ハーデスの魂はどこへ行ったのか――。
地上で最も清らかな人間の身体が利用できなくなったからといって、二番目に清らかな人間の身体で代用するなどということは、ハーデスには到底できないことだろう。
冥府の王は、そんな 無様なことを自ら望んで行なうことができるような男には見えなかった。
となれば、彼は、その魂だけで彼の野望を成し遂げようとするのか、あるいは、どこかにある彼自身の肉体を持ち出して、その野望達成のために邁進することになるのか。

どちらであっても、ハーデスの野望はついえるしかないだろう――と、氷河は思った。
思ってから、そんなことはどうでもいいことだと、再び思う。
そんなことはどうでもいいことなのだ。
ハーデスが瞬を諦め、瞬への執着を忘れてくれさえすれば。

「瞬……」
氷河は、氷の棺に向かって呼びかけた。
声には出さず、その心で。
「瞬、聞こえるか」
瞬になら感じ取れるはずの、聖闘士の小宇宙で。
「氷河……聞こえるよ」
答えは必ず返ってくると信じてはいたが、優しく温かい瞬の小宇宙に触れて、氷河はほっと安堵の息を洩らした。
光のない このジュデッカを、光の作り出す暖かさが包み始めたような気がする。
氷の棺に触れても、氷河は もうどんな痛みも感じることはなかった。

「もうハーデスはいない。奴はおまえの身体で、世界を滅ぼすことは諦めた。おまえはもう死ぬ必要はない」
「本当に?」
「ああ、もう安全だ。溶かせるか、この棺」
「氷河……もしかしたら、僕の身体をハーデスから解放するために、こうしてくれたの?」
「死なせるつもりは、最初からなかった。だが、奴がおまえを支配しようとしている限り、おまえは自分の死を考え続けるだろうから、おまえが本当に生きていられるようにするには こうするしかないと思ったんだ」

すべては今のところ・・・・・氷河の計画通りに進んでいた。
氷河の計画通りに、ハーデスは、白鳥座の聖闘士を“愚か”と信じてくれたのだ。
棺の中の温かい小宇宙に向かって、氷河が ふっと笑う。
「だが、内心では、どうなることかと はらはらしていたぞ。おまえは人を騙すのがへただから。いつ、自分は死んでないと言い出して、ハーデスに俺の企みを知らせてしまうんじゃないかと案じていた」
「氷河が、僕のお願いを、あんなに素直にきいてくれるはずがないって思ったから……。氷河には何か考えがあるに違いないって思ったの」
「おまえ、それは褒め言葉になっていないぞ」
苦笑を作ってそう言うと、氷河はすぐに真顔に戻った。

「この棺は、生きたいという意思のある人間は殺すことのできない棺だ。一か八かの賭けだったが、おまえならきっと生き延びてくれると――生きようとしてくれると信じていた。おまえは、天秤宮で氷の棺に閉じ込められた時の俺なんかより、はるかに強いからな」
「あの時の氷河も強かったよ。本当は生きていたいと、あの時の氷河は強く望んでいた。……ありがとう」
「生き返ってくれ。その棺を出て、俺のところに戻ってきてくれ。俺は凍らすしか能のない聖闘士だから、おまえに力を貸してやれない」
「氷河がそこにいてくれるだけで、僕は氷河から力をもらっているよ」

凍らせることしかできない聖闘士が、本当に 氷の棺を消し去ろうとする瞬の力になり得たのかどうかは 氷河にはわからなかったが、瞬は確かに その小宇宙で 彼の自由を奪う氷の棺を跡形もなく消し去ってみせた。
淡い色の髪をした瞬が、再び、氷河の前に現われる。
さすがに心身の消耗は激しいようだったが、それでも瞬は ふらつく足で前に・・進もうとした。
氷河が、そんな瞬の身体を両の手で抱きとめる。

「おまえの身体はまだ冷たいぞ。十二宮での時のように、今度は俺がおまえを温めてやろうか」
冗談めかして、氷河は瞬にそう言い、実際に彼は瞬の身体を抱きしめた。
冷えた瞬の身体を温めるためにではなく、仲間の許へ向かおうとする瞬を この場に引き留めるために。
「急ぐ必要はない。おまえは死んだと、もう生き返ることはないと、ハーデスは信じている。あんな間抜け、星矢たちが簡単に倒すだろう」
「でも、急いだ方がいいでしょう? 僕が死んでしまったと思っているのは、ハーデスだけじゃなく、星矢たちもなんだから。僕が生きていることを知らせて、安心させてあげなくちゃ」
「焦るな。星矢たちは必ずハーデスを倒す。おまえは それまでハーデスに姿を見せない方がいい。おまえが生きていることを知ったら、あの間抜けは またおまえの身体を利用しようとするかもしれない」
「あ……うん。そうだね……」

気は急くが、氷河の言うことにも一理ある――と、瞬は思ったのだろう。
何より瞬は、自分の存在が星矢たちの負担になることだけは絶対に避けたかったに違いない。
氷河にそう言われると、瞬は氷河の胸の中で大人しくなった。
実際、氷の棺から脱出なったばかりの瞬の身体には、人の体温が必要だったのかもしれない。
瞬は、氷河の背に腕をまわし、更なる温もりを求めるように氷河にしがみついてきた。






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