陽光のないところでは、時間の流れがわからない。
抱き合っている二人の上を どれだけの時間が流れていったのか――。
「瞬。戦いのないところに行かないか」
氷河が瞬の耳許で そう囁いたのは、瞬が氷河の体温の心地良さに 時間を意識することを忘れかけた頃だった。
それは低く小さな声だったが、他にどんな音も存在していない場所で、その声は極めて明瞭なものとして瞬の耳に届けられた。
だが、瞬は、自分は氷河の言葉を聞き違えたのだ――と思ったのである。

「え?」
「俺と」
尋ね返した瞬に、氷河が短い答えを返してくる。
言ってみれば戦場の真ん中で、氷河は 本気でそんなことができると思っているのか、それともそれは ただの冗談なのか。
氷河の真意を確かめるために、瞬は、氷河の胸に押し当てていた頬を離し、仲間の顔を覗き込もうとしたのである。
瞬を強く抱きしめた氷河の腕が、瞬に そうすることを許してはくれなかったが。

「氷河、何を……」
「そのために、ハーデスを欺き、アテナを欺き、星矢たちをも欺いた。俺以外の誰も、おまえが生き返ったことを知らない。俺がここで姿を消したとしても、星矢たちは さほど不思議に思うことはないだろう。俺は 仲間の命を奪った自責の念に耐えかねて失踪したのだと、星矢たちは思うに違いない。瞬。戦いのないところに行こう。俺と二人で」
「あ……」
「こうでもしないと、おまえは俺のものにならない。戦いに縛られ、仲間に縛られ、女神に縛られ、おまえはがんじがらめだ。そういう生き方を、おまえ自身が望んだわけではないのに」
「氷河……」

瞬が切なげな目をして、それでも氷河に笑いかけたのは、彼が告げた言葉を冗談にする機会を 氷河に与えるためだった。
瞬の意図――瞬が何を望んでいるのか――に気付いているはずなのに、氷河は瞬に笑い返すことはせず、彼の発言を冗談にすることもしない。
氷河は、険しい眼差しで瞬を見詰めているだけだった。
だから、瞬も、無理に作った笑みを消し去るしかなかったのである。
真顔になって、つらい口調で、瞬は、
「みんなを騙して、僕だけ戦いから逃げることはできないよ」
と、氷河に告げることしかできなかった。

「俺と一緒でも?」
苦しげな氷河の訴えにも、
「氷河……!」
瞳を潤ませて彼の名を呼ぶこと以外、瞬にできることはなかった。

だが、氷河は、そこで引き下がるわけにはいかなかったのである。
彼は、この場面を作るために、神だけでなく、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間たちをも欺いたのだ。
簡単に瞬の涙に屈してしまったのでは、(矛盾した話だが)星矢たちに申し訳が立たないと、氷河は思った。
「瞬。俺は、おまえが好きなんだ。ずっと好きだった。だが、言えなかった。おまえと俺は、アテナの聖闘士で、仲間同士で、そして、同性同士だ。アテナが俺たちを縛り、仲間たちが俺たちを縛り、人間が作った社会のルールが俺たちを縛る。こうでもしなければ、すべてを欺かなければ、俺の恋は成就しない」
「僕は そんな恋なんかいらない。僕はアテナの聖闘士だ。アテナと星矢たちのところに行く」
「瞬……!」

すべては、氷河の計画通りに進んでいたのだ。
たった今まで。
瞬を利用して地上を死の世界にしようとするハーデスの企みを挫き、それによって、瞬が地上に生きる人々の命を奪う事態を免れさせた。
瞬の命が消えたことにすることで、瞬がこれ以上 戦わずに済むようにし、白鳥座の聖闘士が仲間たちの前から姿を消しても 誰も奇異に思わない状況を作った。
すべては氷河の計画通りだったのに、そして、その計画は瞬のために立てられたものだったというのに、他ならぬ瞬が、その計画を崩壊させようとしている。
なぜ こんなことになるのかが、氷河にはわからなかった。

「僕は氷河を好きだよ。特別に好きだよ。氷河は、僕の気持ちを薄々でも察していてくれたんでしょう? だから、こんなことをすることもできた」
その通りだった。
どれほど瞬に焦がれていても、瞬の心を無視して こんな計画を立てられるほど、氷河も無謀な男ではなかった。
自分の思いが瞬に通じていると思えばこそ、瞬の前に身を投げ出して懸命に訴えれば 瞬は折れてくれると信じればこそ、氷河はこの計画を実行に移すことができたのだ。
その上、瞬は戦いに倦んでいる。
戦いのない世界に行く機会が与えられれば、瞬はきっとその誘惑を拒み通すことはできないだろうと、氷河は思っていた――期待していたのだ。
だが、その計画と期待は、砂上に築かれた楼閣のように儚い夢想にすぎなかったらしい。

「僕は氷河が好きだよ。ほんとに好きだよ。でも、僕は、アテナや星矢たちを欺くことも、戦いから逃げることもできない。僕はアテナの聖闘士で、星矢たちの仲間で――自分がそういうものであることが、僕の幸福で、僕が生きているってことなの」
人を傷付けることを厭う気持ちより強く、戦いを恐れる気持ちより深く、人を恋する気持ちより切なく――瞬には、他に欲するものがあったのだ――。

「……そうか。そうだろうな……」
瞬の心を無視して、この計画を貫くことはできない。
瞬の断固とした拒絶の前に、氷河は唇を噛んで瞑目するしかなかった。






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