瞬の登場に誰より慌てたのは、氷河を完膚なきまでに打ちのめす方法を月の女神と語らっていた(?)星矢だった。 「星矢、馬鹿っ!」 瞬の姿と声に慌てて 言ってはならぬことを口走ってしまった星矢を、紫龍が鋭く叱責する。 紫龍に怒鳴られて、アルテミスが知りたがっていたことへの答えを、よりにもよって その方法をアルテミスに永遠に知らずにいてほしいと願っていた自分が教えてしまったことに気付き、星矢が蒼白になる。 星矢の頬から血の気が失せた訳、紫龍が仲間を怒鳴りつけた訳――を、アルテミスは すぐには理解できなかったらしい。 氷河が、視覚を失っている人間とは思えないほどの素早さで、彼の恋人と月の女神の間に移動し 瞬を背後に庇うようにして立つ様を見て、彼女はやっと“そんなこと”がどんなことなのかに気付いたようだった。 「なるほど、そういうことか」 “かわいそうな”女神が、ついに明らかになった謎の答えに、その瞳を炯々と輝かせる。 そうして、月の女神は勝ち誇ったような声を 氷河に投げつけてきた。 「キグナス。そなたから奪った視覚、嗅覚、味覚、触覚、すべてを たった今 返してやるぞ」 「む……」 それまで光にも闇にも無反応だった氷河の瞳に、力が戻ってくる。 せっかく視力が戻ったというのに、その瞬間 氷河の視界に映ったものは、彼の最愛の恋人に危害を加えようとしている月の女神の、自らの勝利を確信しきった姿だった。 腰掛けていた小さな木の椅子から、害意に満ちた目をしたアルテミスが ゆっくりと立ち上がる。 「さあ、その目で見るがよい。そなたの愛しい恋人が、そなたの無礼のせいで、どんな目に合――」 月の女神が瞬に向かって右の手を差しのべるように伸ばし、その手から、おそらくは何らかの力を瞬に対して放とうとした その瞬間。 「女神たちの中で最も美しく最も高潔な女神よ!」 氷河は ほとんど怒声といっていいような大音声を 彼のささやかな住まいの小さな部屋中に響き渡らせ、椅子も卓も吹き飛ばすほどの勢いで、月の女神の前に 両手両膝をつき ひれ伏した。 「純潔の女神にして豊穣の女神、神々の中で最も人間の尊敬を集める崇高な女神よ。俺の無礼を許してくれ。月の光があまりに美しく神々しくて、俺は、あの夜、心が乱れ切っていたのだ!」 「なに……?」 「すべては月の光の神々しさゆえ。つまりはあなたの神々しさのゆえだ。あなたの眩いばかりの美しさに心を乱され、神に対して当然尽くすべき礼をさえ忘れ果ててしまった哀れな人間を許してくれ!」 「今更、そんなことを言っても――」 「月の女神の美しさの前で、俺ごとき 卑小で非力な人間が平常心を保ち続けることなど できるわけがないだろう。そんな考えるまでもないことが わからぬあなたではあるまい」 「そ……それは まあ……」 「生まれて初めて見る美しさ神々しさだったのだ。哀れな俺がどれほど驚き、どれほどの衝撃を受けたか、聡明なあなたにならわかるだろう。どうか、察してくれ。自分は気が狂ってしまったのではないかと思うほど、俺は あなたの美しさに動転したのだ!」 両手両膝を床につき、卑屈に這いつくばっているというのに、月の女神を見上げ凝視している氷河の目には、恐ろしいほどの気迫がこもっていた。 もし この男の訴えを大人しく受け入れなかったなら、その者は未来永劫 この男に呪われ続け、悲惨な末路を辿ることになるのではないかという疑念を抱いてしまいそうなほどの――否、必ずそうなるに違いないと確信せずにはいられないほどの鬼気迫る迫力が、氷河の全身からは立ちのぼっていた。 オリュンポス12神に数えられる有力な女神といえど、その気迫に 「ま……まあ、非力で ちっぽけな人間のこと、それは仕方のないことかもしれぬな」 「その通りだ。俺があなたの意に沿わないことを、自分の意思で行なうはずがないだろう。