瞬の姿が寝台の上から消えていることに氷河が気付いたのは、朝の光によって覚醒したからではなく、氷河の胸に上にあった瞬の手の重みが取り除かれたからでもなかった。 瞬が 氷河と寝台に残していた体温が完全に消え、氷河が自分の体温以外の熱を全く感じられなくなった時、彼はその事実に気付いた。 瞬の喘ぎが泣き声に変わり、その泣き声が悲鳴に似たものになり、その声すら かすれて、やがて無音になり――どんな愛撫を加えても瞬が溜め息ひとつ洩らせない状態になるまで 貪るように瞬の体力を奪い尽くしたのは、この事態を避けるためだったのに――と、氷河は覚醒して まず最初に自身の迂闊に舌打ちをした。 瞬によって与えられた過剰な充足は、氷河が聖闘士として常に備えていた緊張感さえ麻痺させてしまったらしい。 氷河は、即座に寝台から飛び起きた。 その事態だけは――瞬が一人で自らの命を絶つ事態だけは――氷河は何としても阻止しなければならなかった。 幸い、氷河は、間に合ったのである。 小刀を手にした瞬は、自分の血で彼の育てていた野菜たちを汚すことを避けようとし、それ以上に自分の死が他の人間に迷惑をかけないようにしなければならないと思うあまり、命を絶つのに適した場所を見付けられずにいたらしい。 死を覚悟した時にまで そんな気遣いをする瞬の性向が、氷河を 恋人に死に遅れた男にしないでくれたのだった。 「おまえを一人きりでは死なせないと言っただろう」 瞬の手から小刀を奪い、そのまま瞬の手を掴んで、氷河は瞬に告げたのである。 怒りのせいで強くなっている氷河の手の力に動きを封じられた瞬は、怒りのせいで灰色を帯びた氷河の瞳の中で、幾度も大きく首を横に振った。 「氷河を死なせることなんかできない……!」 「おまえが死んだら、俺も生きていられない!」 「そんなことない。僕たち、一緒にいたのは たった半月だけだったんだよ。氷河は僕のこと、すぐ忘れる。大丈夫……氷河は大丈夫だよ」 「俺が大丈夫だと、なぜ言える。俺が大丈夫か大丈夫でないか、それは俺にしかわからないことだ」 「僕は、氷河に生きていてほしいんだよ!」 「おまえが一緒でないなら、俺は生きていたくない! 俺は……俺は、おまえと一緒に生きていたいんだ!」 「氷河……」 『おまえと一緒に それが氷河の真実の望みだということがわかっているから、瞬は一人で死ななければならなかったのである。 氷河の望みを、せめて半分だけでも叶えるために。 氷河の望みを完全に叶えてやることのできない不幸な自分を消し去るために。 「氷河のために……他に 僕にできることはないの……。僕は何の力も持たない ちっぽけな人間だから」 この 悲しい運命をもたらしたものが せめて人間であったなら、その人間が どれほど強大な権力や武力を有する者だったとしても、自分は 氷河のために 戦い抗おうという決意を為すことができたに違いない。 しかし、相手は神なのだ。 人間には決して滅ぼすことのできない、永遠の命を持った神。 瞬は、氷河と他のすべての人々のために、こうするしかないのだと、他にできることはないのだと、自身の無力を自身に言いきかせるしかなかったのである。 「氷河のためなの……!」 瞬の かすれた悲鳴を、 「氷河のために――あなたは戦うことができるわ」 ふいに、穏やかで力強い声が遮る。 「アテナ……!」 「アテナ……?」 昨夜のハーデスとは異なり、それは光でできたものだったので、瞬の視線は無駄な寄り道をせず、一直線に声の主の方に向かうことになった。 そこに、氷河には見慣れた、そして瞬は初めて見る、知恵と戦いの女神の姿がある。 