこういう色なのかと思えるほど暗い色の髪と瞳。 彼は確かに、自己愛という病に取り憑かれていると言われれば、さもありなんと得心できるほど美しい容貌の持ち主ではあった。 もっとも、今の瞬の目には、誰も氷河より美しく映ることはできなかったが。 その死の国の王が、瞬の心を見透かしたように、瞬に諦めを促してくる。 あるいは彼は、瞬の恋に気付いたからこそ、人間界にその姿を投射するなどという行為に出たのかもしれなかった。 「諦めろ。あの男は、どうしようもないほど臆病な男なのだ。戦い以外のものを愛する勇気がない。愛するものを失うことを恐れ、すべてから逃げている。おまえの思いは報われない。諦めて、余のものになれ」 初めて会った人間に、しかも その実体を運んでくることもなく『余のものになれ』とは。 神というものは皆このように自分の都合しか考えていないものなのかと、瞬は呆れた――否、瞬は腹が立った。 『余のものになれ』という一方的な要求にではなく、『諦めろ』という、人の心を無視した命令に。 「いや。氷河は、きっと本当は戦い以外のものを愛したがっているの。僕は必ず、氷河を 戦い以外のものを愛することのできる人にする」 「さて。あれほど臆病の色に染まってしまった者が、今更 そんな勇気を持てる者になれるかどうか。あの男は、自分が傷付かぬために、平気でおまえを傷付けることのできる――」 得意げに、瞬の前で氷河の弱さをあげつらっていたハーデスが、ふいに その言葉を途切らせる。 何が起こったのかと瞬が四方に意識を向けかけた時、瞬の部屋の扉がふいに開けられた。 扉を開けたのは この館の持ち主で、どうやら彼は、彼の母の優しい思いの染みついた館に 異質な何かが入り込んだのを感じて、深夜にもかかわらず、客人の部屋を訪ねてきたらしい。 そこに館の主の許可を得ずに入り込んだものがいることに さほど驚いた様子を見せず、氷河は漆黒の侵入者を険しい目で睨みつけた。 「貴様は何者だ」 「余は諦めぬぞ。必ず、そなたを余のものにする。 不粋な闖入者の登場に、ハーデスは興を殺がれてしまったらしい。 氷河にあてこするように そう言うと、死の国の王は、もともと幻影にすぎなかった自らの姿を、二人の人間の前から唐突に消し去った。 「あれは」 ハーデスの姿のあった虚空を睨んだまま、氷河が短く問うてくる。 「ハーデス。死の国の王です」 瞬も、氷河に短い答えを返した。 『あの男は、愛するものを失うことを恐れ、すべてから逃げている。おまえの思いは報われない』 ハーデスの残していった言葉が胸に刺さり、死の国の王が ここに姿を現わすに至った経緯を長々と氷河に説明する力が、今の瞬には持てなかったから。 「おまえを永遠に諦めないと言っていた」 「悪ふざけです」 「おまえの命を奪おうとしているのか」 「その方がましですね」 「では、その……やはり、おまえで興奮するために」 消さずにいた燭台の灯りと、ベランダの向こうから射し込んでくる白い月の光。 室内には、氷河の様子を確かめる 氷河が用いた言葉に、瞬は我知らず苦笑してしまったのである。 確かに、冥府の王がアンドロメダ座の聖闘士を求める目的は それなのだろう。 瞬は、あえて 他の婉曲的な言い回しを探す気にもなれなかった。 「そのようです」 「おまえは、誰かと一緒にいて……その、興奮したことがあるのか」 「氷河と戦っている時には興奮したかな。負けるかもしれないって、本気で思った」 負けるかもしれないと、本気で瞬は思った。 アテナの聖闘士が、普通の人間に。 そんなことがあってはならないと思い、瞬は氷河と拳を交えながら、彼の中に小宇宙の気配を探したのである。 氷河も聖闘士であったならら、たとえ彼に負けることがあったとしても多少は聖闘士としての面目が立つと考えて。 氷河も聖闘士であったなら、永遠は無理でも、死ぬまでは 共に戦っていられると期待して――夢想して。 期待は期待でしかなく、瞬の夢想はあえなく消えることになってしまったのだが。 だが、瞬は、そうであればいいと夢見た。 戦いしか愛さないと公言している人と、ずっと一緒にいられたらいいのにと、瞬は叶うことのない願いを願ったのだ。 そんな自分を顧みて、瞬は ふいに泣きたくなった。 「……僕が、氷河を永遠に愛すると言ったら、氷河はそれを嘘だと思う?」 「俺はいつか死ぬ。おまえの言葉は、結局 嘘になるだろう」 勇気を振り絞って告げた言葉に、予想通りの答えが返ってくる。 