氷河は、だんだん大人になっていきました。
瞬の姿は何も変わっていないのに、氷河だけが。
氷河の背丈は2倍、4倍、6倍と高くなり、やわらかい羽毛で覆われていた身体は硬い羽根が包むようになりました。
翼なんて、半年前には瞬の親指1本分ほどの長さしかなかったのに、今では瞬が腕をいっぱいに伸ばした長さより長いのです。

大きくなったのは、氷河だけではありませんでした。
氷河と一緒に飼われていたレモン色のヒヨコたちも、氷河ほどではありませんでしたが 大人の鳥になっていきました。
氷河とは、かなり違う姿の大人の鳥に。
レモン色のヒヨコたちは、白色や茶色のアヒルやニワトリに――大人になっても飛べない鳥に――なっていったのです。
そして、大きくなるにつれて、氷河と一緒に大人になったヒヨコたちは 段々数が減っていきました。
つまり、人間たちに食べられて。

卵を産ませるための数匹以外は全部 食べられてしまうのだということを、元ヒヨコたちが不安そうに話しているのを聞いて、氷河は知りました。
おそらく他のヒヨコ(元ヒヨコ)たちとは違った姿をしていたせいなのでしょうが、庭にいる鳥たちの中で いちばん大きな身体をしているのに、氷河は まだ食べられずにいました。
ですが、どう考えても 自分は人間たちに 立派な卵を残せる鳥と思われてはいないでしょうから、いずれは自分も人間たちに食べられてしまうことになるのだろうと、氷河は思い始めていたのです。

そんな氷河の許に、思い詰めた目をした瞬がやってきたのは、毎日伸びて大きくなっていく翼の扱いに 氷河が戸惑うようになっていた頃でした。
いつものように 農家の人に見付からないようこっそり 庭の柵の脇にやってきた瞬は、もう瞬の手の平には乗れなくなった氷河の大きな身体を撫でて、
「氷河。氷河は飛べるね。今すぐ ここから逃げて」
と低い声で氷河に言ったのです。
「僕、昨日、この家のご主人が 村の大人の人たちに話しているのを聞いたの。この家のご主人は、氷河が飛んで逃げられないように氷河の翼を半分に切って、都会の動物園に売るつもりでいるって言ってたの」

翼を切られると聞いた氷河は、びっくり仰天。
翼は 鳥が鳥であることの証のようなものです。
なのに、それを奪ってしまおうだなんて。
そんな姿になっても まだ死なせてもらえないだなんて。
人間という生き物は なんて残酷なことを思いつくのだろうと、氷河はぞっとしました。
それは人間に食べられてしまうことよりも残酷で耐え難いことだと、氷河は思ったのです。
なぜ自分だけがそんな目に合わなければならないのかと、氷河は強い憤りも覚えました。
そして、2つの翼を広げて、何度も大きく ばたつかせました。
怒りのために そのまま空に飛び立ってしまいそうな氷河を苦しげに見詰めていた瞬は、やがて 氷河に思いがけないことを語り始めました。

「氷河。氷河は憶えていないと思うけど、氷河のお母さんは とても綺麗な白鳥だったの。沼のほとりの茂みで、いつも卵の氷河を大切そうに抱きしめていた。お父さんはいないらしくて、氷河のお母さんは ひとりで卵の氷河を守っていたんだ」
お母さん――。
それは、氷河が考えたこともないものでした。
自分にお母さんがいるかもしれないなんてことを、氷河はこれまで ただの一度も考えたことがなかったのです。
氷河には、瞬以外に特別なひとはいませんでしたから。
驚いて、氷河は瞬の顔を見上げたのです。
瞬は、とても悲しそうな目をしていました。

「でもね、どんなに氷河が大事でも、一日中ずっと氷河の側にいるわけにはいかないでしょう。お母さんだって何か食べなきゃ死んでしまうもの。だから、氷河のお母さんは、毎日ほんの短い間だけ 巣を離れて沼に行って、そこでお魚を食べていたの。その ほんの短い間のことだった。どこからか大きな身体をした犬がやってきて、氷河の巣を見付けて、くんくん匂いを嗅ぎ始めたのは。そのことに気付いた氷河のお母さんは、急に大きな声で鳴き出して――犬の気を引いて、怪我をして弱ってる振りしながら、その犬を氷河のいる巣から遠ざけようとしたんだ。犬は、巣の中の卵のことを忘れて、氷河のお母さんを追いかけ始めた……」
その時のことを思い出したのでしょう。
一度 言葉を途切らせると、瞬は、つらそうに 唇を噛みしめました。

