「もしかしたら、あなたもそうだったの? あなたも、平和で美しい世界を実現しようとして、大きな戦いを求めたの? そして、大きな戦いのあとの石と棍棒の戦いすら見たくなくて、人類の粛清を考えたの……?」
日中も、瞬は、自分の側にハーデスの気配があることを感じていた。
だが、瞬は、彼に話しかけていくのは、夜 自室に戻ってからのみにすることにしていた。
つまり、仲間たちの目と耳のない時と場所でのみ――と決めていたのである。

冥界が崩壊し 冥府の王がアテナによって封印された今でも四六時中、アンドロメダ座の聖闘士は ハーデスの気配を感じている――などということを知らせて、仲間たちに心配をかけたくない――というのが、その理由の一つ。
もう一つの理由は、冥府の王の気配を感じているのが自分だけだという事実が恐かったからだった。
一時は、その身を彼の魂の器としていたのだから、自分だけが彼の気配を感じ取れるということは、さほど不思議なことではないのかもしれない。
だが、瞬は、そのことを誰にも知られたくなかったのだ。
もし自分が感じているハーデスの気配が自分の作り出しているものであったなら、自分の内から発せられているものであったとしたら――という懸念――むしろ、恐れ――のゆえに。
本当に自分の中にハーデスがいるのか、もしかしたら 自分は一時的にでもハーデスと同化したために気が狂い始めているのではないか――。
考えれば考えるほど、その可能性の存在は、瞬の許に恐れを運んできた。
だが、ハーデスがここにいると感じるのは、瞬にとっては紛れもない事実だったのである。

「黙っているのは、肯定の意味? 清浄な世界の実現を諦めきれなくて、あなたは ここにいるの?」
答えなど返ってこなければいいのに。
ハーデスに問いかけながら、瞬はそう願っていた。
彼の答えが返ってこなければ、冥府の王は今度こそ確かに消滅してくれたのだと思うことができるのに――と。
瞬の願いも空しく、それは今夜も瞬の許に届けられてきたが。

「余の魂は、戦いの女神によって封印された。戦いの女神の力は強大だ。死より、眠りより、平和より強い。アテナが君臨している限り、人間界は いつまでも凄惨な戦いの絶えない場であり続けるだろう」
ハーデスの返答の内容より、彼から答えが返ってきたことに、瞬は今夜も失望を――絶望に近い失望を――覚えた。
やはり彼はここにいるのだ、と。

「でも、だから この地上に生きる人間をすべて滅ぼすと言われたら、僕は抗うよ」
「余は、そなたまでを消し去る気はない」
「僕をあなたの傀儡として使うため?」
「――」
「答えないのは、肯定だね」
それがハーデスの会話の仕方だった。
彼に不利益をもたらすことは沈黙で肯定するのが。
そして、その沈黙に出合うたび、瞬は ひどい苛立ちに支配されるのだ。

「余の魂を解放してくれ。そなたの望む通りの美しい世界を実現してやる」
「いや」
「余は いつまででも説得を続ける。実現しない平和に、そなたが焦れ 耐えられなくなり、そなたがそなたの理想を実現するためには余を受け入れるしかないのだと悟るまで」
「なら、僕は いつまででも抗うよ。僕が僕の理想をどんなふうに実現したいのかを、あなたがわかってくれるまで」
「そなたは、根競べをしようというのか。永遠の命を持つ神である余と」
「そうなるね」

無視することもできるのに、なぜ自分は彼の言葉に耳を傾けてしまうのか――が、瞬にはわからなかった。
ハーデスが実現しようとしている清浄と平和――完璧な清浄と平和――が本当に実現する時、この地上に人間は ただの一人も存在しない。
人間である自分が そんな事態を受け入れることは絶対にできない。
ゆえに、ハーデスの語る言葉は聞くに値しないものなのだ。
それがわかっているのに、なぜ自分はハーデスの囁きに耳を傾けてしまうのか。
瞬には、本当に、自分がわからなかった。
まさかハーデスの語る完璧な平和こそが、地上に平和を出現させる唯一の手立てなのだと思っているわけでもあるまいに――。

決して あってはならないことを うっすらと考え、瞬は慌てて、そんなことを 例え話としてでも考えてしまった自分を、胸中で叱責した。
そんな考えを抱くことは、アテナへの裏切り、人類への裏切り、これまで命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間たちへの裏切りである。
(だめ……! ハーデスの言葉なんて聞いちゃだめ……!)
そう自分に言いきかせ、ハーデスが かもし出す衰滅の空気を室内から追い出そうとして、瞬がベランダに続くガラスドアを開けようとした時だった。
「瞬!」
まるで怒鳴りつけるように大きな声で仲間の名を呼び、血相を変えた氷河が 瞬の部屋に飛び込んできたのは。
いつもなら ドアが開いていてもノックをして 入室の許可を得てからでないと瞬の部屋に入ることをしない氷河の その振舞いに、瞬は驚いた――というより、驚くことも忘れて、しばし呆けた。






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