その彼が、僕を彼の部屋に呼んだのは、僕が彼と暮らし始めて10年が経ったある日。
街の人々は、既に僕のことを忘れていた――と思う。
僕の人間離れした力は、人間の持つ運動能力を強化する器具を取りつけていたからだったんだっていう理由をつけて納得し、そして、人々は僕という化け物がいたことを忘れたんだ。多分。
彼以外、あの頃の僕を記憶に残している人はいない。
その彼が、10年目に僕に語ったことは、とても衝撃的なことだった。

「今日、医者から宣告を受けた。末期ガンのようだ。手術もできない。もって、あと3ヶ月だそうだ。せっかく君に救ってもらった命だったが、これが結末というわけだな」
そう、静かに彼は そう言ったんだ。
「そんな……そんなこと……」
本当に、それは“そんなこと”だった。
それは、“あってはならないこと”。
彼は50歳になったばかりだ。
これは早すぎる死といっていいだろう。
早すぎる。
それだけでなく突然すぎる。
急に胸の中に何か重いものが生じたような息苦しさを感じながら、僕は、全く取り乱した様子のない彼の顔を見詰めた。

「医者嫌いがたたって、発見が遅れた。私はまもなく死ぬ。どんな先進治療を施しても無駄だということだ。これは変えようのない未来だ」
僕の瞳から涙がこぼれ落ちたのは、突然知らされた確実な彼の死が悲しかったからではなく――それだけではなく――自身の運命を知っても穏やかで静かな彼の声や表情が悲しく感じられたからだったろう。
幸せな人間は 生に執着できるものだということを、僕は知っていた。
ううん、むしろ、生に執着できる人こそが幸せな人間だというべきなのかもしれない。
でも、自分の死を知らされた彼の表情は完全に穏やかで――。
僕は、あの事故で家族を失った時に――あの時から、彼は生への執着を持てないまま生きてきたのだと思わないわけにはいかなかった。
その事実が、僕は悲しかったんだ。

「スイス銀行に、君のための口座を用意させる手続きをした。往時ほどではないが、秘密厳守が売りの銀行だ。その口座の存在が人に知られることはないだろう」
「え?」
彼のことだから、人前で泣き言を言うようなことはしないだろうとは思っていた。
思ってはいたけど、急にそんな訳のわからないことを言い出した彼に、僕は きょとんとした。
彼の意図がわからなくて。
でも、彼には――当たりまえのことだけど、彼の意図がわかっていたらしい。
淀みなく、彼は彼の言葉を続けた。

「私に家族はいないが、親戚はそれなりにいる。可能な限りの資産を現金化して、動産や債券はできるだけ君の手に渡るようにするつもりだが、残された時間は少ないし、不動産や船舶、会社関係の権利の多くは親戚たちにとられることになるだろう」
「僕は――」
そこまで言われて、僕にも ぼんやりと彼の考えていることがわかってきた。
彼は、彼の死後の――僕の未来を案じ守ろうとしているんだ。

「だが、まあ、親戚たちも、自分たちのものになる遺産が思っていたより少ないことを追求はしないだろう。彼等には遺留分請求をする権利もないし、その気になれば、私は 私の財産すべてを君に譲る遺言を作成することもできるんだ。彼等は 君を私の愛人か隠し子だと勘繰っているようだし、何がしかのものを貰えれば それで満足する――満足するしかないだろう」
「僕はそんなものはいりません。そんなもの、もらう権利もない。お金なんて いらない」
「そんなことを言うものではない。人間が生きていくには金が必要だ」
「僕は人間ではないかもしれない」

僕が歳をとらない化け物だっていうことを、彼は知っているはずだ。
彼だけが知っている。
知っているのは彼だけだ。
僕が化け物だってことを 人に知られないようにするために、彼は、使用人や 僕につける家庭教師を1年以上継続して雇うことをしなかった。
そんな化け物の僕に――彼の家族を見殺しにした僕に――彼は彼が築いた財産を譲るというんだろうか。

「私は、理性と感情があれば、それは人間と呼んでいい存在だと思うがな。たとえ君が人間でなかったとしても、私の家族は君だけだ」
「家族――僕が?」
反射的に 僕が問い返すと、おそらくは僕が投げかけた質問に答えないために――彼は話題を変えた。
僕は、彼に重ねて尋ねることができなかった。
彼が本当にそう思ってくれているのかどうかを確かめたい気持ちは強かったけど、彼の家族が僕だけだということは、とても悲しい事実でもあったから。
僕は、彼にそのことを思い出させて、彼の心の中に新たな悲しみを生むようなことはしたくなかったから。