かのパリスの審判の時、最も美しい女神でありながら、愚かな争いに加わることを賢明にも避けた 月の女神の聡明を、俺は常々尊敬していたのだ」 有無を言わせぬ迫力だけで押していたら、月の女神も いずれは我にかえり、氷河の言葉の空虚さに気付いていたかもしれない。 しかし、氷河に具体例を出され、その具体例がアルテミスも得心せざるを得ないものだったため、月の女神は、氷河の言葉を疑い その言葉の真の目的を探る機会を、自ら放棄してしまったのだった。 “敵”から疑心を奪ってしまえば、あとは氷河の独壇場。 月の女神は、白鳥座の聖闘士の手の上で踊る人形も同然だった。 「まあ、あれはねえ。そうね、あの時のアテナは本当に愚かだったわ。知恵の女神の名が泣くというものよ」 「その点、あなたは知恵の女神より賢く、美の女神より美しく――。人間の世界には、月を長く見詰めていると、その美しさに魅せられて気がふれるという言い伝えがあるんだ。だから、月を見詰める時には用心するようにと。その言い伝えも さもありなんと思わせる、奇跡のような美しさの持ち主だ、あなたは」 「ほほほほほ。私の美しさで そなたたちを狂わせぬうちに消えてやった方がいいかしら」 「美しいだけでなく、慈悲の心まで備えているとは――」 「まあ、そなたは何を言うの。私は峻厳なほどの潔癖を誇る月の女神、慈悲の心など持ち合わせては――」 「峻厳なほどの清らかさと慈悲の心を併せ持つ女神とは、何と素晴らしい」 「いやあね。おだてても、何も出ないわよ」 「人をおだてるなどという行為は、俺が最も不得手とすることだ。俺が人の機嫌を取ることのできない、愚直なほどの正直だけが取りえの男だということは、あなたも知っているはず。そんな俺に、事実を言葉にするくらいのことは許してほしい」 「まあ、私は、美しいだけでなく、慈悲深く寛大な神だから、特別に許してあげましょう。そうそう、私の熱心な崇拝者が こんな粗末な家に住んでいるというのは 私の名誉を傷付けることだから、あなたとあなたの可愛らしい恋人に、館を一つ贈るわね。明日の朝、あなたたちが目覚めた時、この掘っ立て小屋は大理石の館になっているでしょう」 「俺ごとき取るに足りない者のために、美しい女神の手を煩わせるなど畏れ多い。できれば、その館は あまり大きくないものにしてくれ。この家の4、5倍程度の広さがあれば十分だ。それでも、俺ごときには分不相応な恵みだ」 「まあ、なんて慎み深い……。そんなところに這いつくばっていないで、お立ちなさい。遠慮しなくて いいのよ。私は、身の程を知り、奥ゆかしくて正直な者には、その美徳に報いてやる主義なの。ええ、礼は無用よ。ほほほほほ」 女神の許しを得て、氷河がその場に立ち上がる。 月の女神は満面の笑み。 氷河は、女神に心酔し感謝する非力な人間を装いながら、最後まで油断はできないとばかりに、その目に緊張感を漂わせている。 この氷河のどこが慎み深いのかと、言葉にはせず胸中で、星矢は思っていた。 もちろん、この傍迷惑で 乗せられやすい女神に機嫌よく退場してもらうために、星矢は賢明にも己れの沈黙を守り通したが。 星矢の賢明が効を奏し、月の女神が 恐ろしいほどの上機嫌で、居間はまだ“ボロ家”の氷河の家から姿を消す。 月の女神の気配が完全に消えたことを確認すると すぐに、氷河は、事情もわからず ボロ家の入口に立ち尽くしていた瞬の側に駆け寄った。 「瞬、無事か !? 何も変わったところはないか !? 」 「僕は平気だけど――氷河こそ……僕が見えるの?」 「そうか、無事か」 瞬の答えを聞いて、氷河が初めて その目と身体から緊張感を消し去る。 「ああ、やはり、おまえの可愛い顔は、見えないよりは見えた方がいいな」 氷河はそう言って、自分と同じ災厄に見舞われずに済んだ 彼の大切な恋人の身体を しっかりと抱きしめたのだった。 |