おそらくは星矢の顔を立てるために、翌日8時過ぎに仲間たちの前に姿を現わした瞬が 突然倒れたのは、その日の夕刻。
やはり瞬は、昨夜(というより今朝)、仲間の厳命に従うことをしなかったらしい。
瞬が倒れた場に、幸か不幸か 氷河は居合わせていなかったので、瞬を瞬の部屋のベッドに運んだのは、白鳥座の聖闘士ではなく龍座の聖闘士だった。

「あんなに寝ろって言ったのに、おまえ、やっぱり 寝ないで こんなもの読みふけってたんだな!」
「ご……ごめんなさい……」
昨夜(というより今朝)、星矢が場所を移動させたはずの“教科書”が、また元の場所に戻っていた。
青白い頬をして謝ってくる瞬に当たり散らすわけにもいかなかった星矢は、手に取った重たい本に向かって毒づいたのである。

「正教要理、ね」
紫龍が、あまり興味のなさそうな様子で その本を手にとり、ぱらぱらとページをめくる。
とあるページに栞が挟んであることに気付くと、彼は しばし難しい顔をして、該当ページを黙読した。
そうしてから、彼は、星矢に、
「星矢。氷河が来ても、この部屋には入れるな」
と、訳のわからないことを命じた。
「へ?」
星矢の怪訝そうな声には何も答えず、紫龍がベッドに横になっている瞬に尋ねる。
「意味ありげに栞が挟んであるのが、七つの大罪の解説ページとはな。瞬、この本は、おまえに何を教えてくれた」

『大丈夫か』の一言も言わず、そんなことを尋ねてくる紫龍を、瞬が切なげな目をして見上げ、見詰める。
しばしの間を置いてから、瞬は、力のない声で 問われたことに答えてきた。
「キリスト教では、精神こそが人間で、肉体は忌むべきものと されていること……かな。人間を地獄に近付ける欲望や醜い感情は、肉体が生むもの。神の国で永遠の幸福を得たいなら、現世では 肉体に付随する歓喜や欲望を抑えるべきだって書いてあったよ。僕の解釈が間違っていないのなら」

傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲。
七つの大罪はすべて 肉体が生むもの。
それらの罪を遠ざけ、神の国に近付こうとする美しい精神のみが、人間を真の幸福に導く。
物質・肉体に付随する欲望を顧みない強く清らかな心によって、人は初めて神の国の住人となる資格を得、その罪の誘惑に抗いきれなかった人間は地獄の住人となる。
瞬が氷河の信じる神を知ろうとして手にとった本が、瞬に教えてくれたのは、そういうことだった。

「キリスト教は、肉体軽視の気味のある宗教だからな」
「死んでから幸福になるのって、そんなに大事なことなのかな。自分が現に生きている今を犠牲にしても」
「キリスト教では、『人間がこの世に生きている期間はせいぜい100年程度だが、死後は永劫』ということになっているからな。死後の永劫を神の国で豊かに暮らすために 現世の試練を耐え忍ぶことを、この教えの指導者たちは信徒に強要したんだ。それで民衆の不満を押さえつけることができたから、キリスト教は 為政者たちにも都合のいい宗教だった。イエスの意図もそうだったのかどうかまでは 俺は知らんが、そういう宗教界のあり方を痛烈に批判した実存哲学者もいるな」
「イエスにも権力志向はあったような気がするけど。もちろん精神の世界で。だから、イエスは憤怒の罪も傲慢の罪も犯している。でも、そのイエスだって、怠惰や色欲の罪を推奨するようなことは言わなかっただろうね」

そんなことを語る瞬の表情は暗く、力もなく、覇気もない。
血の気のない頬、乾ききった唇、こころなしか髪までが艶を失い、印象だけなら、死に瀕した吸血鬼の犠牲者のようだった。
こんな様子をした瞬を、星矢は これまでに ただの一度も見たことがなかった。
人を傷付けなければならない戦いの場、いつ命を落とすことになるかもしれない戦いの場、実際に もう少し弱かったなら確実に死んでいただろう戦いの場でも、瞬は いつももっと生気に輝いていた。
冥界で自らの死を覚悟した時でさえ、瞬の小宇宙は鮮やかに燃え、生きていた。
いつも、どんな時でも、これほど 瞬に力を感じなかったことはない。
この枯れかけた花のような人間は、本当に自分の見知っているアンドロメダ座の聖闘士なのかと、星矢は疑ったのである。
そのせいで、星矢の心は暗く沈んだ。
いったい どうすれば この瞬を元の瞬に戻すことができるのか、そんなことは可能なのか。
可能ではないのかもしれないという思いが、星矢の心を暗く重くしたのである。

