「氷河がいなくなってから、シロちゃん、すごくいい子になっちゃったんだ。僕が寂しそうにしてるからなのかな。僕を慰めようとしてくれてるみたいなの」
「……」
「お風呂も全然 嫌がらなくなったし、毎晩 僕のベッドで一緒に眠ってくれるし」
「……」
「猫って、普通は水が嫌いなんだよね? なのに、シロちゃんは、身体を洗われるのが好きみたいなんだ。僕がお風呂に入ってる時にもバスルームに入ってこようとするんだよ」
「おまえ、まさか、その猫、風呂場に入れてやってるのかよ!」

ナーバスが極まって攻撃的になり 凶暴性さえ帯びていた野良猫の変化を 嬉しそうに語る瞬の話を黙って聞いていた星矢が、突然 素頓狂な声をあげる。
その声に非難の響きが含まれていることを、瞬は訝ることになったのである。
「だって、シロちゃん、僕がお風呂に入ると、ずっとバスルームのドアの前で鳴き続けるんだもの。入れてあげると静かになるんだ」

瞬の言い訳(?)を聞いた星矢が くしゃりと顔を歪める。
そんな星矢の横で、紫龍は――紫龍もまた――苦虫を噛みつぶしたような顔になった。
「ベッドにも潜り込んでくるのか?」
「うん。毎晩。猫って、快適なところを見付ける天才だっていうでしょう? 夏場は涼しいところを知ってて、冬場は暖かいところを見付けるのがうまい――って。シロちゃんが僕の側を離れたがらないのは、もしかしたら、僕が無意識のうちに小宇宙で温度調節しちゃってるからなのかなあ……って思うんだ」
「そうではないだろう。シロが快適なところを見付けているのではなく、シロには おまえの側が快適な場所なんだ」
「え?」

シロが快適な場所を見付けることと、快適な場所がアンドロメダ座の聖闘士の側にあることは、同時に成立し得ないことなのだろうか。
その二つは完全に分けて考えるべきだというような紫龍の言に、瞬は首をかしげたのである。
星矢が、瞬の膝の上にいる小さな猫を睨みつけて、城戸邸ラウンジに 盛大な舌打ちを響かせる。
「とにかく、相手が猫だからって油断するんじゃないぞ。変なことされたら、殴り飛ばしていいからな」
「殴り飛ばすなんて、そんなことできないよ。だいいち、変なことって何」
「だから、変なことだよ!」
「?」

星矢の言葉や紫龍の態度が 腑に落ちない。
バトルの時には こんなことはないのに、この 通じ合えない感じ・・は、いったい何なのか。
もしかしたら、自分以外の人間が使っている日本語と自分が使っている日本語は いつのまにか違うものになってしまったのではないか――。
瞬は、そんなことまで考えたのである。
それでも――阿吽の呼吸でわかり合うことはできなくても、互いが互いの側にいるなら どうにかなるのに――少なくとも意思の疎通を図るために努力はできるのに――と、瞬の思いは ふいに遠い北の国にいる人の元に向かうことになった。

「……氷河、帰ってこないね」
瞬が瞼を伏せて 小さく呟くと、星矢と紫龍は、それでなくても歪んでいた顔を、更に引きつらせ強張らせることをした。
「夏場にシベリアに行くことは、これまでも何度かあったけど、でも、日本は今は秋で、いちばん過ごしやすい時季なのに……。氷河、去年は僕をいろんなところに連れていってくれたのに……」

氷河が城戸邸から姿を消して、既に20日余り。
不快指数120パーセントの日本の夏には我慢ならないと言ってシベリアに避暑に出ても、結局 ひとりでいることに耐えられなくなって、3日もすれば蒸し暑い日本に帰ってくるのが、夏場の氷河の無益な恒例行事だった。
その氷河が既に、20日も仲間たちの許に帰ってこない。
季節は秋に突入しているというのに、である。
瞬が消沈する気持ちは、星矢たちとて わからないわけではなかったのである。
わけらないわけではなかったのだが、どうすることもできない――というのが、星矢たちが現在 置かれている立場だった。

「にゃー」
瞬の膝の上にいたシロが、しょんぼりしている瞬の顔を覗き込むようにして、気遣わしげな鳴き声を響かせる。
瞬は、顔を俯かせたまま、そんなシロのために笑顔を作った――ようだった。
「あ……平気だよ。ごめんね、氷河」
「氷河?」
瞬が口にした名を復唱することで、紫龍が瞬に反問する。
瞬は、少しく慌てた様子で、自分がシロを その名で呼ぶようになった経緯を説明(あるいは、弁明)してきた。

「あ……あの、最近、この子、シロちゃんって呼んでも、それが自分のことだってわかってくれないの。でも、こないだ、氷河の名前を呟いたら、すぐ飛んできてくれて、それで……あの……」
「それで『シロ』から『氷河』に改名したというわけか」
“氷河”は、その名で呼ばれることが嫌ではないらしい――むしろ、好ましく感じているらしい。
僅かに恥じ入ったように頬を上気させた瞬の手を、“氷河”は機嫌よさそうに ぺろぺろと何度も舐めた。






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