「……」
一瞬――もとい、確実に1分以上、星矢は言葉を失った。
五感を剥奪された者のように、いかなるリアクションも思いつかなかった。
なんとか気を取り直し、瞬の告白の意味を考え、多分この解釈で間違いないのだろうというところまで理解するのに、更に4分。
計5分の後、星矢は低い声で、
「瞬が言うと、なんかすげーな」
紫龍に そう耳打ちをすることになったのだった。
「同じことを氷河が言っても、『おはよう』程度に聞き流せるのにな」
一応、瞬のその告白は、紫龍にとっても意外なものではあったようだった。
星矢の囁きに囁きで答え、それから紫龍は再度 瞬の方に向き直った。

「多分、全く同じことを、氷河はおまえに対して望んでいると思うぞ」
「そんなことあるはずないよ……。氷河に限って」
「おまえ、ほんとに、どこの氷河の話をしてんだよ?」
星矢の混乱の原因は、もしかすると、瞬でも肉体に属する欲望を抱くことがあるのだという事実より、瞬が氷河に対して抱いている誤認の方だったかもしれない。
瞬の苦悩は、星矢にしてみれば、完全に間違った思い込みによって形成されている馬鹿げた苦悩だった。

「まあ、それだけ完璧に、氷河が瞬の前で清潔で純粋な好青年を演じていたということだろう。ここは、氷河の自己抑制力と演技力を褒めるべきところだろうな」
「それにしたってさー……」
「だが、無理な聖人君子の振りは そろそろ終わりにした方がいいぞ、氷河」
星矢のぼやきを聞き流し、紫龍が瞬の部屋の扉の方に視線を巡らせる。
そこに氷河の姿があることに気付いて、誰よりも早く行動を起こしたのは、それまで生気のない瀕死の人に見えていた瞬その人だった。
「いやっ」
悲鳴のような声をあげて、どこに逃げることもできないというのに、瞬がベッドを飛び出ようとする。

「逃げるなっ!」
「逃げてもどうにもならない。氷河は最初から すべてを聞いていた」
星矢が鋭く、紫龍が静かに、瞬の狼狽をいさめる。
この場から逃げることも消えることもできないと悟ると、瞬はベッドの上で身体を縮こまらせた。
目の周囲を真っ赤にして、その瞳に涙をにじませ始める。

「僕……僕、氷河を地獄になんか――」
「おまえ、まさか地獄なんてものがあるなんて、ほんとに信じてるわけじゃないだろうな? 冥界で戦ったことのある聖闘士の言葉とも思えねーぞ」
「あの冥界は、ハーデスが、ダンテの神曲になぞらえて作ったパノラマのようなものだ。死後の世界がああだと信じることはできない。もちろん、罪人が墜ちる地獄が本当に存在すると断言できる人間もいない。そんなもの、誰も見たことはないんだからな」
「で……でも、生きている人間が 自分の心の中に地獄を思い描いて苦しむことはできるでしょう……。僕は、氷河にそんな苦しみは――」
「氷河は、そんなものを脳裏に思い描いて罪におののくような悪趣味は持っていないと思うぞ」
「同感。氷河が思い描いているのは、もっとこう――ピンク色の世界だよな」

「せめて薔薇色と言ってくれ」
星矢の発言に 物言いをつけて、氷河が瞬の部屋に入ってくる。
おそらく その時、氷河の目の前には 本当に薔薇色の世界が広がっていたに違いない。
彼は薔薇色の人生に足を踏み出した心地でいたに違いなかった。
現に、瞬だけをまっすぐに見詰めている彼の瞳には、先日までの早起き男の憂いは全く たたえられておらず、ましてや薔薇色とピンク色を混同している星矢のデリカシーの無さへの不快の念など、小さなかけらとしても存在していなかった。

そんな幸福な男が、室内にいる星矢と紫龍の存在を鮮やかに無視し、ベッドの上に起こした身体を小さく丸めているような瞬の枕許に立つ。
クリスチャンでもないのに、地獄の悲惨に怯えている瞬の つらそうな様子を見て、彼は初めて その瞳を曇らせた。
しかし、それすらも すぐに、幸せな人生を歩む男の苦悩に変わっていく。
その幸せな苦悩に引き寄せられるように 氷河は瞬のベッドの上に腰をおろした。
そして、俯いている瞬の肩に視線を投じ、ゆっくりと口を開く。