「君という存在が不思議でならなかったから、私は調べたんだ。君のような存在は 他にはいないのかどうか。超能力者と呼ばれた者たち、信仰によって奇蹟を起こしたと言われている者たち、ヨガの達人から伝説や神話の登場人物まで、しらみつぶしに調べた。その中で、最も君に近いのは、聖闘士と呼ばれる者たちだった」
「聖闘士?」
「そう。聖衣という鎧をまとい、その拳は空を裂き、蹴りは大地を割ったという。人間なら誰もが持っている身体の中の小さな宇宙――コスモと呼ぶそうだが、それを燃やして、英雄的行為を行なう者たちのこと――だそうだ」
「……」
そんな荒唐無稽な作り話を、現実的で良識的な社会人であるあなたが信じるなんて――と、僕は すんでのところで口にしてしまうところだった。
まさに、この僕が、その荒唐無稽な力を持っている生き物だっていうのに。

「ギリシャに、聖闘士たちが作る秘密のコミュニティがあるそうだ。聖域と呼ばれているらしい。もっとも聖闘士は不老というわけでも不死というわけではないようだったが」
「不死じゃない? じゃあ、僕は死ぬことができるの?」
「君は死にたいのか」
「もちろんです!」
「……」

それは、死の宣告を受けたばかりの人に言うべき言葉じゃなかっただろう。
強い調子で断言してしまってから、僕は自分の発言を後悔したけど、言ってしまった言葉は取り消せないし、それは僕の正直な気持ちだった。
彼は、僕の心無い発言を責めることはしなかった。
責める代わりに、僕を寂しそうな目で見て微笑した。
そして、呟くように、
「私も、君がいなかったら、死の宣告を喜んでしまっていたかもしれないな」
と言った。
その言葉だけでも、僕には大きな驚きだったっていうのに、彼はその言葉に、
『私は、君を、私の死んだ息子の代わりにしようとしていたのかもしれない』
という言葉を続けたんだ。
なぜか、日本語ではない言語で。

彼が語学教師をつけて僕に学ばせてくれた言語は、英語と中国語とヒンディー語の3つ。
これで、世界の半数の人と会話ができると、彼は言っていた。
でも、彼が突然 僕に語り出した言葉は、その3つの言葉のどれでもなかった。
それでも、それは僕の知っている言葉だったから、僕は同じ言葉で答えた――尋ね返したんだ。
『あなたは僕を恨んでいたのではないの』
って。
そうなのだろうと、僕は思っていたんだ。
この10年間、彼が僕に親切だったのは、彼が僕を憎み恨んでいるからなのだと――そう、僕は思っていた。
僕みたいな化け物に 一人で生き続けることを強いられた彼は、生きるための力を僕への憎しみによって養うしかなかったのだろうと。

僕のその問いかけへの答えは、僕がこの家で過ごしてきた10年間の意味を決めるもの。
使う言語を日本語に戻した彼から返ってきた答えは、
「君に命を救われてから、1週間ほどは」
というものだった。
1週間だけ。
1週間だけは 僕を恨んでいたと、彼は言った。

じゃあ、そのあとは?
その1週間が過ぎたあとは、あなたは僕をどう思っていたの !?
僕は そう訊きたかった。
訊きたくて――でも、訊けなかった。
恐くて――恐かったから。
僕は恐かったんだ。
彼に、彼が僕を恨んでも憎んでもいなかったと言われることが。
だって、もしそうだったなら、僕は彼の気持ちを10年間誤解したまま過ごしてきたことになる。
それは、とても残酷で ひどいことだ。
そして、不幸なことだ。
僕にとっても、彼にとっても。

悩んで――僕は結局、その質問を彼にぶつけることができなかった。
訊かない方がいいのだと思った。
彼のために。
もしかしたら僕を恨んではいなかったのかもしれない彼の心を傷付けないために。

彼は、日本語を入れれば僕が使える5つ目の言葉での返事を聞いて、静かに深く頷いた。
「やはり、ギリシャ語がわかるね。ならば、可能性は小さなものではない。君は ギリシャに行って、聖域という場所を探しなさい。もしかしたら、そこに、君の仲間がいるかもしれない」
「……」
ギリシャ。
西洋文明発祥の地。
そんなところに、僕の仲間がいるっていうの?

確かに僕は、彼が僕につけてくれた家庭教師たちに 必ず一度は、『どこの国の血が混じっているのか』と訊かれた。
僕は生粋の日本人には見えない姿の持ち主らしく――でも、『日本人です』と答えれば、彼等は その答えを受け入れてもくれた。
僕は自分に大和民族以外の血が入っているなんて思ったことはない。
もし僕がギリシャという土地に何らかの縁があるのだとしても、じゃあ、なぜ10年前、僕は この極東の島国に出現することになったのか――。
素直に彼に首肯できずにいる僕に、だが、彼は彼の計画を語り続けた。

「外出するのは気が進まないかもしれないが、明日、君は、パスポート申請のために私と都庁に行く。こればかりは代理申請はできないし、君はどう見ても未成年なので法定代理人の署名が必要だからな。書類は用意してある。パスボートの発行自体に問題はないはずだ」
「でも……」
「そして、できるだけ早くギリシャに向かう――日本を出るんだ」
「でも、あの……一人で……?」
10年間を共に暮らしてきた あなたから離れて、一人で?
この広い邸に、死期が迫っている あなたを一人残して?

