二人で過ごす時間が永遠であればいいと願うあまり、氷河は、自分に与えられている時間に限りがあることを忘れかけていた。
ハーデスが、彼の敵であるアテナの聖闘士の恋のために、時を待っていてくれるはずがないというのに。

氷河に、その残酷な事実を思い出させてくれたのは、あろうことか冥府の王当人だった。
氷河は、しかし、突然 白鳥座の聖闘士の恋の前に立ちはだかった冥府の王に恨み言の一つを言うこともできなかったのである。
その時、氷河は、『今夜はどちらが寝台を使い、どちらが床の藁布団を使うか』などという 他愛のないことで――人類の存亡がかかった戦いに比べれば“他愛がない”としか言いようのないことで――瞬との長談義に興じていたところだったから。
ハーデスに恨み言を言う以前に、聖域に対して申し開きもできないような状況下で、氷河は初めて冥府の王の存在に接触することになったのだった。

「アテナの聖闘士が先回りとは」
最初 瞬は、その声を発したものを、ランプの光が作り出した大きな影と思ったらしい。
声が生まれた場所とは逆の方向に、瞬は視線を走らせた。
瞬の誤認は、だが、致し方ないものだったろう。
なにしろ、その声の主は宙に浮いていたのだ。
その漆黒の人間は――人間の姿をしたものは――人間ではなかった。

「だ……誰……」
漆黒の神の答えを聞くまでもなかった氷河は、咄嗟に瞬の肩を自分の方に引き寄せた。
瞬が 彼を抱きしめている男の胸の中で大人しくしているのが不快だったのか――ハーデスは、アテナの聖闘士がここにいること自体が、そもそも不快だったろうが――彼は穏やかで冷ややかに聞こえる声に苛立ちを見え隠れさせながら、瞬に告げた──命じた。
「瞬。余の許に来い。その男は危険だ。その男は、そなたを殺すために ここにやってきた聖域からの刺客なのだぞ」
「え……?」

闇が恐い瞬は、闇そのものと言っていい死の国の王を視界に入れることさえ恐れるように、氷河の胸に顔を埋めていた。
瞬がその顔をあげ、視線を冥府の王の方に向けたのは、ハーデスの告げた言葉に驚いたからではなく――ハーデスのその言葉を聞いた途端、瞬の肩を抱きしめていた氷河の手に異様なほど強い力がこめられたからだったろう。

「まさか……あなたは何を言っているの。あなたは誰」
「余は、死者の国を統べる神、すべての死せる人間が赴く国を支配する神。言ってみれば、すべての人間の命を支配する神だ。そなたは、余に選ばれた人間。余と共に、この地上に巣食う醜悪な人間共をすべて滅ぼし、その後に出現する美しい世界の王となるべく選ばれた者だ。この男は、そなたがここにいるから、ここに来たのだ。そなたの命を奪うために。でなかったら、アテナの聖闘士が 聖域から遠く離れた こんな辺鄙なところにやってくるものか」

「あなたの言っていることは変です。僕には人類を滅ぼす力なんてないし、氷河は親切で優しい人です。氷河が僕の命を奪うために ここに来たなんて、そんなこと、信じられるわけがない……!」
「その男が そなたに優しかったのは、そなたを油断させるためだ」
「信じない。氷河は僕に優しくしてくれた――僕を寂しくなくしてくれた……」
「瞬。冷静になって考えてみよ。そなたは、余にとってはかけがえのない者だが、他の人間共には 何の力もない無益な存在だ。そなたが余に選ばれた人間だから、その男は そなたに近付いてきたのだ。そなたを殺すために」

ハーデスの言うことは ほぼ真実だった。
だから、氷河は、冥府の王にどんな反駁をすることもできなかったのである。
無言で、唇を噛み、瞬の肩を抱いている手に力を込めること以外、冥府の王と瞬の前で 氷河にできることは何もなかった。
にもかかわらず――ハーデスの言葉を否定するどころか、弁明の一つも口にできずにいる男のために、瞬は闇の姿をした冥府の王を正面から見据え、もう一度 彼に断言してみせたのである。
「僕は あなたの言うことを信じません」
――と。

「そなたは、可愛らしい顔に似合わず、頑固だ」
ハーデスが、嘆かわしげに そう言い、そして、おそらく長く嘆息した。
「では、その男に聞いてみるがいい」
ハーデスが意外なほどあっさりと引き下がったのは、彼が どんな嘘もついていなかったからだったろう。
聖域からやってきた男が どんな詭弁で瞬を言いくるめようとしても、必然的に それは嘘になり、瞬に虚言を吐くような男は瞬の側にいる権利を有しない。
よほど愚かで卑劣な男でない限り、その男は瞬の前から逃げ出すしか採るべき道はないと、ハーデスは踏んでいたのだろう。
そして、聖域からやってきた者が もし愚かで卑劣な男であるのなら、その事実に気付かない瞬ではないと、ハーデスは考えていたのだ。

だから、ハーデスは、アテナの聖闘士が自ら聖域に逃げ帰ることを見越して――あっさりと その場から姿を消したに違いなかった。
そして、氷河は、ハーデスの考えた通り、冥府の王の姿が その場から消えても、瞬にどんな弁明をすることもできなかった。
否、言おうと思えば、氷河は身の証を立てるために 瞬に あれこれと言葉を募ることはできたのである。
氷河が瞬に何も言わなかったのは、瞬が聖域からやってきた男に何も訊いてこなかったから、だった。

闇のようなハーデスの姿が部屋の中から消えると、瞬は、氷河の方を振り返った。
そして、だが、何も言わなかった。
その無言が、聖域からやってきた男を信じているからなのか、疑っているからなのか――。
瞬の意図が、氷河はすぐには わからなかったのである。
やがて、その無言が、瞬は 聖域からやってきた男を信じてはいるが、瞬の目には現実が見えているからなのだと、理解する。
氷河が理解したことを見てとると、瞬は初めて その眼差しに やわらかい笑みを浮かべた。
そして、瞬は、控えめといっていいほど小さな声で、だが、全く迷いの感じられない声で、瞬の望みを氷河に訴えてきた。

「氷河……僕は氷河が好きなの。氷河と離れたくないの」
「俺もだ」
聖域から 自分の命を奪うためにやってきた刺客とわかっているのに、瞬は、その身体と心を氷河の手の中に委ねてきた。






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