そんな氷河の考え方が、瞬は憎かった。 「僕の言う永遠は――僕は、氷河の命や肉体のことを言っているんじゃないの。氷河を愛する僕の心が永遠だと言っているの! どうしてわかってくれないの……!」 耐え切れず、瞳から涙が零れ落ちる。 瞬の涙に気付いているはずなのに、氷河は、瞬を慰める言葉の一つも かけてはくれなかった。 とはいえ、氷河は瞬の涙に嫌悪や不快を感じたわけでもなかったらしい。 涙に暮れる瞬を一人残して部屋を出ていったりはせず、彼は、顔を伏せ肩を震わせている瞬の枕許にやってきて、 「俺は、今日、この地上に戦い以外にもう一つ、永遠の存在があることに気付いた」 と、彼にしては静かな声で告げた。 「え?」 突然 思いがけないことを言われて驚き、瞬は俯かせていた顔をあげたのである。 そこには 穏やかなのか激しているのかの判断が難しい青い瞳があって、それは 瞬をじっと見詰め見おろしていた。 「それは何」 「希望だ」 「希望――」 氷河が見付けた もう一つの永遠の名を、瞬は――瞬も唱えてみた。 氷河の右の手の指が、瞬の目尻に残っていた涙の雫を拭い取る。 「愛するものを失っても、戦い以外に永遠と思えるものがなくても、人が生きていられるのは、どんなに絶望的な状況にあっても 人の心が希望を生み続けるからなのに違いないと思った」 「うん……。素敵な答えだね」 瞬は たった今 一つの希望を失ったばかりだったが、氷河が見付けた戦い以外の永遠を否定する気にはなれなかった。 氷河の見付けた答えは正しいだろう。 今は絶望的な状況にあるアンドロメダ座の聖闘士も、いつかは別の希望を探し出し、その希望に支えられて、生きることを続けるだろう。 その希望が“氷河”より大きく力強い希望になってくれるとは、 今の瞬には思うことができなかったが、いずれアンドロメダ座の聖闘士が“氷河”以外のささやかな希望を見い出すだろうことは、今の瞬にも確信できることだった。 生きている人間には、永遠に希望が必要なのだ。 「母が恋しいなら、さっさと死んでしまえばよかったんだ。なのに、母のいた場所に戦いなんて不粋なものを据えて、それでも俺が生き続けてきたのは、いつかきっと本当に 母に伍する価値のある何かに出会えるという希望を、俺が捨て切れなかったからだったのだと思った。生き続けていた甲斐があった。俺は おまえに会った」 「え……」 気がつくと、氷河は瞬の寝台の枕許に腰を下ろしていた。 瞬の涙を取り除いてくれた指と手が、瞬のうなじにまわっている。 「氷河……あの……」 「おまえのことを思うと、興奮して眠れないんだ。瞬」 「あ……あの……」 せめて今、この部屋が真の闇に包まれていてくれたならと、瞬は思ったのである。 残念ながら、室内には人工の灯りと自然の灯りとがあって、そこは、氷河の表情を確かめるには十分すぎるほど明るい。 あろうことか氷河は至って真顔で、彼の青い瞳には、真夏の太陽もこれほどにはと思えるほどの熱がこもっていた。 「あんなに強い おまえが、俺の下で大人しくしている様を想像するだけで猛ってくる。自分の意思では抑えられない」 瞬は、この深夜に氷河が客人の部屋にやってきたのは、彼がハーデスの気配を感じとったからなのだと思い込んでいたのだが、もしかしたらそうではなかったのかもしれない。 それもあったのかもしれないが、どうやら それだけではなかったようだった。 「ぼ……僕が、氷河の下で大人しくなんかしていると思うの」 「大人しくしていてくれないのか?」 「あ……」 昨日までの氷河がそうだったように、自信に満ち何かに挑むような態度の氷河に問われていたのなら、瞬は彼に反発してしまっていたかもしれない。 どこか不安げに、それでも希望を捨て切れない素直な子供のような目をして 氷河が尋ねてくるから、瞬は彼を突き放してしまうことができなくなった。 戸惑い、僅かに瞼を伏せた瞬の唇に、氷河の唇が重なってくる。 その唇の熱さと氷河の身体の重みが、まもなく 瞬の瞼を完全に固く閉じさせてしまうことになった。 瞬は、その夜、氷河の下でずっと大人しくしていた。 その代償として瞬が得たものは、好敵手と戦っている時に感じるそれより百倍も強く激しい興奮と歓喜と、そして、 「俺はおまえを、この地上に存在する何よりも愛している。戦いなど、おまえの髪の毛一本ほどの価値もない」 という氷河の言葉。 ハーデスの敗北と 聖域の勝利を決定づける氷河の誓言だった。 |