瞬の屋上飛び降り事件の翌日。 園の建物の中に害虫駆除のための薬剤散布をするっていうんで、その日、僕たちは、園の庭に追い出され、銀杏の葉っぱ集めをさせられていた。 それは別に楽しいことでも嬉しいことでもなかったから、僕は無言で もくもくと、でも、かなり おざなりに その作業に取り組んでいたんだけど、僕以外の子供たちは、片付けても片付けても 次から次に葉っぱが散ってくる銀杏の木の下で、わいわい きゃーきゃー騒いでいた。 この辺りは、いわゆる閑静な住宅街っていうやつで、駅前までいかないと商店や交番はない。 だから――その騒ぎを聞きつけたから――だったんだろう。 そのガイジンが、すこやか園の門をすり抜け、園の敷地内に入り込んできたのは。 その栗色の髪の中年のおばさんは、手に小さなリーフレットを持っていた。 そして、そのリーフレットの あるページを指し示しながら、何やら 訳のわからないことを喚き始めたんだ。 それはほんとは“訳のわからないこと”じゃなかったんだろうけど、おばさんが何を言っているのかが、僕には全然わからなかった。 おばさんが話しているのは日本語じゃなかったから。 おばさんの声を聞きつけたらしい瞬が、葉っぱ集めの仕事を中断して おばさんに話しかけ、瞬に話しかけられたおばさんは、地獄で仏に会った人みたいに ぱっと明るい笑顔になった。 おばさんの訴えを一通り聞き終えた瞬が、おばさんに頷いて、佐藤先生の方を振り返る。 「こちらの方が、江戸中期の民芸品を展示している区立美術館を探してるそうなんですが、場所はわかりますか」 「え?」 英語のできない佐藤先生は、“こちらの方”の姿を認めると、多分 庭のどこかにいるはずの鈴木先生を探して、視線をぐるりと巡らせた。 鈴木先生は、英語が話せるんだ。 「鈴木先生! すみません、お願いします!」 佐藤先生に呼ばれると、鈴木先生は銀杏の葉っぱの袋詰め作業を途中でやめて、おばさんの方に駆けていった。 でも、通じなかったんだ。 迷子のおばさんが話してる言葉は英語じゃなかったらしい。 困った顔になった鈴木先生を見て事情を察したらしい瞬が、鈴木先生に助け舟を出す。 「場所を教えてくれれば、僕が説明します」 鈴木先生から瞬、瞬から迷子のおばさん。 結局、伝言ゲームみたいにして、鈴木先生と瞬は おばさんに美術館の場所を伝えることができたらしい。 迷子のおばさんは、にこにこ笑って、何度も僕たちに手を振って、園の庭を出ていった。 園の子供たちは、訳もわからず おばさんに手を振り返してたけど、先生方には それは、にこにこ笑って やり過ごすことのできない大事件だったみたいだった。 「今の、何語だったの?」 葉っぱの入った大きなビニール袋を手にした佐藤先生が、目を見開いて瞬に尋ねていく。 ガイジンのおばさんの相手は鮮やかにこなしてみせた瞬が、佐藤先生に訊かれたことには首をかしげた。 瞬は、たった今 自分が話した言葉が何語なのかを知らないみたいだった。 つまり、知らないけど喋れる――ってことらしい。 僕たちが、日本語を日本語と意識しないで普通に喋ってるみたいに。 「メルシーって言ってたから、フランス語だろう」 鈴木先生に そう言われた佐藤先生は、それでなくても大きく見開いていた目を、更に大きく見開いた。 「瞬くん、フランス語が話せるの? フランスにいたことがあるの?」 日本語での佐藤先生の質問に、瞬が また首をかしげる。 「いや、佐藤先生。おそらく、この子は――」 瞬は、フランス語をフランス語と意識して話していない。 もちろん、日本語も日本語と意識して話していない――。 鈴木先生は、多分 そう言おうとしたんだろう。 その考えが正しいかどうかを確かめるために、鈴木先生は、試しに英語で瞬に話しかけてみた。多分。 そして、瞬はすらすらと鈴木先生に英語で答えてきた。多分。 僕は英語が聞き取れないし話せないから、ほんとのとこはわからないけど、多分。 1、2分、僕には わからない言葉で瞬と会話を交わしてから、鈴木先生は、日本語で、 「他に喋れる言語はあるかな?」 って訊いた。 「わかりません」 瞬が日本語で答えて――鈴木先生は低い呻き声みたいな声を洩らした。 鈴木先生は、瞬の語学力に果然興味が湧いたんだろう。 昼食を済ませると、瞬を区立の図書館に連れていった。 そして、図書館の視聴覚コーナーにある語学テキスト使って、瞬の語学力を調べてみたらしい。 