その翌日のことだった。
朝早く、すこやか園の玄関に、玄関全体をふさいでしまうくらい大きな黒い車が乗りつけてきたのは。
僕たちは、ちょうど庭での朝の体操を終えたばかりで、瞬にまとわりつきながら 屋内に戻ろうとしていたところだった。

リムジンの後部のドアから、やたら慌てた様子の金髪の男が飛び出てきて、僕たちの進路の前に立ちふさがる。
そして、その男は、探し物を見付けて安堵したっていうより、失せ物を見付けられずにいた20日余りの心労からまだ立ち直れていないっていうような顔をして、瞬に右の手を差しのべてきた。
「捜したんだぞ、瞬」
「あ……」

自分の目の前に ふいに現われた男が誰なのか、瞬には すぐにはわからなかったみたいだった。
見知らぬ人の名を口にするみたいに頼りない声で、瞬が その男の名(?)を呟く。
「ひょう……が……?」
瞬に名を呼ばれて、“ひょうが”は、初めて心から安堵したような表情を その顔に浮かべた。
「心配させるな」
「氷河……氷河……!」
次の瞬間、瞬は、その金髪の男に飛びついていった。
ほんとに飛ぶみたいにして。

そんな瞬の身体を、金髪の男が両腕でしっかりと抱きしめる。
二人は、そして、キスしたみたいに見えたけど、それは僕の目の錯覚か、ただの弾みでそうなってしまっただけだったんだろう。多分。
瞬は男の子だし、その金髪の男は、どう見ても女の人じゃなかったから。
乱暴者の高校生より強くて、この世に恐いものなしの瞬が、その金髪の男の胸の中では やたらに小さくて可愛い子供みたいに見えた。
それも、でも、僕の錯覚だったろう。
いくら小柄っていっても、瞬は僕たちよりは ずっと大人で、背も僕より50センチは高かったもの。

「いったいなぜ――。墓参りをしたら、すぐに戻ると言っていたのに、いつまで経っても戻ってこないから、あの島で何かあったのかと……」
「デスクイーン島に――暗い小宇宙が残ってたの。多分、ブラック聖闘士の――憎悪なのか、未練なのか、嘆きなのか……。ハーデスのそれとも冥闘士のそれとも違う、不思議な執念みたいな何かで、僕、恐くなって心を閉じたの。あの暗い小宇宙に取り込まれてしまわないように、心を閉じて、船を待っていたはずだったんだけど、気がついたら、僕、日本の横浜の港にいたんだ。でも、強く自己暗示をかけすぎたせいか、記憶がぼんやりしてて、自分がどこに帰ればいいのかわからなくて……」
「船には乗っていたのか。やはり あの船長が食わせ物だったんだな。エスメラルダスの港とデスクイーン島を結ぶ船の船長が、帰りの船には おまえを乗せていないと言うから、てっきり島のどこかにいるのだと思って、俺たちはデスクイーン島周辺だけを捜索していたんだ。一昨日、おまえのカードがグアヤキルのデパートで使われたと連絡が入って……夕べ 警察から知らせがなかったら、俺たちは今日エクアドルに飛ぶことになっていたんだぞ」

瞬と金髪の男が訳のわからないことを話してるのに、僕たちがぽかんとしてるうちに、二人の後ろには いつのまにか、髪の毛があっちこっちに飛んでる子供みたいな奴と、やたら長い髪をした男と、若いんだか大人なんだか よくわからない女の人が立っていた。
「よかったー。おまえがいない間、氷河が狂犬病の犬みたいに凶暴になって大変だったんだぜ」
髪の毛があっちこっちに飛んでる奴が、そう言って瞬の背中を叩いて、
「これで、やっと平和が戻ってくるな。本当によかった」
長髪の男が、そう言って笑う。

「瞬がお世話になりました。本当に、何といってお礼を言ったらいいか」
最後に真打ち登場と言わんばかりの貫禄で そう言ったのは、大粒の真珠のネックレスを身につけた女の人。
この古ぼけた すこやか園には似つかわしくない黒塗りのリムジンに驚いて、園長室を飛び出てきたらしい園長先生は、その女の人に ひたすら恐縮していた。
「あの……あなたが城戸さん――城戸様ですか。グラード財団の総帥が――ご本人様が、本当に わざわざ……」
「お世話になったのは こちらですもの。当然のことですわ。子供たちも瞬と仲良くしてくださっていたのですね。後日、私の名で市長に感謝状を出しておきますわ。きっと 良いようにしてくれることでしょう」
「お……恐れいります……。お恥ずかしいほど粗末なところですが、中でお茶でも――」
「お構いなく。私共は、瞬さえ無事に取り戻せれば、それだけで――」
「あの……! あの、瞬くんはいったい何者なんですかっ !? 」
「え……?」

