「氷河……? でも、氷河は――」 氷河は、瞬と一つ二つしか歳の違わない“子供”だった。 だが、今 瞬の目の前にいる人は、(瞬の目から見れば)完全に“大人”のひと。 瞬は、彼の言う言葉の意味がわからなかった。 彼の言葉が語る状況が、論理的に理解できなかったのである。 瞬が首をかしげ 瞬きを繰り返す様子を見て、自分は氷河だと言い張る大人は、己れの自己紹介に重要な形容句が欠けていたことに気付いたらしい。 彼は、欠けていた その形容句をつけたして、彼が何者なのかを もう一度 瞬に申告してきた。 「正しくは、6年後──いや、7年になるのか。今から7年後の氷河が俺なんだ」 「……」 数秒の時間をかけて、瞬は、彼の告げた言葉の意味(だけ)を、何とか理解した。 瞬は、そして、その瞬間、『大人を正面から長い時間 見詰めるのは危険』という教訓を完全に忘れてしまったのである。 大事な教訓も瞬きすることも忘れ、瞬は まじまじと 背の高い“大人”の顔を見詰め続けた。 彼は正気なのだろうかと疑いながら。 瞬は、人間が過去に戻ることはできないという現実を知っていた。 どんなに過去に戻りたいと願っても――両親を失う以前の自分に戻りたいと願っても、その願いが叶うことはない。 今から7年後の氷河が、彼にとっては7年過去の現在に存在するのは不可能なことなのだ。 大人のくせに、彼は悪ふざけをしているのだと、瞬は思った。 だが、子供相手に、彼は、真剣そのものの目を向けている。 彼にとっては 幼い子供でしかない瞬に、彼は、重ねて、ふざけているのだとしか思えないことを語ってきた。 ふざけているとは到底思えないような声と表情で。 「俺は、今 死にかけている。おまえもだ」 「死にかけている?」 瞬は、人間が過去に戻ることはできないということを知っていた。 知っていたのに、彼の言葉に引き込まれた。 彼が真剣そのものの目をしていたせいもあったろう。 瞬は幸い、まだ“死にかけた”ことがなかったから、そういう状態に置かれた人間の身には 思いがけない不思議が起こることもあるのかもしれないと考えた部分もあった。 だが、瞬の気持ちが彼の言葉に惹きつけられた最大の原因は、自分が7年後に死にかけているという彼の言葉が瞬に大きな希望を与えてくれたからだった。 自分は7年後の氷河だと、彼は言っていた。 今から7年の時が過ぎた未来から、自分は やってきたのだと。 7年後に、“俺”と“おまえ”が死にかけている――という彼の言葉が意味すること。 それは、7年後まで“おまえ”が生きているという、信じられない――夢のような事実だった。 「7年後に――って、じゃあ、僕は、生きて日本に帰れるの? ぼ……僕は聖闘士になれるの?」 心臓が破裂するのではないかと思うほど 胸をどきどきさせながら、瞬は、かすれ上擦る声で彼に尋ねた。 「あたりまえだろう」 7年後の氷河が、こともなげに――むしろ、そんなわかりきっていることを なぜ わざわざ尋ねてくるのかと不満に思っているような態度で――瞬に答えてくる。 彼にはわかりきったこと――確定した事実――でも、今の瞬には それは まだ至ることのできていない遠い未来の出来事だった。 そして、それは、瞬には奇跡のように素晴らしい未来の光景だったのだ。 「よかった……!」 歓喜と安堵の入り混じった瞬の感嘆に、 「少しもよくない!」 大人の氷河が、苛立ったような目付きで反論してくる。 その無愛想な様子が、瞬の知っている氷河に少し似ていたので、瞬の中にあった『彼は見知らぬ大人だ』という気持ちは、少し薄れ弱まることになった。 何にせよ、彼は、瞬に嬉しい知らせを運んできてくれた、親切な未来からの使者だったのだ。 「でも、僕は聖闘士になって日本に帰って、もう一度 兄さんに会えるんでしょう? 氷河にも星矢にも紫龍にも会えるんでしょう?」 それが“よいこと”でなくて何だというのか。 今の瞬に、それ以上に“よいこと”などありえなかった。 未来の氷河には、そうではないようだったが。 「だが、聖闘士になったおまえは、過酷な戦いを強いられ続ける。命をかけた戦いだ。争い事が嫌いなおまえは、人を傷付けることに苦しみ、戦いに勝利することで おまえ自身も傷付く。あげくの果てに──」 「死ぬの?」 「……」 7年後の氷河から見れば、今の瞬は、人生の真の辛酸を知らない幼い子供にすぎないのだろう。 幼い子供の口から発せられた『死』という言葉に、彼は一瞬、 青い瞳を見開き、小さな子供の顔を じっと見詰めてくる。 だが、瞬には、『死』は さほど遠い場所にある言葉ではなかったのである。 それは、明日にも我が身に同化することになる言葉の一つだと、瞬は思っていた。 それが7年も先のことだというのなら、瞬には これほど嬉しいことはなかったのである。 「兄さんとの約束を果たせるのなら――そのあとでなら、僕、死んでもいいんだ」 「おまえがよくても、俺はよくない!」 幼い子供が悟りきった老人のようなことを言うのに、 彼は、苛立たしげな声で、瞬を怒鳴りつけてきた。 瞬はもう 彼を恐い大人だと思えなくなっていたので、彼の怒声に怯えてみせることもできなかったのだが。 「おまえがよくても、俺はよくない……! おまえは、俺のせいで死ぬんだ。俺が馬鹿なせいで――。俺が馬鹿なせいで、俺が死ぬのは自業自得だ。