「まず、最初に言っておく。俺は イエスもヤハヴェも信じていない。俺がロザリオに見ているのは――俺が信じているのは、神を信じていたマ……母の愛だ。神ではない。俺がロザリオを持っているのは、それが死んだ人の形見だからで、俺自身は洗礼も受けていない。これから先も受ける気はない」
「あ……」
瞬が恐る恐る顔をあげたのは、氷河のその言葉が、罪深い仲間のための嘘なのではないかと疑ったからだったろう。
そうであることを確かめるために、瞬は氷河の瞳を覗き込んだ。
そこに瞬が見い出したものが何だったのかは、瞬ならぬ身の星矢には わからなかったが、瞬はおそらく 予想に反したものを氷河の瞳の中に見い出したに違いないと、星矢は思ったのである。
つまり、瞬が本当に望んでいるものが、そこにはあったに違いない――と。

「俺は、そんな本を読んだこともないし、読みたいと思ったこともない。もし俺がクリスチャンだったとしても――瞬、俺は、おまえのためになら地獄に墜ちてもいいぞ」
「氷河にそんなこと させらせない……」
それでも瞬の声は かすれている。
決して叶わないと信じていた幸福を目の前に差し出された時、人はすぐには その心を喜びに転じさせることができないのかもしれなかった。
そんな瞬のために、氷河はもちろん、彼の為すべきことをした。

「大事なのは、そこが神の国でも地獄でも、おまえと俺が一緒にいるということだろう」
そう断言してから、氷河は、『無論、いちばん大事なことは、生きている俺たちが、今 生きている この世界で一緒に生きているということだが』と、言わずもがなの言葉を付け足した。
「だいいち、キリスト教では、実際に罪を犯さなくても、罪に当たる考えを胸中に抱いただけで、その者は既に罪人なんだ。俺はもう、何年も前から罪人だ。おまえが俺と同じことを考えたことがあるなら、俺たちは、二人共 既に もう罪人だ」
「そんな……」
「どうせなら、幸せな罪人になろう」
「でも……でも……」

さっさと氷河の手に落ちてしまえばいいのに、瞬は『でも』を繰り返す。
瞬が国会図書館で見たという、七つの大罪を描いた絵は それほど強く 人の心に地獄の恐怖を生むものだったのかと、星矢は思ったのである。
もっとも、それは彼の思い過ごしで、瞬は その時にはもう、『でも』に続く言葉を氷河に否定してもらうために、その意味のない接続詞を繰り返しているにすぎなかったようだったが。

「でも?」
氷河に その言葉を復唱された瞬が、『でも』に続けなければならない訴えを空中に霧散させる。
あるいは、そんなものは、最初から瞬の中には存在していなかったのかもしれない。
瞬は その時にはもう、無意味な訴えの更に先にあるものを見詰めていた。
瞬は氷河の言葉を信じたくてたまらないでいたのだ。
瞬は、そして、『俺は、おまえのためになら地獄に墜ちてもいい』という氷河の意思が与えてくれるはずの恵みに 身を浸したくてたまらないでいた――おそらく。

「でも、何だ?」
もう一度 意味のない言葉を繰り返し、氷河が その手で瞬の頬に触れる。
「あ……っ」
たった それだけのことで――瞬の身体に体温が戻ってきたのが、星矢にはわかった。
当事者でない星矢が緊張する必要はないのだが、手に汗握って 事の成り行きを見守っていた星矢の耳許に、
「星矢、出よう」
という紫龍の低い声が忍び込んでくる。
「何でだよ。こっからが いいとこだろ!」
星矢はもちろん(小声で)反駁したのだが、
「だから、出るんだ!」
紫龍は、星矢の好奇心(窃視趣味とも言う)を頭から否定してくれた。

そうして、無理に廊下に引っ張り出されてしまった星矢は、これほど興味深い場面で 詰まらぬ義理立てをする紫龍に、大いに悪態をつくことになったのである。
もっとも、『歴史的大事件の目撃者になり損ねた!』だの『俺は 奴等の仲間として、友情から 事の顛末を見届ける義務があったのに!』だのという星矢の悪態は、最後には、
「瞬でも、そうなんだなぁ……」
という感動の(?)溜め息に変わってしまったのだが。






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