佐藤先生が急に大声で そんなことを言い出したのは、多分、キドサマとかいう女の人が、そのまま何の説明もせずに瞬を連れ帰っていってしまいそうだったからだろう。
そうしたら、瞬の正体は永遠に わからなくなってしまうと、佐藤先生は思ったんだ。
気負い込んでいる佐藤先生の前で、真珠のネックレスの女の人が ゆっくりと首をかしげる。
「何者……とは?」
「いえ、その……瞬くんは、競走でも幅跳びでも高飛びでもIQテストでも、とても尋常の人間とは思えない測定値を出して――」
「ああ、そういうこと。そういうことでしたら、瞬はごく普通の人間ですのよ。ただ、ちょっと特殊な訓練を受けた」
「普通の人間……?」
鈴木先生が、そんなこと とても信じられないって顔で、低い呻き声を洩らす。
鈴木先生は、やっぱり瞬が宇宙人だって信じてたみたいだ。

でも、僕は、瞬が普通の人間でも宇宙人でも、そんなことはどうでもよかったんだ。
普通の家でも、遠くの星でも、瞬が すこやか園からいなくなってしまうのは同じ。
そして、僕が 瞬と離れ離れにされてしまうことは同じ。
そんなことには、僕は耐えられない。
僕は、瞬の――瞬のこの優しい感じにいつまでも包まれていたい。
瞬と離れたくない。

「い……行かないで。ここにいてよ」
僕は、決死の思いで、瞬にそう言った。
かすれた声――自分で思っていたよりずっと幼い弱々しい声で。
僕の声は――こんな声だったんだ。

「ヒトシくんが……」
「園長先生、ヒトシくんが口をききました!」
途端に、佐藤先生が 飛び上がらんばかりに驚いて、僕の側に駆け寄ってくる。
「ヒトシくん、声を出せるの? 私たちの言っていることがわかる?」
「あ……」
そうか、僕は、先生たちの前で、すこやか園に来てからずっと、口をきいたことがなかったんだ。
慌てている先生たちを見て、僕は そのことに初めて気付いた。
自分がずっと――もう何年も――口をきかずにいたことに。

パパに口をきくなって言われたから。
逆らえば、殴られるって わかっていたから。
でも、今は、瞬を引き止めたいって気持ちの方が強い。
口をきいて誰かに殴られることを恐れる気持ちなんかよりずっと。
だって、瞬がいなくなってしまったら、僕はまた一人になってしまうもの。
瞬がいなくなってしまったら、僕はまた 口をきけない悲しくて寂しい子供に戻るんだ。
「いやだ。瞬、行かないで……」
僕は泣きべそをかきながら、瞬に訴えた。

馬鹿で乱暴者の高校生たちも、その気持ちは僕と同じだったみたい。
「どうしても ここを出ていかなくちゃならないのか? 俺たちに、あの技を教えてくれないのか……?」
って、落胆した子供みたいに、三人は――三人も――瞬の前でしおれていた。
まして、僕たちより先に瞬に懐いていった子供たちは 言わずもがな。
中には、「瞬ちゃん、行っちゃいやー」って、不安のせいで泣き出す女の子まで現れた。
僕たちは、瞬にここにいてほしかった。
笑って『ばいばい』なんて言えなかった。
僕に取りすがられて、みんなに取り囲まれて、瞬は その場に立ち往生。

『絶対に瞬を渡すもんか』っていう僕たちの覚悟をぼやかして・・・・・しまったのは、あの 髪の毛があっちこっちに飛んでる奴だった。
「おまえ、ここでボスだったのかよ? 昔は、泣き虫のいじめられっ子だったのに、随分 出世したじゃん」
あっちこっち髪の奴の言うことに、僕はびっくりした。
僕だけでなく、他の子供たちも高校生たちもびっくりした。
スーパーマンみたいに何でもできる瞬が、泣き虫のいじめられっ子だったなんて、そんなこと信じられるわけないもの。

「瞬が?」
「瞬ちゃんが?」
「そう、シュンチャンが。瞬は、昔は『泣き虫瞬ちゃん』って呼ばれてたんだぜ。俺たちのいた“施設”は、親のない子だけが、ここの倍以上集められてるとこだったんだけど、瞬は その中でいちばん弱くて、ひょろひょろしてて――」
「星矢たちが僕を庇って守って鍛えてくれたから、おかげで、こんなにたくましく育ちました!」
過去の栄光ならぬ過去の屈辱をばらされたっていうのに、瞬は 嬉しそうに笑って そう言った。
そんなふうに――子供みたいに笑う瞬を、僕は初めて見た――かもしれない。

瞬は――瞬は、いい家の子じゃなかった。
“いい家”に引き取られて、特殊な訓練や厳しい作法を身につけさせられた孤児だった。
両親もいない。
僕と違って、瞬のパパとママは もう生きてもいないんだ。
僕は、そのことを知って――知らされて、絶望的な気分になった。
親のない瞬にとって、きっと こいつらは――朝早くに揃って瞬を迎えに来た こいつらは――多分、すごく大事な仲間なんだ。
こいつらこそが 瞬の本当の仲間で、僕たちは違う――。

