「瞬、氷河が帰ってきている。すまんが、猫の氷河を連れて、ラウンジに来てくれ」 昨日までと同じように自室にこもり、猫の氷河相手に 恋のせいで生まれる寂しさを語っていた瞬は、紫龍のその言葉に、なぜか戸惑いを覚えたのである。 『氷河が帰ってきてくれて嬉しい』という感情より、戸惑いの方が大きいのはなぜなのだろう――? そんな自分を訝りながら、瞬は 猫の氷河を両手で抱いて、ラウンジにおりていったのだった。 そこには、紫龍の言葉通り、人間の氷河がいた。 いったい彼は、これまで どこで何をしていたのか。 氷河の全身は――身につけている衣服だけでなく、その顔や手足までが――どこか薄汚い。 これは本当に自分の仲間の氷河だろうかと、氷河の姿をしたものを見詰めて、瞬は疑ったのである。 彼は、その表情が、瞬の見知っている氷河のそれとは全く違っていた。 たとえて言うなら、まるで 人間不信に陥っている野良猫のように、彼は すさんだ目をしていたのだ。 「氷河……?」 猫の氷河を抱いたまま 人間の氷河の側に駆け寄ろうとした瞬は、人間の氷河の目が 突然攻撃的に きらめき始めたことに気付き、その足を止めたのである。 なぜか、彼に近付くのは危険だという信号が、瞬の身体の中を素早く駆け抜け、瞬は、2、3歩 後方に後ずさった。 そうして、猫の氷河を守るように抱いていた瞬の手に、我知らず力がこもった時だった。 人間の氷河が、瞬の腕の中にいる猫の氷河に、文字通り 飛びかかってきたのは。 人間の氷河は、瞬の手から、白い小さな命を奪い取り、掴みあげ、あろうことかそれを壁に叩きつけようとした。 ふざけているのだとは到底思えない、強い力で。 思いがけない事態――というより、ありえない事態を目の当たりにし、瞬は その場に呆然と立ちすくんでしまったのである。 幸い、猫の氷河は、くるくると空中で身体を回転させ、壁にぶつかる直前で 部屋の絨毯の上に着地した。 右後ろ足の障害のせいもあって、それは 華麗完璧な着地とは言えなかったが、ともかく猫の氷河は 人間の手によって 更なる障害を負わされることにはならなかった。 「氷河っ! 氷河に何するのっ」 猫も人間も『氷河』なのでややこしいが、瞬が責めたのは、もちろん人間の氷河の方である。 しかし、人間の氷河は、人間の言葉を解することのできない猫のように、瞬の叱責に反応らしい反応を示さなかった――いかなる躊躇も 反省の色も示すことはなかった。 それどころか、人間の氷河は、彼を押しとどめようとした瞬の手を振り払い、瞬の身体を押しのけて、再度 猫を捕まえようとして その目をぎょろつかせ始めたのである。 瞬は、何がどうなっているのかが、まるで わからなかった。 人間の氷河を この場に連れてきた星矢と紫龍も、彼の凶暴凶悪な振舞いは想定外のことだったらしく、その場に突っ立ったまま、ただただ唖然としている。 「氷河……どうしたの……。いったい何が――」 1ヶ月もの間 仲間たちの前から姿を消し、やっと帰ってきてくれたと思ったら、風貌も印象も激変してしまっていた氷河。 それだけなら、瞬とて、この1ヶ月の間に氷河の身に何か想像を絶する不幸な事故が起こっていたのかもしれないと思うこともできた。 しかし、氷河が非力な猫にこんな暴力を振るうことはありえない――それは、あるはずのないことだった。 そんなことをする氷河は氷河ではなかった。 少なくとも、瞬にとっては。 なおも小さな猫に危害を加えようとする氷河を、瞬は押しとどめようとした。 氷河の懐に飛び込んで氷河の動きを封じ、猫の氷河の盾になる。 だが、氷河は、その程度のことでは引いてくれなかった。 彼は 一瞬間だけ ためらう様子を見せたが、すぐに瞬の肩を押しやって、猫の氷河を 再び彼の攻撃目標内に捕らえようとした。 氷河の振舞いに混乱しながら、瞬は、しかし、氷河の前から どくわけにはいかなかったのである。 なぜ そうなのかはわからないが、人間の氷河は その全身に殺気をまとっていたのだ。 