瞬が星矢と共に冥界のジュデッカに辿り着くまでの戦いは、おそらくハーデスの命令によって行なわれたものではなかったのだろう。
それは、冥闘士たちが、あるいはパンドラが、ハーデスのために――それがハーデスの望むことと思い込んで――勝手に引き起こした余計な戦い。
そして、その余計な戦いに黄金聖闘士たちが――生きている黄金聖闘士たちも、生者でなくなっていた黄金聖闘士たちも――巻き込まれてしまっただけのこと。
ハーデスが それらの戦いに干渉しなかったのは、余計な騒ぎが巻き起こっても、その結果が 瞬を自分の許に運ぶ事態を生じせしめるならば それでいいと考えていたからだったに違いない。
あるいは、余計な戦いがあろうとなかろうと、瞬は その運命に従って必ず冥府の王の許にやってくると、ハーデスは信じていたのかもしれなかった。

そして、実際に、瞬はハーデスの許に運ばれてきたのだ。
その身を冥府の王の捧げるために。
それが瞬の避け得ない運命であることを証明するかのように。
ハーデスは、彼の許にやってきた瞬を、神の力によって すみやかに我が物にした――我が物にしようとした。
しかし、氷河が漆黒の髪をした瞬の前に立つことになったのは、瞬のように 運命に導かれてのことではなかった。
彼は、冥府の王の力によって、そこに連れてこられたのだ。
冥府の王の理想である“完全に美しい世界”を実現するために。

その時、ハーデスはまだ瞬を完全には支配できていなかった。
漆黒の髪をした瞬は、懸命にハーデスの力に抗いながら、彼の仲間たちに訴えた。
「僕を殺して」
「僕に、世界を滅ぼすようなことをさせないで」
と。
だから、氷河は、ハーデスの圧倒的な力によって倒された星矢と、弟への抗い難い愛情に屈服させられた瞬の兄の前で、瞬の望みを叶えてやったのだった。
漆黒の髪の瞬を、氷の棺に閉じ込めることによって。

「氷河、おまえ……」
氷河が 一瞬の迷いもなく 瞬の哀願を聞き入れ、これまで命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間の身体を その凍気で包んでしまったことに、星矢は驚き――驚いたというより、彼は、氷河の為したことを信じられずにいたのかもしれない。
弟への情愛に その拳を捕えられて、弟の命を奪うことができなかった瞬の兄もまた、氷河の躊躇のない攻撃に呆然としていた。
否、彼は むしろ後悔していたのかもしれない。
どうあっても失われなければならない命なら、なぜ兄が そのつらい務めを果たしてやれなかったのかと。

「氷河……」
いずれにしても、二人は、仲間を奪われても、弟を奪われても、表情も変えずに その冷酷を為した男を責めるわけにはいかなかった。
「こうすることが必要だと思ったんだ。瞬は、自分が人類滅亡の片棒を担がされることを望んではいなかった」
無感動にも思える声で、氷河に そう言われるまでもなく、彼等は氷河を許すことしかできなかったのである。

氷河とて、喜んで仲間の命を奪ったわけではないだろう。
地上に生きて存在する数十億の命の重さと 瞬の命の重さは同じ。
もしかしたら、数十億人分の命より 瞬一人の命の方が、氷河には重いものだったかもしれないのだ。
大切な仲間の命の火を 自らの手で消してしまった氷河は、仲間を奪われ弟を奪われた者たち以上に傷付いているに違いない――。
星矢たちはそう思ったし、事実もそうだったろう。
氷の棺に閉じ込められている瞬の姿から視線を逸らさずにいる氷河の肩は、見るからに力がなく悄然としていた。

だから、星矢たちは、生きている仲間たちの方を振り返ることもなく、氷河が告げた言葉に頷いてやったのである。
「すまん。しばらくの間、俺を一人にしてくれ。あとは、アテナが 神の力でハーデスの復活が成らぬようにすればいいだけのはず。ハーデスがこうして氷の棺に閉じ込められた今、おまえらの行く手を遮る者は、大した力を持たない雑魚ばかりだろう。俺の力がなくても――俺の力は必要ないな……?」
という、氷河の願いに。

今の氷河に『おまえも俺たちと一緒に来て、最後まで戦え』と言うことは、星矢にも 瞬の兄にもできなかった。
「あとから、きっと来いよ。まさかとは思うが、馬鹿なことは考えるな。おまえは、おまえがすべきことをした――多分、正しいことをしただけなんだ」
その場で最も傷付き、瞬の死によって最も大きな打撃を受けている(はずの)仲間に そう告げて、星矢と瞬の兄は 白鳥座の聖闘士に背を向け、ジュデッカを出たのだった。
氷河が作った氷の棺を見詰め、その中にあるものへの未練を無理に振り払って。






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