半日かがりの調査をして、わかったことは、瞬が、英語、フランス語、ロシア語、ギリシャ語、中国語を聞き取れるし話せるってこと。 鈴木先生の調査報告を聞いても、佐藤先生は、今度は大して驚いた顔にはならなかった。 昨日の屋上飛び降り事件に続いて、今日の伝言ゲーム事件。 あんまり思いがけないことが続いたんで、佐藤先生は驚くことに疲れていたのかもしれない。 驚く代わりに、佐藤先生は、 「そんなに話せる言語があるなんて、やっぱり宇宙人ですか。地球にはない万能翻訳機か何かが身体のどこかに仕込まれているとか……」 なんて、荒唐無稽なことを言い出した。 鈴木先生が、佐藤先生の馬鹿げた言葉に笑いもせずに 首を横に振る。 「瞬くんには、知らない言語もあるんですよ。ドイツ語やヒンディー語は知らなかった。どう考えても、瞬くんは、フランス語やロシア語を学習して覚えたんです」 「学習して覚えた――って……」 そう呟いたきり、佐藤先生が黙ってしまったのは、つまり こういうことだろう。 『この歳の子供が、自発的に そんなに多くの言語の習得を望むはずがない。となれば、瞬は、親か それに類する大人によって、それらの言語を習得する機会を与えられたことになる。そんな親が子供を虐待したり、放り出したりするはずがない』 佐藤先生が口にしなかった その考えに、僕は胸中で賛同した。 それからはもう、毎日が驚くべき事件の連続。 瞬という一人の人間の存在が巻き起こす騒ぎの連続だった。 語学力調査の翌日、瞬が受けさせられたのは、インターネットからダウンロードしてきた簡易の知能指数テスト。 ただでダウンロードできる お手軽なテストだから、正確なところは測れなかったろうけど、そのテストで導き出された瞬のIQは 180近くあったらしかった。 「ヒトシくんより IQが高いなんて! この子、天才ですよ!」 採点を済ませた佐藤先生は、すっかり興奮しきっていた。 そりゃあ、そのテスト結果が正しいものだったなら、興奮する気持ちはわかるけど。 でも、僕よりIQが高い? この、ふわふわした瞬が? 僕より頭のいい人間が存在するなんて、僕には信じられなかった。 そして瞬も――瞬も、自分を天才だとは思っていないみたいだった。 「あの……違うと思います。このテストは――僕、目がいいんです。それで、文を読むのが人より少し早いんです。だから、答えを考える時間が人より長く与えられているようなもので……。これは、時間をかければ誰にでも解ける問題でしょう? 僕は、理解力や問題解決能力に優れているわけじゃないんです。むしろ、視覚とか反射能力とか、頭脳より肉体の能力の方が優れているだけなんじゃないかと――」 謙遜なのか何なのか、瞬はそう言った。 瞬は、気負い込んでる先生たちに怯え気後れしてるみたいだった。 でも、先生たちの興奮状態は静まらない。 静まるどころか。 瞬の自己申告では頭脳より優れているっていう肉体の能力を確かめるため、先生方は翌日には、瞬の体力測定と運動能力テストを始めたんだ。 もちろん、その結果も、尋常の人間のそれとは思えないものだった。 100メートルの短距離も2万メートルの中距離も、瞬は世界記録より速く走った。 幅跳びも高跳びも、世界記録より長く高く飛んだ。 鉄棒で何かしてみろって言われたら、瞬は鉄棒の上に飛び乗って(!)、そこで宙返りをしてみせた。 まるで危なげなく。 ストップウォッチもメジャーも、そのへんの雑貨屋で売ってるような いい加減なものを使ったみたいだったから、その測定値は かなりいい加減なものだったろうけど、測らなくても、目で見てるだけでも瞬が普通じゃないことはわかった。 僕にも、先生たちにも、園にいる小学校に入る前の小さな子供たちにさえ。 「信じられん。なんなんだ、この子は。普通じゃない。一度、ちゃんとした施設で調べてもらった方がいいかもしれない」 「ちゃんとした施設というと?」 「それは、NASAとかBAASSとか」 鈴木先生も、こうなると『瞬=宇宙人』説に傾くしかなかったみたいだった。 ほんとに馬鹿げてる。 まだ、謎の秘密組織が遺伝子を操作して作った人工生命体だって考える方が、はるかに現実的だよ。 まあ、すこやか園には予算がないから、どっちにしても そんなとこで瞬を調べるなんてことは できない相談だったろうけど。 |