「マーマ、マーマ!」
氷河王子の悲痛な叫びを聞きつけて、北のお城に勤める者たちが大勢 貴賓室に駆け込んできました。
そして、そこにあるものを見て、誰もが蒼白になってしまったのです。
氷の棺の前に くずおれて、両の肩を震わせている氷河王子に、何が起こったのかを尋ねることは、誰にもできませんでした。
この北の国を導き統べるマーマ女王の美しくも痛ましい姿を視界に映し、彼等は ただ呆然としていることしかできなかったのです。

さて、貴賓室に集まってきた家臣たちの中に、一人の可愛らしい少年がいました。
名前を瞬という その少年は、特に有力な貴族でも 古い家柄や財力を誇る家の子息というわけでもありません。
貴族どころか、両親が誰なのかも わからない孤児でした。
氷河王子が 一人でお城の庭を歩けるようになった頃、氷河王子がお城のお花畑の中で見付けた赤ちゃん。
それが、瞬でした。

その頃はまだ 王様も生きていらっしゃいました。
なぜお城の庭に こんな小さな赤ちゃんが打ち捨てられているのかと怪訝に思った様子で、王様は、この子は いずれかの施設に預けるしかないだろうとおっしゃったのです。
それを押しとどめたのが氷河王子でした。
氷河王子は、
「これは僕が見付けたものだから、僕のだ!」
と言い張って、どうあっても、自分の見付けた赤ちゃんを余人の手に渡そうとはしなかったのです。

その赤ちゃんを氷河王子と一緒に育てることを 王様に提案したのは、当時はまだ女王ではなかったマーマ王妃でした。
幼い氷河王子が精一杯のばした頼りない腕に 危なっかしく抱かれているというのに 泣き出しもせず、嬉しそうに にこにこ笑っている赤ちゃんを見て、マーマ王妃は氷河王子の拾い物に 何か運命のようなものを感じたのです。

高い身分の人間には、真に心を許せる友人というものは なかなかできにくいものだということを、マーマ王妃は知っていました。
ある程度 歳がいってから出会う友人は、氷河王子の王子という身分に、気後れや ある種の期待や下心を抱くことになるでしょう。
それが悪いことだというのではなく、そういう気持ちを抱くのが普通なのです。
むしろ、そういう気持ちを抱かない方が愚鈍なのです。
けれど、物心つく前から氷河王子と一緒にいるのが当たりまえのことだったなら、その人間は氷河王子の身分を不必要に恐れることも、利用しようと考えたりすることもないでしょう。
氷河王子の身分に何かを望むことなく、氷河王子が王子だから一緒にいるのでもなく、一緒にいるのが自然なことだから一緒にいる友人になることができるでしょう。
この赤ちゃんはきっと 氷河王子の真の友人になってくれるに違いないと、マーマ王妃は考えたのです。
それに、氷河王子の拾い物は、小さなピンクのお花のように とても可愛らしい赤ちゃんでしたから、マーマ王妃自身が その赤ちゃんを自分の側に置きたいと思ったのです。

そういうわけで、北の国の綺麗なお城で、兄弟のように氷河王子と一緒に育ったのが瞬。
瞬は、氷河王子が誰よりも信じている幼馴染みでした。
勉強も剣の練習も楽器の練習も、瞬と一緒。
瞬が相手なら、氷河王子はちゃんとダンスもできました。
ピンクのお花のように可愛らしい瞬は、男の子でしたけどね。

「氷河……」
誰も声をかけることができずにいた氷河王子の背中に、瞬がそっと手を置きます。
氷河王子は、後悔にまみれ 泣いてしまいそうな自分の顔が人目に触れることを避けるように、瞬の細い身体に抱きついてきました。
「瞬、どうしたらいいんだ。冷酷で理不尽な魔法使いがマーマを氷づけにしてしまった……。この氷の棺は、誰よりも優しくて、誰よりも清らかな心と誰よりも美しく可憐な姿を持ち、誰よりも聡明で、誰よりも俺を愛している者か、俺が誰よりも愛している者の命と引き換えでなければ溶けないそうだ」

