すこやか園には、高校生が三人いる。
義務教育は終わってるんだから、さっさと園を出て、自活でも何でも始めればいいのにって思うけど、そうもいかないらしくて。
三人は三人共、乱暴な奴等だ。
頭は悪いけど、身体が大きくて、腕力がある。
本当に喧嘩が強いのかどうかは知らないけど、僕は痩せっぽちで身長もまだ115センチしかないチビ。
で、あいつらは、170だの180。
威嚇されるだけでも、恐怖心は生まれる。
あいつ等をギャクタイしてた奴等は、今 自分の息子たちに会ったら、きっとびくびく怯えることになるに違いないよ。

夕べはさっさと晩ご飯を済ませたんで、新入りが入ってきたことを知らなかったらしい そいつ等が、次の日の朝ご飯の時に瞬に気付いて、そして、目をつけた。
その日はよりにもよって日曜で、学校はお休み。
何か騒ぎが起きるって、僕は思った。
とばっちりを食うのは嫌だから、僕は何も見えてない振りをしてたけど。
奴等は、朝ご飯を済ませると、にやにや笑いながら、瞬の側に近寄っていった。

「おい、おまえ。女じゃねえってほんとか」
奴等に訊かれても、瞬は何も答えないで、きょとんとしてた。
瞬が何か答えることで、次の展開が変わっていたとも思えないから、それについては僕も 瞬の愚かな対応を批判するのは控えるけど。
「確かめてやろうぜ」
奴等の一人が、瞬が着せられてたトレーナーの首のところを掴んで、瞬を立ち上がらせた。
そして、奴等は、本当に 三人がかりで瞬が着てるトレーナーを脱がせようとし始めたんだ。

もう瞬は奴等に殴られる事態を避けられない――って思った。
暴力を振るう馬鹿は、服を着てると見えないところを殴るんだ。
僕のパパもそうだった。
馬鹿のくせに、そういうことにだけは頭がまわる ろくでなしなんだ、奴等は。

瞬は、見るからに鈍そうで、ぼんやりしてて、悲鳴をあげて誰かを呼ぶこともできそうになかった――しなかった。
僕は暴力の現場を見るのは嫌だから、さりげなく食堂を出ていこうとした。
瞬を助けることなんて、考えもしなかった。
それを、卑怯なこと、悪いこと だなんて思わない。
僕がパパたちに殴られたり蹴られたりしていた時、僕は誰にも助けてもらえなかった。
だから、僕が、誰かを助けてやる必要はない。

新入りのことより、僕は僕を守らなきゃならない。
僕は、人が暴力を振るわれてるのを見ると、僕自身が殴られたり蹴られたりしているような錯覚を起こして、自分に・・・加えられてる暴力から1秒でも早く逃げるため、気を失ってしまうんだ。
だから、僕がその場から逃げ出そうとしたのは、医務室の世話になる人間を一人減らすため。
ヒトサマになるべく迷惑をかけないようにするための、いわば、大人の分別だった。

新入りに最初の一撃が加えられる前に食堂を出ようと考えて、そのタイミングを見計らいながら、僕は極力目立たないよう 掛けていた椅子から立ち上がろうとした。
その時だった。
図体がでかいだけの乱暴者たちが、
「なんだーっ !? 」
って、素っ頓狂な声をあげたのは。
どうやら、瞬は、瞬を捕まえようとした高校生たちの手を すり抜けてしまったみたいだった。
それは、ニブくてノロい亀を捕まえようとしてのばした手の先で 亀がウサギに変身してしまったような事態だったから、奴等はびっくりしたらしい。

「待て、このガキ!」
慌てて態勢を整え直して、大声で恫喝しながら、奴等はまた瞬のトレーナーを掴むために手をのばした。
でも、奴等は瞬を捕まえられなかった。
そんなことを三人が代わりばんこに2度3度。
なんで奴等は瞬を捕まえられないのかって、僕は多分、当の三人以上に不思議に思ってた。

瞬は、奴等に触れてもいない。
最小の動作で、自分を捕まえようとする奴等の手を避けてるだけ。
瞬のすばしこい動きに撹乱されて、奴等は勝手に一人で つんのめって転んだり、倒れたりしてた。
そして、瞬は ひらひらと逃げていく。
知らんぷりしてた方がいいってことはわかってたのに、僕は席を立って、瞬たちのあとを追いかけずにいられなかった。

瞬は、なんで自分が追いかけられてるのかがわかってない蝶々みたいだった。
血相を変えた高校生たちを怪訝そうに見詰めながら、ふわふわ ひらひら廊下をあとずさっていく。
そのうち 廊下の端に行き着いて、瞬は階段を昇り始めた。
他に行き場がなかったとはいえ、上に逃げるなんて馬鹿だって、僕は思ったんだ。
すこやか園は2階建て。
上に行ったら、すぐに逃げ場所がなくなって、追い詰められるのがわかりきってるのに――って。

