翌日から、俺はおっさんたちのセイウチ猟の手伝いを始めた。
なんでも、ここには6家族から8人の男が出てきていて、セイウチ10頭を仕留めるのが今回の出張の目標だということだった。
それで、村の3ヶ月分の食料と毛皮の補充になるというんだから、おっさんたちの村の規模も察しがつく。
目標分の猟を終えたら、おっさんたちは家族の待つ村に凱旋することができるらしい。
だが、セイウチを仕留めて解体する作業は、どんなに頑張っても1日1頭がやっとで、おっさんたちは村から来たばかりだから、あと最低10日間はこの小屋で暮らす予定だとか。
セイウチを仕留め損なったら、その分滞在期間が延びる――ということだった。

俺は猟小屋に来ていたおっさんたちよりずっと若かったし、身軽だったし、結構な戦力になったと思う。
セイウチっていうのは、図体はでかくて、力――というより、体重か――も相当のものだったが、動きはさほど速くない。
もっとも、セイウチたちは、もこもこ厚着のおっさんたちよりは余程すばしこかったし、基本的に群を作っているから、猟にはそれなりの危険が伴っていた。
セイウチに反撃の意図がなくても、逃げ惑うセイウチに体当たりを食らわされたら、人間の方が骨を折る。
へたをしたら、奴等の体重に負けて圧死することにもなりかねないんだ。

だが、俺の目には、奴等はちょっと大きなイモムシと大差ないものに映った。
俺が『今日一日で10頭を仕留めてやる』と豪語して、実際に最初の1頭を仕留め、2頭目に取り掛かろうとしたら、おっさんたちは慌てて俺をセイウチの群の外に引き戻した。
そして、そんなに軽々しく生き物の命を奪ってはならないと、俺に説教を垂れてきた。
おっさんたちだって、セイウチの命を奪うことは奪うんだが、それは、おっさんたちとその家族の命を永らえるための崇高な犠牲で、人間は 他の命のために自らの命を捧げてくれるセイウチに感謝し、尊敬の念をもって、その命を頂かなければならないんだそうだ。

尊敬や感謝の念を捧げられても捧げられなくても、セイウチにしてみれば命を奪われ食われることに変わりはないだろうと、俺は思わないでもなかった。
だが、命に 感謝や尊敬の念を抱いているから、おっさんたちの猟は乱獲に結びつかず、結果としてセイウチと人間の共存が成り立っているという面もあるだろう。
それも人間の勝手な考え方なのかもしれないが、命に 感謝や尊敬の念を抱いて行なわれる おっさんたちの猟は確かに神聖な感じがした。
もちろん、そう感じるのも、人間である俺の勝手な感懐にすぎないわけだが。

俺に説教をかましたあとで、おっさんたちは、俺の手伝いがあれば予定通りに猟が進み、出張期間を延期せずに家族の許に帰れそうだと、俺にも感謝の言葉を投げてきた。
あの、人のいい笑顔と共に。

おっさんたちは多分――情に篤いようで、実は非常に合理的なんだと思う。
あちらを立てれば こちらが立たない弱肉強食の世界。食物連鎖のヒエラルキー。
それを、個と個の強弱関係として見ることをせず、種と種の存続のための行為と考える。
人間は、自分一人の利益のためではなく、家族や仲間の命の保持のためにセイウチの命を奪う。
セイウチは群の自分以外の命を守るために、人間にその命を差し出す。
何かを失うのはセイウチの側だけだが、その代償として、人間はセイウチたちに感謝と尊敬の念を支払う。
もちろん、それだって、人間が一方的に決めた、一見公平に見える不平等条約にすぎない。
実際に行なわれているのは、『強い者が勝ち、生き延びる』という自然の摂理。
おっさんたちは、そこに感謝と尊敬の念という気持ち――ただの気持ち――を持ち込んで、自分たちの一方的搾取に 心の上での折り合いをつける。

ずるいことだとは思うが、俺はおっさんたちを責める気にはなれなかった。
おっさんたちの後ろには、おっさんたちの家族がいるんだ。
家族を生き延びさせるために、おっさんたちはセイウチの命を奪い、その犠牲に感謝と尊敬の念を捧げる。
人類を守るために、人間とは違う正義を振りかざす敵を倒し、彼等の敗北に涙や哀悼の意を捧げる俺たちと同じことをしているだけなんだ、おっさんたちは。
俺たちが間違っていないと思うために、俺はおっさんたちを非難することができなかった。
彼等の行為を是として認めた。
“俺たち”が“誰たち”なのかを思い出すことができないままで。

俺が おっさんたちの行為を 突き詰めて考えるのを早々にやめたのは、それがへたをすると、『他者の命を奪わないために、おっさんたちは死ぬべきだ』なんて結論に行き着く事態を避けようとしてのことじゃない。
他にもっと気に掛かることができたから。
ただ それだけのことだった。


