「馬鹿なことを考えるなだと?」
アテナの聖衣を持った星矢たちがアテナの小宇宙を追ってジュデッカを立ち去ると、氷河は、生きている者のいなくなった不吉な場所に自嘲めいた声を響かせた。
仲間の命を奪ったことを悔いた白鳥座の聖闘士が自らの命を絶つことを、星矢は案じたのだろうか。
そんなことがあるはずはないというのに。
今 氷河の目の前にある光景は、冥界に足を踏み入れる前から、彼が幾度も繰り返し その脳裏に思い描いていたもの。
現状は、完全に氷河の計画通りのものだったのだ。

氷河は、あの夜、瞬を我が物にしたいと言うハーデスに提案したのである。
『俺が瞬を殺す振りをするというのはどうだ? 瞬の死を目の当たりにすれば、アテナと星矢たちは、瞬を存在しないものとして、奴等の戦いを続けることになるだろう。瞬は死んでしまったのだから、当然、瞬を冥府の王から解放するために力を割くことはしない。結果として、瞬は、アテナと仲間たちに裏切られ見捨てられたことになる。仲間とアテナ――信じていたものを二つとも失った瞬は、その姿の通り、繊細で か弱い人間になってしまうだろう』
――と。

おそらく、ハーデスは、白鳥座の聖闘士の瞳の中にある闇を信じて、氷河の提案を受け入れた。
そして、このジュデッカで、氷河の提案通りに、氷河の計画通りに、さしたる抵抗もせず氷の棺に閉じ込められてしまったのである。
氷河を、聖域とアテナに対する裏切り者と信じていなかったなら、ハーデスは白鳥座の聖闘士の攻撃の前に無抵抗ではいなかったに違いない。

「残念だったな。ハーデス。その棺は誰にも熔かせない。瞬に救われなかったら、十二宮で俺が そうなっていたように――永遠に氷の棺の中で大人しくしていろ。瞬が一緒だ。それで満足することだ。貴様の人類粛清の計画は成らなかったが、少なくとも その棺の中は、完全に美しいものだけでできている世界だろう」
白鳥座の聖闘士の計画通りに 絶対零度の凍気の中に閉じ込められてくれたハーデスに、氷河は嘲るような口調で話しかけた。
――そのつもりだった。
だが、その時、氷河が話しかけた相手は、既に氷の棺の中にはいなかったのである。

形のない闇が、瞬の閉じ込められた氷の棺にまとわりついていた。
それが、白鳥座の聖闘士の嘲りを嘲るように 氷河の心の中に思惟を運んでくる。
それで、氷河は、瞬が閉じ込められている棺に まとわりついている闇がハーデスの魂だということを知ることになった。
「神の力を見くびりすぎたようだな。そなた、まさか本気で、こんな凍気で 余の魂を凍りつかせ封じ込めることができると思っていたのか? 仲間の身を犠牲にしてまで? 余は生身の人間ではない。死者の世界を支配する神なのだぞ。なんという愚かな浅知恵だ」

ハーデスは白鳥座の聖闘士を愚かと嘲笑ったが、氷河は彼のその言葉には いかなる怒りも屈辱も感じなかった。
“愚か”はアテナの聖闘士の身上。
愚かなほどアテナを信じていることが、アテナの聖闘士の取りえなのだ。
「俺はアテナの聖闘士だ。アテナの聖闘士がアテナを裏切ることなど ありえない」
「では、アテナの聖闘士というものは、皆愚かだ。瞬を この冷たい棺から出せ」

氷河は、ハーデスの嘲弄の言葉には怒りも屈辱も覚えてはいなかったが、冥府の王のその命令には怒りと屈辱を感じないわけにはいかなかった。
それは、白鳥座の聖闘士の力では成し得ないことだったから。
「俺にできるのは凍らせることだけだ。溶かすことはできない。それができる力を持つのは、瞬だけだった。だが、この状態では、瞬は自分の小宇宙を燃やすこともできないだろうな……」
初めて自分の行動の無益に気付いた者のように悄然とした氷河の声音に、ハーデスはいささか――否、かなり――戸惑ったようだった。
それまでハーデスは、冥府の王を封じるために氷河は仲間の身を犠牲にしたのであって、冥府の王を封じることが不可能とわかれば、当然 白鳥座の聖闘士は彼の凍気から仲間を解放するものと――そうすることができると 思っていたらしい。

「しかし、瞬は死んではいない。死んだのであれば、その魂が肉体を離れて冥界にやってくるはずだ。だが、瞬の魂は未だに冥界には来ていない」
「氷の棺に閉じ込められた人間には、真の死は訪れないんだ。以前、俺が氷の棺に閉じ込められた時も、俺は生きながら死んでいるような状態になった。あの時は、瞬が俺の身体を温めて蘇らせ、行き場を見付けられずに 生死の境界を浮遊していた俺の魂を俺の肉体に呼び戻してくれたが、その瞬自身が凍気の中に閉じ込められているのでは――」
瞬は二度と氷の棺から出ることはできない――瞬は生き返ることはできない――その結論までを、氷河は言葉にすることはしなかった。

解毒剤を持たない毒物使いは、人の命を奪うことはできても、人を自分の思い通りに動かすことはできない。
氷河の為したことは、ハーデスにとっては そういう愚行だったのだろう。
冥府の王が唯一 生き延びさせようとしていた人間を、全人類の命の存続を望んでいたアテナの聖闘士が殺してしまった――のだ。
「それでは、余は瞬の身体で、冥界と地上の王として世界に君臨することができないではないか。余は、ずっと その時を、その姿を思い描いて、雌伏の時を過ごしてきたというのに……!」

「瞬が貴様に利用される事態を未然に防げたことだけが 救いだ。俺は瞬の身体を その魂ごと氷の棺の中に封じてしまった……」
自らが作り出した氷の棺に手を添えて、氷河が低く呻くように言う。
ハーデスは、白鳥座の聖闘士の上に、敵と戦い倒すという気概や覇気を感じ取ることができなかった。
白鳥座の聖闘士は完全に戦闘意欲を失っている。

では、瞬の身体は二度と命と自由を取り戻すことはないのだ――。
ハーデスは、瞬の身体を支配し、その身体で 二界の王となることを諦めるしかなかった。






【next】