その時、僕は、いつもしっかり握りしめてもらっていた母親の手を初めて離してしまった子供の気持ちと、いつもしっかり握りしめてやっていた子供の手を離さなければならなくなった母親の気持ちが ないまぜになったような思いに支配されていた。
なのに、彼は、彼と僕が別れて、それぞれ一人で生きていく未来を、既に その胸中で決めてしまっていたようだった。
「私の葬式は親戚たちか社の者たちが取り仕切るだろう。彼等は君の姿がないことに安堵はしても、捜すようなことはすまい」
彼は、僕が何者なのかを探る旅に僕が出ることを、既に決めていた。
そして、彼は確証のないことを軽率に口にする人じゃない。

「本当に……僕の同類がいるの。僕みたいな化け物が、僕以外にいるとは思えない」
本当は、そんなことじゃなく、もっと他に彼に訊きたいことがあった。
そんなことじゃなく、もっと別に、彼に言いたいことがあった。
なのに僕が、彼に何も訊けず 何も言えなかったのは、僕に勇気がなかったからだったろう。
それを彼に尋ね、彼に告げる権利を僕は持っていると思うことができなかったから。

「瞬。私は君を愛している。自分を卑下しないでくれ。それは、君を愛している私を侮辱することだ」
「あ……」
訊きたくて、確かめたくて、でも恐くて訊けなかったことを、彼は僕に教えてくれた。
そう、それが僕の知りたかったことなんだ。
こんな時なのに、僕は彼の言葉が嬉しくて――泣きたいくらい嬉しくて、同じくらい悲しくて、胸が痛んだ。

「ありがとうございます。僕もあなたを――」
ほとんど反射的に、僕は同じ言葉を彼に返そうとしていた。
その直前で、思いとどまる。
言葉を途中で途切らせた僕を一瞬 傷付いたような目で見詰め、だが、彼はすぐに、見ている僕の方が苦しくなるような形だけの微笑を作った。
「無理をしなくていい。危険を冒して命を救ってくれた人に毒づくような男のために、君は嘘などつかなくていいんだ」
「……」
彼は――僕自身がほとんど忘れていたことを忘れていなかったんだろうか。
『なぜ私を放っておいてくれなかったんだ! なぜ私を死なせてくれなかった!』
あの言葉を、彼はずっと後悔していたんだろうか――?

「違うの。僕はただ……僕に 誰かを愛する資格があるんだろうかと、そう思っただけで……」
それが、僕が勇気を持てない理由。
哀れな化け物の僕の臆病な言葉を聞いて、彼は、急に不思議そうな眼差しを僕に向けてきた。
なんていうか――突然 駆け寄ってきた小さな子供に『もしかしたら、空は青いの?』って訊かれた大人みたいな顔。
そして、彼は、見知らぬ子供に『もちろん、空は青いよ』って教えるみたいに、
「人が人を愛するのに資格は必要ない。心があれば、それは自然に生まれる思いだ」
と、僕に答えてくれた。

事実もそうなのか、僕は知らない。
他の人もそう考えているのかどうか、僕は知らない。
でも、彼がそう思ってくれているのなら、僕は言ってしまえる。
空が青いことを知らない子供みたいな僕にも、今ならわかった。
恐くて近付くことができず、臆病に距離を置き、それでも僕が彼に感じていた不思議な親近感。
それが何と呼ばれるべきものだったのか。
その親近感に、僕は今なら名前を与えることができる。
「僕もあなたを愛しています。感謝しています。この10年間、僕の家族と言える人はあなただけでした」

彼にとって、その言葉は、もしかしたら 彼がこの家で僕と暮らしてきた10年という時間の意味を決めるものだったのかもしれない。
彼は、彼が掛けていたプレジデントチェアーの背もたれに身体を預け、ゆっくりと目を閉じた。
まるで10年という時間の“意味”を彼自身の胸に刻み込もうとしているかのように。
そして、また、ゆっくりと目を開ける
再び僕の姿が彼の瞳に映った時、彼は、僕たちの10年という時間への決別をも済ませていた。

「なるべく早く発て。私の病のことを親戚連中が嗅ぎつけて、同情顔で ここに押しかけてくる前に。私は私の弱っていく姿を君に見せたくはないし……あと1ヶ月もしないうちに、私は強制入院させられるだろう」
「どうしても……僕は行かなきゃならないの?」
「君は これからも生き続けなければならないから。いつか どこかで……100年後くらいのいつか、こことは違う世界で君にまた会えたらいいのだが」
僕と彼との別れを、変えることのできない未来として、彼は既に受け入れてしまっているようだった。






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