俺が東シベリア海の女神を探そうと考え始め、その考えを実行に移したのは、絶対に、夢の中の少女の白い裸体に刺激されたからじゃない。 絶対に違う。 俺はただ、おっさんたちのセイウチ猟が無事に終わって 人のいる村に連れていってもらっても、俺の記憶が戻らないのでは何もできないと思っただけだ。 それくらいなら、女神様に記憶を戻してくれと頼んだ方が てっとりばやく問題を解決することができるんじゃないかと考えただけだ。 彼女が、汚すことの許されない女神だってことを忘れたわけじゃない。 忘れるはずがない。 俺はただ――俺はセイウチの解体作業に関しては おっさんたちの邪魔をすることしかできなくて、その日の分のセイウチを仕留めると、夕食の時刻まですることがなくて暇だったんだ。 手持ち無沙汰の時間を何もせず無為に過ごしたくないと考えるのは、人として当然のことだろう。 俺は、その当然のことをしようとしただけなんだ。 俺は、おっさんたちには内緒で、おっさんたちがセイウチを解体している間に、こっそり海に潜った。 海の水は冷たかった。 息も、そう長く続くわけじゃない。 普通の人間なら心臓麻痺であっというまに昇天していたところだろうが、冬の東シベリア海に潜っても、俺はなぜか平気だった。 それでも、1日に2度 潜るのが限界だったな。 どういうわけか人に倍する体力と生命力を持っている俺も、不死身というわけではないようだった。 居場所もわからない女神の捜索。 しかも、その捜索に費やせる時間は、一日にせいぜい20分×2回。 当然、俺は、なかなか俺の女神に出会うことはできなかった。 そうして、その日。 10頭目のセイウチを仕留めたあと、『これで目標達成、明日には村に帰れるぞ』と喜ぶおっさんたちを横目に 海に向かった俺の心は沈んでいた。 俺の女神を探すために 俺だけ ここに残りたいなんてことを言いだしたら、親切で人のいい おっさんたちは、俺のために俺の無謀を阻止しようとするだろう。 俺自身、時間をかければ 必ず俺の女神を探し出せるという確信があるわけじゃない。 だから――女神探しは今日が最後と決意して、俺はこれまでより かなり沖の方の海に飛び込んでみたんだ。 氷の張った海の中に、水の色が妙に濃い紺色をしたところがあって、俺は そこを目指した。 その場所で、俺は一隻の沈没船を見付けた。 古代の船というのじゃなく、どう見ても、電気か油で動くエンジン搭載の、どれだけ古く見積もっても前世紀後半に沈んだばかりと思われる船。 船体の脇に大きな穴があいていた。 それが船の沈没の原因だったんだろう。 躊躇している時間はなかった。 俺は、その穴から船内に入ってみた。 そうして、俺は、船の――海の底に沈んでいる船の中に――花畑のようなものを見た。 正確には、見たような気がした。 俺はぞっとしたさ。 俺は、俺の女神を求めるあまり無理をしすぎて、死にかけているんじゃないかと、そんなことを考えさえした。 臨死体験をした人間が、嘘か幻覚なのかは知らないが、闇の向こうに明るい光を見たとか、たくさんの花が咲き乱れる楽園を見たとか、そういう証言をすることが多いという話を、俺は以前 誰かに聞いたことがあった。 あるはずがないところに花畑なんて、まるで あの世を垣間見せられているようじゃないか。 花畑そのものじゃなく、自分が花畑の幻覚(?)を見た(らしい)ことに動転して、俺は急いで海上を目指し泳ぎ始めたんだ。 そうして海面に達すると、俺は、浜から沖に向かって張っている氷の上に仰向けに倒れ込み、ぜいぜい言いながら自分の頬をつねってみた。 痛い。 今 俺が夢の中にいるんじゃないことは確かな事実のようだった。 その痛みが、俺が あの世にいるんじゃないことの証拠になるのかどうかということについては はなはだ疑問が残るところだが。 そもそも人間は、“あの世”とやらで痛みを感じることがあるんだろうか? 死んだ人間は、肉体と共に五感をも失うんだから、痛みとは無縁になるのが妥当だと思うが、死人が肉体的苦痛を感じないのなら、死後 罪人を罰するためにある(らしい)焦熱地獄だの無間地獄なんてものは無意味なものになってしまう。 そう考えると、人は死んでも苦痛と縁が切れないという可能性もないではない。 痛みの有無は、人間の生死の別とは関係がないということになるんだ。 そして、その理屈でいくと、俺が既に死んでいるということも ありえないことじゃない。 もちろん、すべては死後の世界が存在すると仮定しての話だが。 地表からは見えない太陽が灰白色に染める空を見ながら、俺は、そんな埒もないことを考えていた。 そんなことを考えながら身体を休めて、ある程度 体力が戻ってきたことを確認すると、これが最後と心に決めて、俺は もう一度 海に潜った。 俺が既に死んでいるのなら、俺は あの世の花畑なんてものを恐れる必要はないし、まだ死んでいないのなら、あの花畑の正体を見極めておかないと、俺は 一生 謎を抱えたまま生きていかなければならないということになる。 俺は、そういうのは嫌いなんだ。 未解決問題を抱えたままの状態でいるっていうのは。 二度目の潜水。 俺は、余計な寄り道をせず、まっすぐに あの船を目指した。 船体の穴をくぐり抜け、もう一度 向かったあの場所。 そこには確かに花があった。 ただし、それは生花ではなく切花だった。 それで、俺は理解したんだ。 これは、尋常の人間とは次元の違う体力と潜水能力を持った何者かが、伝説の女神に捧げるために運んだ花なんだということを。 花の中に、女神が横たわっていた。 海の中の風が白く長い服の裾を揺らしているのに気付いて、俺は花の中に横たわる彼女の存在を認めることになった。 彼女の周囲を漂っている無数の花の間を泳いで、女神の許に向かう。 だが――。 横たわる女神の顔を判別できるところまで来て、俺は愕然とした。 当たりまえのことだが、そこに眠っていたのは 俺が思い描いていたのとは違う女神だったんだ。俺が夢に見ていたのとは違う女性が、花に埋もれて眠っていた。 確かに綺麗な女の人だとは思うが、違う――違っていた。 俺は――俺は、あの夢の少女でないと、俺を助けることはできないのだと思っていたから――この女神では俺の願いは叶えられないと直感で悟って、それ以上 彼女に近付くのをやめたんだ。 俺は、彼女の方に向かって泳いでいた腕と足から力を抜いた。 途端に、周囲に漂う花たちと海水が、俺の身体を生者の国に押し戻し始める。 決死の覚悟で進んできた水の道を、俺は逆戻りした――正確には、逆戻りさせられた。 |