人様に 氷河の友人と思われるのは御免被りたい――それが、星矢と紫龍の本音だったろう。
氷河とは、極力 他人の振りをしたい――というのが。
女神アテナを頂点に、黄金聖闘士、白銀聖闘士、青銅聖闘士。神殿に仕える巫女たち、事務官たち。更には、雑兵、主に力仕事に従事する男たちや 衣住食に関する仕事を行なう雑仕女まで入れれば、聖域には二千を下らない人間が暮らしている。
それらすべての住人たちの中で、氷河は今 最も有名な男だった。
この聖域に、黄金聖闘士の顔を知らぬ者はいてもキグナス氷河の顔を知らぬ者は ただの一人もいないと言われるほどの有名人に、氷河は成り果てていたのである。

そのキグナス氷河の友人と思われることは、大変な不名誉でこそあれ、絶対に名誉なことではない。
そう、星矢と紫龍は思っていたのだ。
にもかかわらず、彼等が“キグナス氷河の友人”という汚名に甘んじ、その友人宅にやってきていたのは、“キグナス氷河の恋人”という不名誉に健気に耐え続けている瞬の心を気遣えばこそ。
星矢と紫龍は、何とかして氷河の素行を改めさせ、せめて氷河を“聖域で5番目に有名な男”くらいにしてやりたいと思っていたのである。
あくまでも、氷河のためではなく、瞬のために。

「なあ、氷河。おまえ、そこまで意地を張り通したら、もう十分だろ。素直に謝って、許してもらえって」
「アテナの聖闘士のプライドにかけて、アテナ以外の女神に頭を下げることなどできん」
「プライドってさあ……。最初、視覚、次に嗅覚、味覚、触覚と奪われてきたんだぜ。次は絶対、聴覚だ。聴覚を奪われたら、当然、口もきけなくなる。いいか、五感があるから、第六感があって、その上にセブンセンシズがあるんだぞ。わかってんのか? 五感すべて奪われた状態で、聖闘士が小宇宙を燃やせるかどうかさえ――」
「五感をすべて失って、小宇宙だけで瞬と交わったら、どれだけすごい快楽を得られるんだろうな」
「……」

アテナの聖闘士の第一の務めは、アテナと地上の平和を守ることであって、恋人との性的喜悦を極めることではない。
視覚を失い、嗅覚、味覚、触覚までを失っていながら、希望だけは決して失うことなく、むしろ楽しげに瞬との快楽を語る氷河の言葉は、星矢と紫龍を極端に疲れさせ、また 彼等を絶望的な気分にさせるものだった。

「何も感じないと思うが。感覚器が みな死んでいるんだから」
「心だけの交わりができるかもしれないじゃないか。瞬の敏感な肉体と 俺の純粋な心の交わり。いったい どんなことになるのか、楽しみでならん」
「おまえが瞬より清らかになってどうすんだよ!」

この男は救い難い。
さっさと見捨ててしまいたい――。
星矢と紫龍は、もちろん そう思っていた。
そうしようと思えば、今すぐにでも氷河を見捨てることはできるのに、星矢たちが その考えを実行に移さずにいたのは、まず第一に瞬のため。
そして、第二に、月の女神アルテミスも 氷河に負けず劣らず とんでもない女神だと思うからだった。
この・・氷河と対等に渡り合えるだけでも、そのとんでもなさは他の追随を許さぬものだと思う。
しかし、それ以上に―― 一人の人間から五感のうちの4つの感覚を奪い去るほどの力を持ちながら、氷河に決定的打撃を与えることのできない女神の間抜け振りに、星矢と紫龍は『どっちもどっち』という気持ちになっていたのだった。

「おまえの懲りなさというか、人智を超えた助平根性には 心底から恐れ入るけどさあ。アルテミスとかいう神様も、かなりの馬鹿だよなー。おまえを ぶちのめしたいのなら、もっと――」
「どうすればよいのだ」
「へっ」
突然、狭い家の中に出現した どこかで聞いたことのある声――に、星矢は飛び上がらんばかりに驚いてしまったのである。

氷河と瞬が暮らす、つましい小さな家。
客間と居間と食事部屋を兼ねた部屋の中央にある、頑丈だけが取りえの粗末な木の卓。
その卓の一角に片肘をついて着席していた星矢の隣りの椅子に、月の女神にして狩猟の神、純潔の神、そして なぜか豊穣神でもあるアルテミスが、いつのまにか腰をおろしていたのだ。
想定外の事態に声と言葉を失うほど動転した星矢に、月の女神にして狩猟の神、純潔の神、そして なぜか豊穣神でもあるアルテミスが、真顔で尋ねてくる。