だが、そんな俺を救おうとして おまえが死ぬのは理不尽だ」 「氷河を救おうとして? 僕が? 信じられない。すごい! 嬉しい……!」 今から7年後、いったい自分はどんなスーパーマンになっているのだろう。 想像しただけで――スーパーマンになっている自分を想像することは、瞬には かなりの難事業だったのだが――胸がどきどきしてくる。 嬉しさのあまり、瞬の頬は 「嬉しい……って、喜んでいる場合かっ!」 大人の氷河の怒声は、いよいよ その音量を増していく。 しかし、瞬はもはや、彼の声や言葉を自分への称揚としか思えなくなってしまっていた。 「でも、泣き虫で みそっかすの僕が……信じられない。僕、いつも兄さんのお荷物で、泣くことしかできない弱虫で、城戸邸では氷河や星矢や紫龍に慰められたり励まされたりしてるばっかりで──」 「俺がおまえを慰め励ました? いつ俺がそんなことをしたというんだ」 「え?」 それまで頭ごなしに子供を怒鳴りつけているばかりだった大人の氷河が、突然 その顔を奇妙に歪める。 瞬は、なぜ彼はそんなことを尋ねてくるのかが わからなかった。 「やだ、憶えてないの? つい、2日前のことなのに――あ……!」 瞬にとっては つい2日前のことが、大人の氷河にとっては7年前の出来事なのである。 その事実(?)を思い出して、瞬は不思議な気分になった。 不思議な気分で――彼にとっては7年前にあった出来事を、大人の氷河に話してきかせる。 「僕がアンドロメダ島に発つ時、不安で恐くて泣いてた僕に、氷河は、きっと兄さんにもう一度会えるから大丈夫だって、言ってくれたじゃない。絶対に諦めるな、挫けるんじゃないぞって。きっと帰ってこれるからって」 「俺が? 俺が おまえに本当にそんなことを言ったのか?」 「言ったよ。いつもは口数が少なくて、人に何か訊かれた時にだけ やっと答えてくれるみたいな氷河が、僕に何度もそう言ってくれるから、僕、びっくりして涙が止まっちゃったんだから」 「俺が……?」 瞬の話を聞いた大人の氷河が、眉根を寄せて僅かに首をかしげる。 彼は、そのことを完全に忘れてしまっていたようだった。 だが、瞬は、彼が彼の親切を忘れてしまっていることに落胆はしなかったのである。 泣き虫の仲間を慰め励ますことは、氷河にとってはあたりまえのことで、ことさら 特別のことではなかったのだろう。 瞬の他の仲間たちも――星矢も紫龍も――自分がそんなことを言って泣き虫の仲間を励ましてやったことなど忘れているに違いない。 だから、彼等の優しさには価値がある。 だから、瞬は、彼等の優しさを忘れることができないのだ――瞬が彼等を忘れることはない。 「今、気付いた」 気付かせてくれた人の前で 瞬が小さく呟くと、大人の氷河は 視線で『何を?』と訊き返してきた。 「気付いたんじゃなくて、思い出した。僕……自分が心細いことだけに気をとられて――忘れていたのは僕の方だったんだ」 「何をだ」 今度は声に出して、氷河が瞬に問い質してくる。 大人の氷河の中に残る仲間の面影を見詰めながら、瞬は彼に問われたことに答えた。 「僕が今まで生きてこれたのは、兄さんが僕を庇って守ってくれてたからだったんだ。氷河たちが僕に優しくしてくれたからだった。だから、僕は挫けずに何とか これまでこれた。僕が今 不安でたまらないのは、兄さんや氷河たちと離れ離れにされてしまったからで――。氷河たちが一緒にいてくれたなら、みんなと一緒だったなら、こんなふうに何もない島ででも、僕は もう少し頑張ってみようって思えたのに……」 なのに、瞬に力を与えてくれる仲間たちは、今ここには いない――。 せっかく思い出せたことが、今の自分の哀れな状況を思い知ることにしか役立たないことに気付いて、瞬の心は再び深い場所に沈んでいくことになったのである。 だが、大人の氷河の声と表情は、瞬より更に苦しげだった――瞬には、そう見えた。 「俺は──氷河は、おまえの力になれるような、そんな立派な奴じゃないんだ」 大人の氷河が、呻くように言う。 瞬は、“大人”がそんなふうに苦しんでいる様子を見るのは、これが初めてのことだった。 “子供”である自分より苦しんでいるような“大人”の様子が、ひどく切なく感じられる。 この人より苦しくない子供は、この人を慰め励ましてやらなければならないのだと、瞬は思った。 「そんなことない。氷河は優しいよ。僕は氷河に励ましてもらったの」 「奴は、ただの馬鹿だ。自分が馬鹿で弱いことに気付いていない分、 「氷河のこと、そんなふうに言わないでください! いくら氷河だからって……!」 仲間を侮辱されることは我慢ならない。 そんなことをする人は、彼がどんな大人であっても許せない。 大人から見れば無力な子供にすぎなくても、氷河は、瞬にとっては 勇気と慰めを与えてくれる大切な仲間だった。 『いくら氷河だからって……!』 そう言ってしまってから、瞬は この人は氷河なのだということを思い出したのである。 氷河当人になら氷河を非難する権利があるとは思わなかったし、それが誰であっても、人に氷河の悪口を言われることは 瞬には楽しいことではなかった。 だが、既に苦しんでいる人を更に苦しめることは 瞬にはできなかったし、そんなことはしてはならないことだろうと、瞬は思ったのである。 この人が“氷河”だというのなら、なおさら。 |