「その犬、猟犬だったの。氷河のお母さんが、これだけ巣から離れたら もう大丈夫ってところまで来て飛び立ったら、途端に大きな声で吠え出して――。その声で犬の飼い主の人間が 氷河のお母さんに気付いた。その人間は銃を持っていて、犬の前から飛び立った氷河のお母さんを銃で撃って……。撃たれた氷河のお母さんは、悲しそうな声を響かせながら、沼の側の草むらの中に落ちていった……」
自分に お母さんがいると知らされた途端に、氷河はそのひとを失うことになってしまいました。
でも、氷河は、こんなことなら お母さんのことなど知りたくなかったとは思わなかったのです。

「ごめんね。僕、氷河のお母さんを助けることができなかったの。見ていることしかできなかった。ううん。それ以上 氷河のお母さんがひどい目に合うのを見ているのも恐くて、すぐ氷河のいる巣のところに戻ったの。どうしたらいいのかわからなくて、どうしようどうしようって おろおろしながら、僕の手で 卵の氷河を温めたんだ。氷河は、その日、僕の手の中で 卵から出てきたんだよ。お母さんがいなくなった、この世界に」
この世界を“お母さんがいなくなった世界”だと思ったことは、氷河はこれまで一度もありませんでした。
氷河にとって、この世界は、いつだって“瞬のいる世界”でしたから。

「僕、鳥の子供の育て方がわからなかったの。この家の庭なら、いつもたくさんの鳥がいるから、きっと氷河を大きく立派に育ててくれるだろうって思って、この庭にいるヒヨコたちの中に氷河を紛れ込ませたの。でも、この家にヒヨコがたくさんいるのは、大きく育てて食べるためだったんだ。ごめんね、氷河。僕、知らなかったの。ここなら仲間もたくさんいるし、氷河は寂しい思いをしなくて済むだろうって思ったの」
瞬が知らなかったことを、氷河は責めようとは思いませんでした。
そんなこと、氷河だって、ついこの間まで知らなかったのですから。
氷河は、広げていた翼をたたみ、瞬の綺麗な瞳を静かに見詰めました。
瞬の瞳は涙で潤んでいて、瞬のその瞳を見詰めているうちに、氷河は、自分が母を失った かわいそうな鳥だということより、瞬の瞳が涙でいっぱいなことの方が つらく感じられてきたのです。

「だから、逃げて。今すぐに。そしてね、氷河は 氷河の仲間を見付けて幸せになるんだよ」
氷河には、すべてが 今日初めて知ったことでした。
母の死――我が子を守ろうとして命を落とした母。
自分が母に愛されていたこと――。
それは とても嬉しいことのはずなのに、氷河は悲しくてなりませんでした。
彼女が彼女の息子を深く愛していなかったら、彼女は今でも生きていられたのかもしれないのです。
なのに、彼女は氷河を愛していた。

お母さんだけではありません。
瞬だってそうです。
瞬は、愚痴を言う相手に非力な鳥を選んだのではなく、同病相哀れむために氷河を可愛がっていたのでもなく――瞬は、氷河のお母さんの代わりに、いつも氷河を見守っていてくれたのです。
生まれたばかりの醜い灰色のヒヨコなんか、瞬は その場に打ち捨ててしまうこともできたのに。
瞬を ただ優しいだけの子だと思って侮っていた頃、それでも氷河が、名を呼ばれるたび 瞬の許に駆けていかずにいられなかったのは、瞬が氷河のお母さんの代わりに氷河の誕生を見詰めていてくれた人だからだったのでしょう。

お母さんのいない この世界は、氷河にとっては 瞬のいる世界でした。
仲間を探すために ここを出るということは、生き延びるために ここから逃げ出すということは、瞬と離れ離れになるということです。
優しくて強くて大好きな瞬と二度と会えないかもしれないということなのです。
氷河は飛び立つことをためらいました。
自分が大きくて強い人間だったなら、瞬と離れ離れになんかならなくて済むのに。
小さな頃から毎日願っていたことを、氷河は今 これまでのどんな時より強い気持ちで願いました。

氷河と別れることは、瞬にとっても つらいことなのでしょう。
『逃げて』と言われても一向に飛び立つ気配を見せない氷河を、瞬は悲しげに見詰め――けれど、瞬は、ぐずぐずしている氷河を責めることはしませんでした。
そんな瞬の表情が一変したのは、農家の主人が大きな鎌を持って 氷河の方に歩いてくるのを認めたから。
彼が何のために そんなものを持ち出してきたのかを察したからだったでしょう。
「氷河、逃げてっ!」
瞬が鋭く叫びます。
まるで死の間際の白鳥の歌のような瞬の その声は、氷河が自由に生きることを望んでいました。
だから――瞬の望みを叶えるために、氷河は その翼を羽ばたかせたのです。
生まれて初めて、空を飛ぶために。
瞬の両腕よりずっと大きく力強い氷河の白い翼は、いとも たやすく氷河の身体を宙に浮かびあがらせました。

そうして。
「氷河、氷河。元気でいるんだよ。お母さんの分も生きるんだよ!」
瞬の悲しい声に送られて、氷河は 瞬と暮らしてきた村をあとにしたのです。






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