「言え。どうすれば、私は この恥知らずな男を完膚なきまでに打ちのめすことができるのだ !? 」
「わざわざそんなことを訊きに、オリュンポス12神に数えられるほどの女神が こんなボロ屋に お出ましとは……」
白鳥座の聖闘士を叩きのめすために なりふり構わぬ月の女神の振舞いに、それでなくても氷河の奇矯な言動に疲れ果てていた紫龍の体力気力は 尽きかけていた。
完膚なきまでに打ちのめしたい当の男がいる場所で、そんなことを真顔で訊いてくる女神の思考回路と感性は 氷河以上に常軌を逸しているとさえ、紫龍は思ったのである。

「あんた、ほんとに、どうすれば氷河を完膚なきまでに打ちのめせるのか わかんないのか?」
月の女神に尋ね返す星矢の声には、意外の念と、そして 軽少とは言い難い困惑が混じっていた。
「そんなことも わかんないのか? ほんとに?」
重ねて尋ねた星矢に、月の女神が むっとした顔になる。
彼女は、星矢に問われたことに否とも応とも答えなかった。

月の女神はもちろん“そんなことも わかんない”でいるのだ。
だからこそ、彼女は、こんなささやかな家にまで――紫龍の言を借りるなら、“ボロ家”にまで――足を運んできた。
そして おそらく彼女は、それを容易ならざる難事業だと思っていた。
だからこそ、彼女は、神である自分にとっては達成困難に思われることが、たかが人間である星矢にとっては“そんなこと”でしかないらしい現実に、神としての誇りを傷付けられた。
だが、その事実を認めるわけにもいかなくて、月の女神は黙り込むしかなかったのだろう。

もっとも、彼女の沈黙は、月の女神にして狩猟の神、純潔の神、そして なぜか豊穣神でもあるアルテミスが“そんなことも わかんない”でいることを認める行為以外の何ものでもなかった。
月の女神にして狩猟の神、純潔の神、そして なぜか豊穣神でもあるアルテミスが“ほんとに そんなことも わかんない”でいることを知らされた星矢の目に 憐憫の色が浮かぶ。
星矢は、月の女神にして狩猟の神、純潔の神、そして なぜか豊穣神でもあるアルテミスを気の毒そうに見詰め、小さな声で呟いた。
「あんた、威張ってるわりに、かわいそうな神様なんだな……」
「かわいそう? それはどういう意味じゃ」
「かわいそうは かわいそうだよ。でも、悪いけど、氷河を完膚なきまでに打ちのめす方法は 永遠にわかんないままでいてくれ。こんな奴でも、氷河は俺たちの仲間だから」
「……」

オリュンポス12神に数えられる有力な女神が“かわいそう”な訳。
“こんな奴”のために、たかが人間が神に非協力的な態度を貫こうとする訳。
そして、氷河を完膚なきまでに打ちのめす方法。
アルテミスには、それらのどれもが“わからないこと”だったらしい。
とはいえ、それらのどれもが わからないことを認めるのは、神としての自尊心が許さない。
ゆえに彼女は沈黙を守り続けるしかなかったのだろう。

彼女は、神としての誇りと自尊心を守るために、へたをすると百年でも その場で黙り込んだままでいたかもしれない。
無限の命を持つ神と、命に限りのある人間とでは、時間の流れや長さを感じる感覚も、時間そのものに対する観念も異なるもの。
人間にとっての1日や1年が、神にとっては1秒にも満たないなのだから、それは ありえない事態ではなかった。

星矢たちが、百年もの長い時間を、女神が作り出す沈黙に縛りつけられたまま過ごさずに済んだのは、月の女神の作り出す沈黙を払いのける“音”が、その場に飛び込んできたから。
つまり、氷河の飽くなき助平心の対象にして、氷河の無尽蔵にも思える愛を その一身に注がれている人間が、息せききって その沈黙の中に飛び込んできたからだった。
「氷河。僕、教皇様にお願いして、アテナにお会いできるようにしてもらったの。アテナにアルテミス様への執り成しを頼んでみようと思――」
「瞬、危険だ。来るなっ!」
「えっ !? 」






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