『すこやか園』 誰が どんな意図をもって命名したのかは知らないけど、それが 僕のいる施設の名前だ。 そして、瞬が すこやか園にやってきたのは、遊び場と運動場を兼ねた園の庭に植えてある銀杏の葉っぱが すっかり黄色になった頃。 先生たちが庭に落ちてくる葉っぱをかき集めて、大きな袋に入れて、燃えるゴミの日に備えるのが日課になってた頃だった。 僕が初めて見た時の瞬は、なんだか おどおどしてて、初めて見る世界を恐がってる赤ん坊みたいだった。 僕が、僕のパパとママだって言い張る二人から解放されて、この施設に来た時みたいに。 きっと、この子も誰かにいじめられて いじめられて、それでここに来たんだろうって、僕は思った。 でも、ここにいるのはみんながそんなふうな子供ばっかりだから、僕は特に瞬に同情したりはしなかったけど。 瞬は、僕よりずっと大人みたいだったしね。 多分、中学生くらい。 あ、でも、ここにいる子たちは、平均よりずっと痩せっぽちで、実際の歳より子供に見えるのが普通だから、もしかしたら、あの時 瞬はもう高校生くらいになっていたのかもしれない。 ここにいる子はみんな、普通と違う子供ばっかりだ。 僕もあんまり普通じゃないらしい。 だけど、瞬は特に普通に見えなかった。 瞬は、初めて連れてこられた建物を『これは何だろう?』って疑ってるみたいに 目をきょろきょろさせてたけど、今日 初めて会ったはずの先生たち――人間たち――を恐がってはいないみたいだったから。 普通は逆なのに。 建物は僕たちに危害を加えないけど、人間は何をするかわからない。 だから、ここに来た子供たちは、普通は何よりも人間を恐がるんだ。 でも、その先生方は、瞬を見ては、口を揃えて、「ほんとに綺麗な子ねえ」とか、「男の子だなんて、信じられない」とか言ってたから、瞬はまず外見が普通じゃなかったんだろう。 ここに来るからには、中身も普通の子供とは違うんだろうけど――実際、違ってたんだけど。 ともかく、人間にではないにしろ、初めて連れてこられた場所に気後れしたみたいに おどおどしてる瞬を見て、僕はこの子には近付かない方がいいだろうって思った。 この すこやか園は、親にギャクタイされて、親と一緒にいない方がいいだろうって判断された子供たちが預けられてる施設だ。 僕も、僕のパパやママだっていう人たちに、何か口をきくたびに『生意気だ』って怒鳴られ続け殴られ続け、一度 死にかけて、それから ここに来た。 もっとも、あの一組の男女が僕のパパとママだってことを、僕は信じてないけどね。 彼等は、僕の両親にしては馬鹿すぎたもの。 あんな愚かな人間たちが僕の両親であるはずがない。 僕のことは さておくとして。 そんなふうに親にギャクタイされて育った子供は、親と同じように暴力的になるか、暴力を恐れて何にでもびくびくする子供のどっちかになる。 瞬は、どう見ても後者。 そういう子は、暴力を振るう子供たちの格好の餌食になる。 だから、瞬の側にいると、僕まで巻き添えを食いかねない。 そう考えて、僕は、瞬を無視することに決めたんだ。 「園長先生。お帰りなさい。その子が、相談所から連絡のあった子ですか?」 「ああ、佐藤先生。ええ、そうなんです。身元と事情がわかるまで、しばらく うちで預かることになりました。名前はシュンというらしいんですが、それ以外のことは、今のところ何も。でも、おそらく――」 「そうですか。こんなに綺麗な子なのに……」 玄関先に向かえに出た佐藤先生が省略した言葉は、『(こんなに綺麗な子なのに)どうして親は この子に愛情を注がず、暴力を振るうのか』。 それが大人にもわからない謎だっていうのなら、子供の僕たちには なおさらわからない。 わからなくても仕方がないよね。 瞬は、名前以外は何もわからない子供らしかった。 少なくとも、自分からは語ろうとしない子供。 それも、この園ではありがちなことだ。 ほんとに忘れてるのか、喋りたくないだけなのかは 知らないけど、何を言われても、何を訊かれても『知らない』って答える子供は、ここには何人もいる。 もちろん、何も答えない子もいる。 ここでは、瞬みたいなのは普通なんだ。 珍しくも何ともない。 問題は、そういう子は、いじめの対象になりやすいってこと。 なんたって、告げ口される心配がないからね。 僕は、ますます瞬には近付くまいって思った。 「あら、ヒトシくん。晩ご飯は食べたの」 新入りを偵察に来て、ご飯がまだだった僕は、先生にそう言われて、慌てて玄関から逃げ出した。 廊下の曲がり角で、ちょっと後ろを振り返ったら、瞬は、先生たちの前から逃げ出した僕をぼんやりと見てた。 見てた――のかな? ただ目を開けてただけだったかもしれない。 