月の女神にして狩猟の神、純潔の神、そして なぜか豊穣神でもあるアルテミスが、次に聖域に姿を現わしたのは、それから10日ほどが経った ある日の午後だった。
聖域はアテナの結界で覆われているのだが、それはアテナや聖域に――ひいては、人間界に――害意を持つ者に対してだけ有効な防御壁らしく、氷河個人への憤りのみに囚われているアルテミスの侵入を妨げることは、アテナの結界にはできなかったようだった。
そのためアルテミスは、実に堂々とした態度で、真っ昼間の聖域に その姿を現わしたのである。
肉体の鍛錬がてら、アテナ神殿の裏手の断崖に石の塁壁を築く作業をしていた氷河たちの前――つまりは、他の聖闘士や軍兵たちのいる場所に。

「目が見えぬでは、こういう築造作業も さぞかし大変であろうな。少しは懲りたか」
月の女神は、おそらく、無礼なアテナの聖闘士が彼女に泣いて許しを乞うことを期待していた。
彼女の期待は、決して無謀なものでも、理に外れたものでもなかっただろう。
ただ、相手が悪かったのだ。
彼女が その期待を抱いた相手は、アテナの聖闘士にあるまじき快楽主義者だった。

つまり、純潔の女神に対して、氷河は、
「懲りてはいないが、貴様には感謝している。最近、夜の訪れが待ち遠しくてならないんだ。目が見えないと、他の感覚が研ぎ澄まされる。おかげで俺は、以前よりずっと 快感を強く大きく感じることができるようになった。俺は、これまで、目が見えていたせいで、瞬の肌の滑らかさにも、瞬の唇や肌の味にも無頓着だった。瞬が感極まると、微かに肌から甘い香りが立つんだ。視力を失うまで気付かずにいたことだ。気付くことができたのは、貴様が俺から視力を奪ってくれたおかげだ。俺は貴様には心から感謝している」
――などということを平然と言ってのける痴れ者だったのである。

「なにっ」
氷河の恥知らずな謝辞を聞いたアルテミスが、眉を吊り上げる。
瞬が慌てて仲裁に入ろうとしたのだが、時 既に遅し。
「ならば、次は、その耳を聞こえなく――いや、それで私の声まで聞こえなくなるのはまずいな。では、恥ずかしげもなく恥ずかしいことを並べ立てる その口をきけなくして――いや、それで、そなたの泣き言を聞けなくなるのもまずい。よし、嗅覚だ。そなたの恋人の甘い香りとやらを嗅げなくしてやる」
怒り狂った処女神によって、かくして氷河は、視覚に続き嗅覚までを失うことになったのである。
それ以降は、憎まれ口と減らず口、暴言と放言の投げつけ合い、神の力と人間の抵抗の衝突の連続だった。

氷河が嗅覚を奪われて数日後、またしても聖域に現われたアルテミスに対する氷河の反省の弁(?)は、
「嗅覚がないと、食い物が恐ろしく味気なく感じられる。これには参ったが、瞬が美味なのはわかるから無問題だな」
懲りる態度を見せない氷河から、アルテミスは今度は味覚を奪った。

アルテミスが氷河から視覚、嗅覚、味覚を奪った数日後。
またまた聖域に現われた処女神アルテミスに、氷河曰く、
「食い物の不味さがわからなくなって、かえって助かったぞ。瞬の肌の味を味わえないのはつらいが、肌の柔らかさは確かめられるし、瞬の中の具合いの良さも、以前より明瞭に感じ取れるようになった。あれは嗅覚味覚で味わうものではないからな」

ならばと、白鳥座の聖闘士から触覚を奪ったアルテミスに、氷河が述べた感想は、
「初めての経験で、これには本当に感激したぞ。瞬に触れている感じがしないのに、俺のものが反応するんだ。瞬の中でイく時の、あの不思議な感覚。あんな感覚を体験できることがあろうとは思ってもいなかった。あんな経験を授けてくれる神の力というものは、実に実に素晴らしい」

「そなたは、なぜそこまで前向きなのだーっ !! 」
月の女神の怒声は 誰がどう聞いても完全な褒め言葉だったが、月の女神が決して白鳥座の聖闘士を褒めていないということは、彼女の怒声を聞いた誰にでも わかる明白な事実だった。

ちなみに、氷河は、アルテミスとのやりとりの ほとんどすべてを、彼の同僚や聖域の兵たちの前、時には黄金聖闘士のいる場所で――つまりは、公の場で――繰り広げていた。
純潔の女神も 氷河の強情には怒り狂っていたが、それ以上に、聖域の住人たちが、白鳥座の聖闘士の剛愎頑固と飽くなき助平心に呆れ果てていたのである。






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