おっさんたちの小屋で寝起きするようになってから、俺は毎晩 同じ夢を見た。
一人の少女の夢。
といっても、その少女は、姿は確かに少女だが、本当にその姿通りの存在なのかどうかということは、はなはだ怪しいところがあったんだが。
それは不思議な少女だった。

見た目通りの 少女のような若々しさと、成熟した女性のような優しさと、母親のような豊かさ。
そんなものを、彼女はすべて備えていた。
綺麗で優しくて温かい。
触れてみなくても、それはわかった。
綺麗で優しそうな瞳。
少し悲しげな印象もある。

側にいけば、優しく微笑みかけてくれることはわかっているのに、俺は なぜか彼女に近付いていくことができない。
声をかけることもできない。
名を問うこともできない。
そんな俺を、彼女は、旧い友の身を案じる友のような目で、我が子の身を心配する母親のような目で、恋人の身を気遣う恋人のような目で 見詰めている。
俺が何かしなければ、彼女はずっと 優しい心配顔のままでいるとわかっているのに、俺はどうしても彼女の側に近付くことができないんだ。
目を覚ますといつも 大切なものを失ったような悲しさに囚われて、俺は らしくもなく落ち込んだ。
もっとも、記憶を失っている俺は、記憶を失う前の自分の“らしさ”がどんなものだったのかを、憶えてもいなかったんだが。

おっさんたちに、彼女のことを話すと、
「女っ気のないところにいるから、そんな夢を見るんだ」
とからかわれた。
だが、そんなんじゃないんだ。
夢の中の彼女は、そんなことを考えるのは不敬というか、そんなことを考えて汚すことは許されないというか、そういう雰囲気をたたえていて――いや、汚れとか邪悪とか、そういうものを すべて その目で浄化してしまうような雰囲気をたたえていて、女神様みたいに綺麗で優しい子なんだ。

なぜか『女神』という言葉が自然に出てきて、俺は俺の奇抜なボキャブラリーを訝った。
『女神』は、だが、ここでは さほど遠い世界にいる存在と認識されているものではなかったらしい。
俺が口にした『女神』という言葉を聞くなり、セイウチ猟の男たちの中で最も年かさのおっさんが、東シベリア海の女神の話を始めてくれた。

「そういえば、東シベリアの海には女神の伝説があるぞ。氷の下、海のいちばん深いところに、美しい女神が永遠の眠りに就いていて、その女神に花を捧げ願いを願うと、それが叶うと言われているんだ」
「ああ、俺も聞いたことがある。かなり別嬪の女神様らしいな」
俺が、その話に妙な胸騒ぎを覚えたのは、何というか――その話を聞くのは これが初めてじゃないような気かしたからだ。
既視感ならぬ既聴感。
どこかで聞いたことのある話。

無論、それが童話やおとぎ話では よくある設定の、ありふれたストーリーだということはわかっている。
女神は遠いところにいる。
女神に会うには、人は幾つもの障害を乗り越えなければならない。
つまり、人間が自分の望みを叶えるには、幾多の試練を乗り越える必要があるという、実にありふれた話なんだ、これは。
女神のいる場所が ちょっと特殊なだけの、どこにでも転がっている民話寓話。
だが、なぜか ひどく心惹かれる話――。

「その女神様というのは、どの辺りにいるんだ?」
「氷の張る海の下というんだから、この辺りの沖ということになるだろうな。古代の廃船の中にいるとか、海溝のいちばん深いところに沈んでいるとか、説はいろいろあるようだが、なにしろ誰も見たことのない女神様だからな。詳しいことは俺も知らん」
「誰も見たことがないのに別嬪の女神様ってわかるのかよ」
猟に来ている男たちの中で いちばん若い奴が、おっさんの話に茶々を入れる。
確かに、それは『義経公、三歳のみぎりのしゃれこうべ』並みに胡散臭い伝説だ。
なのに、俺は、その女神の伝説に心惹かれてならなかった。


その夜、俺は、大きなシャコ貝の貝殻の中に身体を丸めて眠っている あの少女の夢を見た。
俺の夢の中で目覚めた少女が 小さく伸びをして、俺がいることに気付くと 笑いながら手招きをする。
俺の可愛い女神様は、海の底では人魚姫だった。
とはいえ、脚が尻尾になってたわけじゃないが。
俺は、彼女の手招きに応じるべきか否かを迷い――迷いながら、とんでもないことに気付いた。
それがどんなものだったかは憶えていないが、ともかく これまではいつも衣服を身につけていた彼女が、海の底では素裸だったんだ。
「うわあっ!」
声なんか聞こえるはずのない海の底で、俺は大きな声をあげ、そして 目覚めた。






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