案の定、瞬は最後に屋上に出ることになった。
昨日の洗濯物が取り込まれ、今日の洗濯物はまだ干されていない物干し竿が並んでるだけの 屋上。物干し竿の他には、秋の朝の冷たい空気があるだけの場所。
他の場所に通じているのは、瞬が今 昇ってきた階段だけだ。
自分たちの追撃の無様さに焦りを覚え始めていたらしい高校生たちは、ついに自分たちが獲物を追い詰めたことを知って、その品性のない顔に 下卑た笑いを浮かべた。

「おまえたち、何をしている!」
「あなたたち、馬鹿なことはやめなさい!」
誰かが先生たちに知らせにいったとは思えないから、多分 二人は自分の耳で騒ぎを聞きつけて様子を見にきたんだろう。
園長先生と佐藤先生が、高校生たちの背中に向かって制止と叱責の声をあげる。
でも、乱暴者たちには先生たちの声が聞こえてないみたいだった。
瞬にひらひら逃げられて、奴等は平常心を失っていたから。
おまけに、奴等はかなり息を切らしてた。
対照的に、瞬の方は、息も乱していなかった。

でも、もう逃げ場はない。
一回 大人しく殴られておけば、こんなことにはならなかったのに、逃げたりなんかするから 奴等も引っ込みがつかなくなってるんだ。
瞬が、屋上の周囲に張り巡らされた金網のフェンスにまで追い詰められる。
これで逃亡劇は終わりだって、僕は思った。
でも、先生たちも来てるし、大事にはならないだろうって思ってたんだ。
まさか先生たちの目の前で 奴等が瞬を殴ったりするはずもないし、瞬は、すんでのところで命拾いをした――って。

なのに、瞬は、更に逃げようとした。
瞬は、金網のフェンスの上にふわっと飛び乗って――瞬のその行動にぎょっとした高校生たちが ひるんだ隙に、瞬は屋上から下に飛び降りた。
飛び降りたんだ。
蝶々みたいに、ひらひらって。

思いがけない事態に呆然としている高校生たちを押しのけて、先生たちが金網に取りつく。
そうして、下を見て、先生たちは 呻き声なんだか、溜め息なんだかわからない音を、喉の奥から洩らした。
すぐに救急車を呼べって叫びだすだろうって思ってた先生たちが そうしないから、何か普通でないことが起きたんだと察して、僕は、先生たちに数秒遅れて金網のフェンスの側に駆け寄った。
そして、下を見た。
そしたら。

園の庭に、瞬が立っていた。
相変わらず なんで自分が追いかけられてるのかわかってないみたいな顔をして、少し首をかしげながら、瞬は屋上を振り仰いでいたんだ。
そんな瞬を見て、高校生たちと先生方は、阿呆みたいにぽかんとしてた。
ほんとに口をぽかんと開けて、どんな言葉も口にできずにいた。

瞬は、怪我ひとつしていないみたいだった。
しばらくすると、ぱたぱた歩いて、玄関の中に姿を消した。
『ぱたぱた』っていうのは、瞬はまだ上履きの準備ができていなくて、スリッパ履きだったから。
瞬は スリッパを履いた足で、1メートル50センチはあるフェンスに飛び乗り、そして、フェンスの高さを入れたら10メートル近くある高さから、地面に飛び降りたんだ。

「あ……あいつ、化け物かよ」
「宇宙人だ……」
へたをすれば瞬は死んでいたかもしれないのに――自分たちの軽率を反省した様子も後悔した様子もなく、高校生たちが馬鹿なことを呟く。
さすがに馬鹿な真似をした奴等を叱るより、瞬の無事を確かめることの方を優先した先生たちは、階下に続く階段を ものすごい勢いで駆け下りていった。

「しゅ……瞬くん、怪我はしてない? 骨は――足は――なぜ、こんな無茶なことを――」
先生方たちに少し遅れて 僕が階下に下りていった時、佐藤先生は、瞬の腕や脚に外傷のないことを確かめながら、半分泣いてるみたいな声で瞬に尋ねていた。
「大丈夫です」
瞬は、佐藤先生が取り乱してる訳がわからなかったのか、訝るみたいに首を傾けて、そう答えた。
へなへなと玄関前の廊下に へたりこんでしまった佐藤先生が、長い安堵の息と1分以上の沈黙のあとで、次に口にした言葉は、
「瞬くん、ちゃんと日本語 喋れるのね」
だった。

でも佐藤先生は、瞬がちゃんと日本語を喋れることくらいで安心してるべきじゃなかったんだ。
屋上飛び降り事件の翌日、瞬はまた違う騒ぎを起こした。
次の騒ぎは、でも、まかり間違えば死亡事故につながるような危険な騒ぎじゃなく、至って穏やかで平和的な(?)騒ぎだったけど。






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