あくまで猫の氷河を庇おうとする瞬に 業を煮やしたのか、人間の氷河が その視線を瞬の上に据えたまま、苛立たしげな様子で後方に1メートルほど退く。 彼は、そして、その右の手を前方に突き出してきた。 その手に、凍気を生むための力が集まってくる――。 (氷河が僕に攻撃を仕掛けようとしている……?) あまりのことに、瞬の足が すくんでしまう。 逃げなければならないと思うのに、身体が言うことをきかない。 (ああ……!) 瞬は、我が身を氷河の攻撃にさらすことを覚悟した。 猫の氷河が、瞬を庇うように人間の氷河の顔に飛びついていったのは、まさに その瞬間だった。 ほとんど宙に浮いているとしか思えない態勢で、猫の氷河が人間の氷河の顔に 爪を立てた前足による攻撃を加えていく。 猫の氷河のその行動がなかったら、瞬は為す術もなく氷河によって倒されてしまっていたかもしれない。 人間の氷河の顔に幾本もの赤い線が描かれるのを見て、瞬は はっと我にかえった。 「氷河……そんなことしちゃ駄目だよ! 氷河、ごめんなさい。氷河、大丈夫?」 瞬が責めたのは、今度は猫の氷河の方。 まさか人間であり聖闘士でもある氷河が、 猫の攻撃ごときに決定的ダメージを受けることがあろうはずもなかったが、瞬は、どんな時にも劣勢にある側の者を庇うことが習性になっていたのだ。 猫の爪のせいで無数の傷を負った人間の氷河の側に、瞬が駆け寄る。 正気を失った者の目をした氷河は、あろうことか、彼の身を案じて彼の側に駆け寄った仲間の首を 右手で首を掴み、そのまま瞬の身体を宙に持ち上げることをした。 「ひょ……が……」 逃れることは容易にできた。 瞬とて、聖闘士なのだから。 だが、瞬は、氷河に抵抗する力を持てなかったのである。 というより、瞬は、そんなことになってもまだ、自分が氷河に何をされているのかを理解できていなかった。 ほとんど無抵抗の瞬の姿を見て、猫の氷河が再び人間の氷河の顔に飛びつく。 その段になってやっと、星矢と紫龍は、猫と人間のこの戦いが冗談事ではなく、ふたりの氷河は互いに本気で全力をもって戦っているのだという事実を認識するに至ったらしい。 「氷河っ。顔は傷だらけにしてもいいが、目を傷付けるのは避けろっ」 紫龍が、猫の氷河に鋭い声を投げつける。 “氷河”は、紫龍の指示に、『ギャーッ』という返事を返してきた。 それは猫の氷河の声だったのか、人間の氷河の声だったのか――。 ふたりの氷河は言葉を発することなく――唸り声と呻き声だけを発して、熾烈な戦いを続けている。 いったいどちらの味方をすればいいのかがわからず 動くことができずにいる瞬の代わりに、星矢と紫龍はやっと彼等の行動を開始した。 彼等は、猫ではなく人間の氷河の方を取り押さえようとしているようだったが、正気を失っているとはいえ、聖闘士は聖闘士。 しかも、彼はいつもの数倍も敏捷。 星矢たちは なかなか目標物を捕らえることができなかった。 「速い!」 人間の氷河の素早い動きに 腹の底から感嘆したような星矢の声に、紫龍が舌打ちを返す。 「感心している場合じゃない! 聖闘士の運動能力と猫の運動能力が合体しているんだ、速いのは当たりまえだ!」 「じゃあ、どーすればいいんだよ! こいつ、凍気も繰り出さないのに、やたら強いぞっ」 「強いんじゃない、速いんだ!」 「それって、おんなじことだろ。攻撃の狙いをつけさせてもらえないんだから!」 「そんなことは俺にもわかっている!」 こうなったら、もはや手加減は無用。 ドラゴン紫龍が真実の力を発揮するために、残された道は裸になることのみ――と、紫龍が考えたかどうかは、紫龍以外の人間にはわからないことである。 本気で怒らせてはならないのは瞬。 決して切れさせてはならないのは紫龍。 平時は温厚で通っている二人の青銅聖闘士の片方の“本気”は、今は期待できない。 一方、瞬をここまで追い詰めた“氷河”に、おそらく紫龍は切れかけていた。 彼が紙一重のところで切れずに済んだのは、 「おやおや、ひどいありさまですね」 という、ノンキを極めた黄金聖闘士の声のせいだった。 「星矢、紫龍。