あとで、瞬は、身元不明の子供で、港でふらふらしてたところを港湾の警備員が見付け、警察と自動相談所経由で この園に連れられてきたってことを知った。 なんだか普通の日本人にしては容姿が特殊だから、もしかしたら瞬は日本人じゃなくて、日本語がわからなくて、それで口をきかないのかもしれないって、先生方は言ってた。 つまり、親と名乗る者たちの暴力を恐れるあまり口がきけないんじゃなくて、言葉自体がわかっていないだけなんじゃないかって。 次の日には、瞬が日本語を喋れることがわかって、先生方は安心したみたいだったけど。 ううん。安心してる暇はなかったのかな。 瞬が、日本語以外にも いろんな国の言葉を喋れることがわかって、そのせいで、すぐにまた大騒ぎが起こったから。 でも、その騒ぎが起こるのを待つまでもなく――その日の晩ご飯の時から、普通じゃない子供たちの中でも、瞬が特に変な奴だってことは、もうわかり始めてたんだ。 瞬は、僕が晩ご飯の前に座ってから5分後くらいに、先生たちに連れられて食堂に来た。 新入りに興味を示すのは、そこにいる子供たちの半分くらい。 特に、いじめっ子たち。 あとの半分は、他人に興味なんか示さない。 僕みたいに、人を敵と味方に分類して対応を決める子供はいないって言っていい。 ここの子たちには、他人は みんな敵。 その敵の中に、暴力を振るう人間と振るわない人間がいるだけなんだ。 すこやか園の食堂には、6人掛けのテーブルが10個くらいある。 今は、ここには40人くらいの子供がいるはずだ。 高校生から小学校に入る前の子供まで、年齢はばらばら。 園に来て すぐ親じゃない親族に引き取られていく子や、いったん親のとこに帰って、またここに戻ってくる子なんかも多くて、出入りが激しいから、正確な人数は、もう2年もここにいる僕にもわからない。 みんなが決まった時刻に食事のテーブルに着くこともないから。 瞬は その中のテーブルの一つに座らされて、最初は、目の前にあるものが何なのか わからないみたいに きょときょとしてたけど、おなかが空いてたのか、すぐにご飯を食べ始めた。 「ここは 普通の家とはちょっと違うけど、じき慣れるわ」 瞬が自分でご飯を食べ出したのを見て、佐藤先生は安心したみたいだった。 たまに、先生が食べさせてやらないと、それが食べていいものだってことを認識できない子供もいるから、手間のかからない子供は有難いってことなんだろう。 初日だから、佐藤先生は瞬の向かいの席に座って、瞬がご飯を食べるのをずっと見てた。 別のテーブルから、ちらちら その様子を盗み見ながら、僕は、あんまり普通で問題のない食事風景に、ちょっと詰まらない気分になってた。 何か騒ぎが起こることを期待してたわけじゃないけど、何かが起こってくれなきゃ、新入りがどういう子なのか わからないもの。 でも、僕が『詰まらない』と感じていた瞬の食事風景が、実はものすごく特殊な事態だったことを、僕はすぐに知った。 晩ご飯のあとの自由時間に、先生方が談話室で話してるのを盗み聞いて。 「あの子……瞬って名乗ったんでしたっけ? 名前しか憶えてないみたいだって話ですけど、もしかしたら、あの子、本当は ちゃんとした家の子で、記憶を失ってるだけかもしれませんよ」 「どうして そう思われたんです」 「お箸の使い方です。お箸の取り方、持ち方、置き方。私はご飯は食べれればいいって人間で、ちゃんとしたお作法なんて知りませんけど、あの子、多分、そういうお作法をちゃんと躾けられてますよ。お箸の取り方がねえ、こう右手で取って、左手を添えて、手の位置をずらして、右手で取り直し。ちゃんとしたお作法が自然に身についてるんです」 「ほう」 園長先生が佐藤先生の報告を聞いて、細い目をちょっと見開く。 園長先生は、でも、あんまり驚いてるふうには見えなかった。 園長先生は、多分、最初から、瞬のことを いわくありげな子だって思ってたんだろう。 それにしても、箸の取り方に作法なんてあるのか? それは、僕には初めて聞く話で――知らないことがあるのは癪だから、あとで図書室のパソコンで調べておこうって、僕は思った。 「あの分だと、あの子、フランス料理だって、マナー通りに食べてみせるかもしれませんよ」 「予算があれば確かめてみたいところだが」 『予算がない』『人手が足りない』は園長先生の口癖。 フランス料理って、そんなに高いものなのか? これも、あとで調べておこう。 「あれならきっと、身元はすぐにわかりますよ。多分、ちゃんとした躾のできる親のいる 佐藤先生が自信ありげに言う。 佐藤先生の推測は外れて、瞬の身内は なかなか現われなかったけどね。 瞬は、すぐに園を出ることにはならなかった。 そして、次の日から、すこやか園は、瞬のせいで騒ぎの出血大売出しスーパーみたいになってしまったんだ。 |