三馬鹿に そのことがわかったとは思えない。
でも、三人は、理屈を超えた野生の勘で、瞬をここに引き止めることは不可能だと感じ取ったみたいだった。
「ここ出てっても、時々でいいから来てくれよ」
「動体視力もまだ全然 鍛えてもらってないし、できればさ……」
それは、三馬鹿の、三馬鹿なりの遠慮と我儘だったろう。
そんな三人の控えめなんだか図々しいんだか わからない様子を見た瞬が、女の人に向き直る。

「沙織さん。彼等は、素質の有無はわかりませんが、ひたむきに努力するという才能はあると思うんです。ちゃんとした指導者について学べるようにしてあげられませんか。えと、基礎体力トレーニングと、それからボクシングと柔道――」
「それはもちろん、瞬がお世話になったのだし、できるだけのことはするわ。どこのジムでも道場でも希望があったら言ってちょうだい。道具もプレゼントさせていただくわ。小さなお友だちには、お洋服か絵本がいいかしら」

「えーっ、ほんとー !? 」
小さなお友だちだけでなく、大きなお友だちまでが、その女の人が口にした“プレゼント”にどよめく。
そんなことで 大人に ころっと騙される みんなの気持ちはわからないでもない。
ここには、誕生日のプレゼントもクリスマスのプレゼントもないんだから。
すこやか園には、予算も人手も足りないんだから。
わかるよ。
わかるけど。

「俺……俺たち、頭は悪いけど、根性はあります。頑張ります!」
「私は、リボンのついた赤い靴がほしいのー」
「俺、サッカーのボール! ワールドカップで使われたやつ!」
「みんなにプレゼントするわ。これまで瞬を守ってくれてたんですもの」
「わあっ!」

女の人の確約に みんなは喜んでたけど、僕はそんな気持ちにはなれなかった。
僕が欲しいのは洋服でもサッカーボールでもなく、瞬だったから。
瞬だけだったから。
だから、僕は、もう一度 瞬に言った。
「行かないで」
「ヒトシくん……」

みんなの笑顔に安心しかけていた瞬が、切なげな顔になる。
瞬の隣りで金色の髪の奴が無表情に、まるで睨みつけるみたいに僕を見おろしてて、僕は それが恐かったけど、でも言わずにはいられなかった。
瞬がいなくなったら、僕はどこで人の温かさに触れればいいんだ?
あの三人から僕たちを守ってくれる人だっていなくなる。
瞬がいなくなった すこやか園はきっと、瞬がここに来る以前より寒くて ひどい場所になるよ。
そんなところに ひとり残されたら、僕はきっと生きていけない。

『生きていけない』って、僕は本気で思ったんだ。
僕は凍えて死ぬか、乱暴者の高校生たちに いじめられて死ぬしかないって、ほんとの本気で思ってた。
僕をいじめてた高校生たちが、
「瞬が困ってるだろ。おまえのことは、俺たちが守ってやるから」
って言い出すまで。
「守って? 僕……僕を?」
「ああ。瞬に そう約束したからな」
三馬鹿は 真顔で僕にそう言って、深く しっかり頷いた。

そんな三人と僕を見て、先生たちは大きく 目をみはってた。
それはそうだよ。
すこやか園の頭痛の種の三人が、すこやか園のいちばんの問題児の僕を守ってやるなんて、殊勝な顔して言ってるんだから。

「残念です。瞬くんがきて、この園のムードがいい方に変わったって、喜んでいたのに」
嬉しそうに、でも、残念そうに、園長先生が言う。
「神の遣わした天使かと思ってましたよ」
「先生は、瞬のこと、宇宙人なんじゃないかって言ってたよ」
僕が そう言うと、鈴木先生は困ったように苦笑いをした。

でも、先生たちは、パパやママみたいに、『生意気な口をきくな』って、僕を怒鳴ったりしなかったし、殴ったりもしなかった。
そんなことはわかってた。
園長先生も佐藤先生も鈴木先生も、そんなことはしない。
でも、もしかしたらって、僕は恐かったんだ。
恐かった。
だから、黙ってた。
誰とも関わらず一人でいるのが“幸せなこと”なんだって自分に言いきかせ、そう信じてもいた。
瞬に抱きしめてもらうまで。

瞬は――僕の その“生意気な口”に、瞬はむしろ安心したみたいだった。
そして、瞬は、
「ヒトシくん、そんな顔しないで。僕、時々 ここに来るよ。ヒトシくんたちに会いに。約束する」
そう言って、僕と指切りをして、瞬の仲間たちの許に戻っていったんだ。
瞬の本当の仲間たちのところに。






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