昨夜のハーデス同様、その姿が僅かに宙に浮いているのは、見る者に 神の姿が実体ではないことを言葉を用いずに知らせるための 神の親切心なのかもしれなかった。 実体は おそらく聖域にある女神の眼差しは、だが 直接瞬を見詰めているとしか思えないほど、まっすぐ瞬に向けられており――もしかしたら、女神が見詰めているのは、瞬という人間の姿ではなく、瞬の心なのかもしれないと、氷河は思ったのである。 ともかく、氷河の女神は、彼の恋人に、いつもより倍増しの威厳をたたえた声で 死を思いとどまるよう説得を開始してくれたのだった。 「死ぬ覚悟で抗えば――いいえ、生きたいと願って戦えば、あなたは神の力も退けることができるわ」 「僕は聖闘士でも何でもない、何の力も持たな人間で、そんな僕が神に抗することなど……」 「できるのよ。あなたにも聖闘士になれそうな気配はあるけど、もし なれなくても――ごく平凡な一人の人間でも、人には神に抗する力がある。神である私が言うのだから、これくらい確かなことはないわ」 「まさか、そんなことが……あの……あの、でも……本当に……?」 神の言葉を疑うのは畏れ多いのだが 疑わずにいることもできない――そんな目をして、瞬がアテナに尋ねていく。 アテナは、ハーデスに選ばれた人間に ゆっくり深く頷いてみせた。 「ええ、もちろん。あなたの願いは何? あなたは本当はどうしたいの?」 「僕は――氷河の敵になんかなりたくない。氷河に生きていてほしい。僕は……僕は、できることなら、僕は氷河の側で ずっと生きていたいんです……!」 「その願い、きっと叶うわ」 アテナが 間髪を入れずに、瞬の願いの実現を請け負う。 アテナの即答に瞳を見開いた瞬は そのまま瞬きもせずに、光でできた女神の姿を見詰めていた。 「叶うと信じ続ければ 夢は必ず叶う――とは言わないわ。でも、叶うと信じていない夢が叶うことはないのよ。夢を叶えたいのなら、まず その夢を信じなさい。そして、その夢を実現するために戦いなさい。希望があるなら戦うことはできるでしょう? その希望は、私はあげる。何度でも、『あなたは勝てる』と言ってあげる。ハーデスと戦いなさい。あなた自身と、あなたの氷河のために」 善良で心優しく、どんなつらい運命も従順に受け入れることしかできない瞬。 そんな瞬が 神と戦うことなど到底無理――と、その時まで――その時も――氷河は思っていたのである。 しかし、氷河が驚いたことに、アテナから希望をもらった瞬は、逡巡らしい逡巡もなく、その場で知恵と戦いの女神に力強く頷いてみせたのである。 「はい……!」 瞬は、初めて出会った時と全く変わらず 華奢で優しい姿をしていて、善良と従順以外の美徳をしか備えていないような印象も変わらない。 だが――姿と印象は そのままなのに、アテナを見上げ見詰める今の瞬の瞳には、ひどく強い意思の力が感じられた。 瞬は神ではない。 神に選ばれただけの、ただの一人の人間にすぎない。 瞬は聖闘士でもない。 アテナは、瞬が聖闘士になることも可能というようなことを言っていたが、少なくとも今の瞬は聖闘士ではない。 神でもなく聖闘士でもない瞬。 そんな瞬に、だが、力を感じる。 聖闘士である氷河も 気を抜くと圧倒されてしまいそうなほど強い力が、今 瞬の華奢な身体からは あふれ出ていた。 地上の人間をすべて滅ぼす力を持つ冥府の王も、この瞬になら退けることができるかもしれないと、氷河は思った。 『僕は氷河と一緒に生きていたいの……!』 瞬の切ない、ささやかな夢が、氷河の胸を揺さぶる。 この瞬を必ずハーデスから守り抜くのだと、必ず瞬を神に勝たせてやるのだと 固く決意して、氷河は、彼の健気な恋人の細い身体を強く抱きしめたのである。 |