「おお……!」
呻き声にも似た氷河王子の言葉を聞いて、貴賓室には、その場に集まってきた者たちが作る さざ波のような どよめきが満ちることになりました。
そして、その どよめきは ほぼ8割までが絶望の響きを帯びていました。

『誰よりも優しくて、誰よりも清らかな心と誰よりも美しく可憐な姿を持ち、誰よりも聡明で、誰よりも氷河王子を愛している者』か『氷河王子が誰よりも愛している者』。
そんな お姫様が簡単に見付かるのなら、北の国の王室には憂いなし。
マーマ女王は、はじめから氷河王子のお嫁さんのことで悩んだりしていなかったでしょう。
もし そんなお姫様が見付かったとしても、マーマ女王を救うためには その命が失われなければならないというのでは、たとえマーマ女王の復活が成っても、王室の問題は全く解決しないということ。
これが絶望的な事態でなくて 何だというのでしょう。
皆の悲嘆は至極当然のことでした。
もちろん、その場で最も深く苦しみ嘆いているのは氷河王子でしたけれど。

「どうすればいいんだ。俺は、おまえより優しくて、おまえより清らかな心と おまえより美しく可憐な姿を持ち、おまえより聡明で、おまえより俺を愛してくれている者を知らない。探せば、広い世界には 本当に おまえより優しくて清らかで美しい人間がいるのか」
「それは もちろん いるでしょうけど、でも、その人の命を奪うのは……」
言いかけた言葉を、瞬は最後まで言うことができませんでした。
でも、氷河王子には、瞬が言おうとしたことが わかっていました。
母の命を救うためとはいえ、何の罪もない人間の命を犠牲にするなんて、どれほど高い地位にある者にも――むしろ、高い地位にある者にこそ――許されることではありません。
まして、氷河王子を愛している人、氷河王子が愛している人の命を犠牲にするなんて。
氷河王子は大変なマザコン王子でしたが、だからこそ、マーマ女王の教えをよくきく、ある意味 素直な王子様でもありました。
そして、マーマ女王は、いつも氷河に王子に『人の命を軽んじてはいけません。それが誰のものでも、命というものは とても大切なものなのですよ』と教え諭していたのです。

「俺が誰より愛しているのも――」
言いかけた言葉を途中で途切らせたのは、今度は氷河王子でした。
その言葉を呑み込んで、氷河王子は、その場にいた者たちに命じたのです。
「とりあえず、探せ。誰よりも優しくて、誰よりも清らかな心と誰よりも美しく可憐な姿を持ち、誰よりも聡明な人間を。その者を見付け出すことができれば、何らかの解決策が見い出せるかもしれない」

それは何という悲しい――そして、絶望的な命令だったでしょう。
もし そんな人が見付かったとしても、その人が氷河王子を誰よりも愛していなければ、その人にはマーマ女王を救う力はありません。
もし その人が氷河王子を愛していたとしたら、氷河王子は 自分を愛してくれている人の命をマーマ女王のために奪わなければなりません。
かといって、その人の命を奪わなければ、マーマ女王は生き返ることはないのです。
どちらにしても、どんな場合でも、待っているのは悲劇のみ。
それ以前に、もし『誰よりも優しくて、誰よりも清らかな心と誰よりも美しく可憐な姿を持ち、誰よりも聡明な人間』がこの世界に存在したとして、その人は自分の命を奪われることを承知で、我こそはと名乗り出てくれるでしょうか。

考えれば考えるほど、誰の心も暗く重くなっていくばかり。
それでも何もせずにいることもできなくて、北の国の者たちは『誰よりも優しくて、誰よりも清らかな心と誰よりも美しく可憐な姿を持ち、誰よりも聡明な人間』を探し出す作業にとりかかったのです。
昔々のことですから、国中に おふれを出して。






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