それまでの不運と不幸の埋め合わせをしてやろうとしているかのような瞬の庇護のもと、シロが城戸邸で平穏な生活を始めてから、半月ほどが経ったある日。
瞬は、紫龍と星矢から思いがけない報告を受けたのである。

「え? 氷河がシベリアに? で……でも、氷河、昨日は何も言ってなかったよ? それどころか、日本も やっと過ごしやすい気候になってきたって言って、そのうち 一緒に紅葉狩りに行こうって約束して――。僕、昨日、シロちゃんの お出掛け用バスケットを買ってきたばかりなんだよ!」
「ああ、色々事情があって、急遽そういうことになったんだ」
「北の方で、何か怪しい動きでもあったの?」
「そういうんじゃないから、安心してろ」
「いつまで……いつ、帰ってくるの?」
「未定だ」
「……」

星矢と紫龍の様子から察するに、彼等は事前に氷河のシベリア行きの話を聞いていたらしい。
もちろん 氷河のことだから、それは彼の思い遣りなのだろうと――たとえば、障害を抱えた猫の世話に追われている仲間に余計な気遣いをさせたくないと考えたからなのだろうと、瞬は思った。
が、それでも、氷河が自分にだけ何も告げずにシベリアに行ってしまった事実は、全く嬉しいことではない。
「シロちゃん、おいで」
瞬は、足元にいた子猫を抱き上げると、しょんぼりと肩を落として自室に戻ったのだった。


シロをベッドの上にそっと置いてから、瞬はその横に力なく腰をおろした。
「氷河がいなくなっちゃった……」
「にゃあ」
彼の庇護者が意気消沈していることを感じ取ったらしいシロが、ベッドの上に置かれた瞬の手に前足をのばしてくる。
彼は、『瞬に触れる時に爪を出してはならない』ということを学んだらしい。
瞬は、シロの手に やわらかさと温かさだけを感じることになった。

「氷河って、時々急にシベリアに帰っちゃうんだ。兄さんの放浪癖ほどじゃないんだけど……。シベリアには、氷河のお母さんが眠ってて、氷河は、氷河のお母さんが大好きなんだよ」
「みい」
「今でも……僕たちより好きなのかな……」
呟いてしまってから、それが僻みを含んだ愚痴になってしまっていることに気付く。
そんなことを考えている自分が嫌で、そんな自分を隠すために、瞬はベッドに突っ伏したのである。
シロがベッドの上をちょこちょこと移動して、瞬の顔の側にやってくる。
そして、シロは、ベッドに顔を伏せている瞬の耳をぺろりと舐めた。

「シロちゃん、慰めてくれるの? シロちゃんは優しいね」
瞬がシロの方に顔の向きを変える。
間近で見るシロの瞳は、自分を傷付けた人間の残酷を忘れ、人の悪意など知らぬげな、無邪気な子供のそれのように澄んでいた。
だが、瞬は、なぜか その瞳を、子供の瞳だとは思わなかったのである。
綺麗に澄んでいるにもかかわらず、シロの瞳は不思議な深さをたたえていた。

人間は、人間以外の動物に純粋さを求めるものだろう。
どんな悪意も含まれていない無邪気な瞳、憂いなど知らぬげに一心に遊ぶ姿、迷いのない美しい攻撃、躊躇のない生存本能。
動物たちの そういう部分に、人は魅せられ、また心を慰められる。
だから――まるで深い洞察力をたたえた大人の人間のようなシロの瞳に、なぜ自分の心が慰められるのかが、瞬にはわからなかったのである。
だが、無邪気な子供のような瞳ではないシロの瞳に、瞬の心が慰められたのは 紛う方なき事実だった。






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