遅れてごめんよ。ムウ様、ジャミールじゃなく、ネパールの温泉に行っててさあ」 ムウの声に、これまた緊張感のかけらもない貴鬼の声が続く。 それでも、黄金聖闘士はさすがに黄金聖闘士――と言うべきなのだろう。 現場に到着するのは遅くても、いったん駆けつけてしまえば行動は迅速(むしろ光速)というあたりは。 テレキネシスで人間の氷河の身体を宙に浮かせた牡羊座の黄金聖闘士は、空中で気が立った猫のように興奮し暴れている人間の氷河の身体を、そのまま ベランダの外に運んだ。 それから、その身体を20メートルほど上空に持ち上げ、情け容赦なく加速をつけて地面に落下させる。 人間の氷河の身体は、着地の態勢を整える時間を与えられないまま、城戸邸の庭に激しく叩きつけられた。 「ま、痩せても枯れても聖闘士です。この程度のことで死にはしないでしょう」 優しいのは顔だけで、その言動は冷徹そのもの。 これが青銅聖闘士と黄金聖闘士を分け隔てる確然たる壁なのかもしれない。 青銅聖闘士と黄金聖闘士を分けるものは、強さ以外の“何か”なのかもしれない。 神の眼鏡に適うほどの“何か”を持っているはずの瞬は、だが、今は、青銅聖闘士どころか、猫の右前足1本分の力も備えていない非力な生き物だった。 「星矢! 紫龍! 氷河は病気なの !? 何かの病気なの !? あんなの、僕の氷河じゃないよっ。僕の氷河は、怪我してる子猫を傷付けるようなことは絶対にしない!」 「確かに、あれは おまえの氷河じゃない。おまえの氷河は、そっちの方だ」 瞬に涙ながらに訴えられた紫龍が指し示した先にいたのは、一匹の小さな猫。 その猫に向かって、牡羊座の黄金聖闘士は、彼のすべきことを人間の言葉で指示した。 「猫でいることには、いろいろ役得があったようですが、元の身体に戻りなさい。今なら、あの身体は意識を失っていますから、戻るのは容易なはずです」 ムウの言葉が終わる前に、猫の氷河は、ベランダの手擦りを踏み台にして、城戸邸の庭に ひらりと降り立っていた。 そうして、気を失い倒れている人間の氷河の胸の上に乗る。 猫の氷河の身体が 人間の氷河の胸の上から ころりと転がり落ちたのは、その数秒後のこと。 「う……」 瞬が猫の氷河に数秒遅れて、ふたりの氷河の許に駆けつけた時、人間の氷河はちょうど意識を取り戻し、まるで今 初めて自身の身体の痛みに気付いたように顔をしかめていた。 「氷河……」 瞬が恐る恐る その名を呼ぶ。 「瞬、すまん」 苦しげに眉根を寄せて上体を起こし、瞬に謝罪してきた氷河の目は、瞬が見慣れた氷河のもの。 「氷河……!」 瞬は、瞳を涙でいっぱいにして、氷河に抱きついていこうとしたのである。 が、氷河は、そんな瞬の肩を手で押しやって、瞬が彼に近付くのを拒んだ。 瞬は、自分が何をしようとしていたのかに今になって気付き、慌てて首を横に振ったのである。 「氷河……あの、僕、別に変な意味で……」 「どんな意味でも、おまえに触れられるのは嬉しい。だが、今は俺に触るな」 瞬に そう告げる氷河の眉と口許は、すべての人間の罪と汚れを己が身に引き受けて十字架上の人となったイエスのように苦痛に引きつり歪んでいる。 瞬は、ムウが、氷河を元の氷河に戻すために施した荒療治を思い出し、頬を蒼白にした。 あの態勢で地面に叩きつけられるのは、常人の5倍の体力と常人の10倍の生命力を持っている聖闘士にも かなりきついことだった。 「ど……どこか痛むの? 骨でも折れたの……?」 瞬は氷河に抱きつくのを断念し、仲間の身をいたわるために そっと彼の身体に触れようとしたのだが、氷河は瞬のその手をすら拒んだ。 瞬には少々理解し難い理由で。 「痛いのも骨折も慣れているが、今の俺は汚い」 「え?」 「 せっかくの瞬との抱擁を辞退しなければならないことは、氷河にとっては無念至極なことだったらしい。 そして、氷河の顔が引きつり歪んでいるのは骨折や打撲のせいではなく、彼が“汚い”せいだったらしい。 悔しそうに唇を噛む氷河の前で、瞬はただ ぽかんとしていることしかできなかった。 |