覇気のない瞬。
その瞬のせいで、元気を失った星矢。
そんな二人とは対照的に、なぜか その瞳を輝かせ始めたのが紫龍だった。
瞬との短い やりとりで彼が何を得たのかは、星矢にはわからなかったが、ともかく紫龍は、倒れた瞬を この部屋に運ぶ際に目許に浮かべていた憂患の色を、今ではすっかり消し去っていた。
表情だけは謹厳を装っている紫龍が、瞬に尋ねる。
あるいは、彼は、瞬に問いかけたのではなく、自身の考えが正しいことを確かめようとしただけだったのかもしれない。
彼は、瞬とは対照的に、まさに人生というものを謳歌している者の声で、
「瞬、おまえの見る恐い夢の登場人物は、ハーデスでもなければ、過去におまえが倒した敵たちでもなく、氷河だな」
と、瞬に告げたのだ。

「あ……」
紫龍の推察は正鵠を射たものだったらしい。
瞬は、その肩と頬を ぎくりと硬く強張らせた。
「それってどういうことだよ? 氷河が敵になって、瞬の夢に出てくるってのか? 瞬が恐いってのは、氷河のことなのか? 瞬は仲間の裏切りを恐れてるってことか?」
「ち……違うの。恐くないの。僕が見てる夢は、ほんとは恐い夢なんかじゃないの!」
紫龍の推察は的を射たものだったが、星矢のそれは大々的に的を外したものだったらしい。
瞬は慌てた様子で、星矢の言葉を否定してきた。

「……よく わかんねーな。だったら、なんで おまえは――」
「違うの! 氷河は優しいし、綺麗だし、潔癖だし、神様を信じてて、きっと堕落を恐れてる――」
「綺麗で潔癖って、そりゃ、どこの氷河の話だよ」
本当に、心底から、瞬の考えていることがわからない。
眉間に縦皺を刻んで、支離滅裂なことを言う仲間を見おろすことになった星矢のために、事情の把握を完璧に済ませたらしい紫龍が、状況説明の労を取ってくれた。

「つまり、瞬は、氷河を地上で最も清らかな男だと思い込んでいるんだ」
「へ?」
「そして、おまえは清らかではない。そうだな、瞬?」
「おい、紫龍。なに言ってるんだよ。それって逆だろ、逆」
瞬の支離滅裂が紫龍にまで伝染したのか。
星矢がその可能性に考えを及ばせたのは無理からぬことだったろう。
なにしろ、『地上で最も清らか』は瞬に与えられた神の お墨付きだったのだから。
だが、紫龍の支離滅裂は、瞬にとっては そうではなかったらしい。
それは瞬にとっては、むしろ“理路整然”だったらしい。
瞬は その首を縦にとも横にともなく振り、それから かすれた声で自らの苦悩の真相を語り始めたのだった。

「少し前に……氷河と一緒に国会図書館に行った時、ちょうど展示室で中世ヨーロッパの宗教画の解説書の展示をしてたんだ。その中に七つの大罪を犯した人たちが地獄を苦しんでいる様子を描いた細密画があった……」
「それが おまえの悪夢の直接の原因か」
「傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲――どれも すごく醜く悲惨に描かれてた。あれを見たら誰だって――自分があんなに醜悪なものになるなんてことを想像しただけで、当時の人たちは自分が罪を犯すことに尋常でない恐怖を抱いただろうって思った」
「そうか」
「僕も恐かった。すごく恐かった。恐くて、恐くて、恐かったのに、なのに――」

瞬にそこまで言われても、瞬が何を恐れているのかが、星矢には全くわからなかったのである。
傲慢,嫉妬,憤怒,怠惰,強欲,暴食,色欲。
それらは、瞬には縁のない罪である。
モーセの『汝 殺すなかれ』の戒律の方が、瞬にはよほど 恐れるべき罪の告発のはずではないか。
実際、星矢は、瞬の心を苦しめているのは、聖闘士には免れ得ない その戒律なのだと思い込んでいた。
しかし、世の中には――人生には――実に思わぬことが起こるものである。
「なのに、何だよ」
言い淀む瞬に言葉の続きを急かした星矢への瞬の答えは、
「僕……僕、氷河を抱きしめてみたいの。氷河に触ってみたい」
というものだったのだ。






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