ラウンジから瞬がいなくなると、紫龍と星矢は どちらからともなく深い溜め息をつくことになったのである。 それが、この事態を憂えるゆえの嘆息なのか、それとも、この事態を やっと堂々と(?)憂えることができるようになったことへの安堵の吐息なのかは、彼等自身にもわからなかったのだが。 ともかく、彼等は、一応、この事態を憂えていた。 その憂いの半分は、憤りで形成されているにしても。 「ベッドに潜入。風呂場覗き。氷河の奴、やりたい放題だな!」 「瞬は、あの猫の怪我を自分のせいのように感じて、甘やかしているからな。氷河がいない寂しさを、猫で紛らわそうとしているところもあるようだ」 「まあ、猫は猫なんだし、瞬が猫に犯されるなんてことはないだろうけど」 「絶対にないとは言い切れないだろう」 「絶対にないとは言い切れないって、どーやるんだよ!」 「それは猫に訊いてくれ」 「死んでも訊きたくねーよ!」 全力で主張してから、星矢は再度 溜め息を洩らした。 「で? 人間の氷河の方はどうなってるんだよ」 「思わしくない。あっちの氷河は、風呂は嫌がるし、夜は、ベッドに入るところか、建物の周囲を徘徊したがって、一晩中 鳴きわめき続けているそうだ。瞬と引き離されたせいで、拾われた時より凶暴になっているらしい」 「貴鬼は まだ戻らないのかよ」 「ああ。全く、こういう時に限って、ムウはどこに行ってるんだか……。せっかくの超能力も、その力を要する場にいてくれないのでは宝の持ち腐れというものだ」 「ムウを捕まえることができたとして、ほんとにムウなら この事態をどうにかできるのか?」 「何とも言えないな。だが、俺は本当は、この事態を解決するのに、ムウの力は必要ないのではないかという気もしているんだ」 「どういうことだよ」 「氷河が元に戻りたいと思っていないから、戻らないだけのことなのではないかという気がする」 「今のあいつ、我が世の春を謳歌してるからなー。瞬の風呂場は覗き放題。その上、毎晩瞬の添い寝つき。戻りたくない気持ちはわかんねーでもねーんだけどさー」 星矢と紫龍の そのやりとりを聞いていたなら、瞬も、氷河の身の上に何かが起きているのだということを察することができていたかもしれない。 しかし、今の瞬は、何も言わずにシベリアに行ったきり連絡一つよこさない白鳥座の聖闘士のことで頭がいっぱいで、星矢たちが いつもと違う動きをしていることに気付く余裕を持てていなかったのである。 氷河の姿が城戸邸から消えた日以降、彼等が日に一度はグラードの理工学研究所に赴き、疲れた様子で帰宅することを日課にしていることにも、瞬は全く気付いていなかった。 「氷河に会いたい……。氷河、もう1ヶ月も帰ってきてくれない。こんなに長い間、氷河が僕たちのところに戻ってきてくれなかったことなんて、これまで一度もなかったのに……。どうして氷河は帰ってきてくれないの……」 氷河が単身 敵地に赴いている、あるいは、彼の身に危険が迫っている予感を覚えるというのなら ともかく、『氷河がいないと寂しい』などという、完全に個人の情緒面でのことで、星矢や紫龍に泣きつくわけにはいかない。 瞬が心情を吐露できるのは猫の氷河だけだった。 瞬が寂しいのは、氷河に会えないから――ではなかった。 たとえば彼が アテナの指示によってシベリアに行っているというのなら、瞬は1ヶ月が1年でも、静かな気持ちで氷河の帰還を待つことができた。 瞬が寂しいのは、氷河が仲間のいる場所にいないことではなく、一緒にいようと思えば そうすることができるのに――氷河がそうすることを妨げるものは何もないというのに――彼が仲間たちの許に帰ってきてくれないことだったのである。 すっかり打ち沈んでいる瞬に、『シロちゃん』改め『猫の氷河』は、人間の氷河の100倍も親密な態度で接してきてくれた。 片時も瞬の側から離れず、手といわず顔といわず その舌で瞬を舐め、時には わざとおどけた振りをして、瞬を楽しませようとしてくれる。 人間の氷河がつれない分、猫の氷河が見せてくれる親愛の情が、瞬は嬉しかったのである。 それで瞬の心が完全に満たされることはなかったにしても。 「僕を慰めてくれるの。氷河は優しいね。ごめんね。でも、僕、人間の氷河に会いたいの……」 「ふみゃあ」 「みんなには内緒だよ。僕は氷河が好きなんだ。氷河は、ほんとはとっても優しいんだよ。何かあって僕が泣き出しても、氷河だけは『泣くな』って言わずにいてくれるの。僕が泣きやんでから、『元気を出せ』って言ってくれて……優しいんだ。僕は氷河が大好きなの」 「みー」 沙織の言っていた技術が実用化されて、猫と意思の疎通ができるようになったなら、この寂しさは少しでも薄らぐことがあるのだろうか――。 人間より優しく親しげな猫の氷河の様子を見て、瞬は ふと そんなことを考えたのである。 だが、もし、猫が人間の言葉を解することができるようになってしまったら、人間は猫に“みんなには内緒”のことを打ち明けることはできなくなる。 相手が人間の言葉を解さない猫だから、瞬は繰り返すことができたのである。 自分が氷河をどれほど好きでいるのかということを、幾度も幾度も。 瞬のあとを追いかけてばかりいた猫の氷河が、瞬のベッドを抜け出して紫龍の部屋に忍び入ったのは その夜のこと。 言葉を操ることのできない猫と、主に言葉で 自身の考えや感情を他者に伝える人間の間で “会話”が成立することはなかっただろう。 それでも、翌日から、事態は動き出したのである。 動物入館禁止のグラード理工学研究所に拘禁されていた人間の氷河が城戸邸に運ばれてくることによって。 |