それから半月後、僕は、10年間 彼と隠遁生活を送っていた家を出て、ホテルに移った。
でも、すぐにギリシャに向かうことはせず、しばらく日本に留まった。
余命3ヶ月――と彼は言っていたけど、きっと それは医者の言葉通りではなくて、彼が僕のためについた嘘だったに違いない。
でなかったら、彼は、彼のいない未来に僕を送り出すために、残っていた体力と精神力のすべてを使い果たしてしまったんだ。
そして、その務めを果たし、安堵して、彼は 彼の本当の家族の許に急いだ――。

僕がギリシャに向かったのは、僕が彼の家を出てから1ヶ月後。
僕にとっては空虚な、でも 盛大な彼のための社葬を、葬儀場の外で見届けてからだった。
僕は、本当に僕みたいな化け物の同類が その国にいると思っていたわけじゃない。
僕が僕の未来を見付けること。
それがあの人の遺言だったから、だから、僕はギリシャに向かったんだ。


生まれて初めて乗った飛行機を降りて、初めてギリシャの空を見、初めてギリシャの風に吹かれた時、でも 僕は特に何の感懐も覚えなかった。
少なくとも、『以前来たことがある』と感じるような どんな要素も、それらのものには感じられなかった。
僕がこの国を知っていた――とは思えない。
この国で何かを見付けることができると強く期待していたわけじゃないけど、それでも僕は軽い失望を覚えたんだ。
その国で、僕が最初に受けた衝撃。
それは 空や風ではなく人――それも、どう見てもギリシャ人とは思えない一人の人間によってもたらされた。

アテネ市内のホテルに向かうために空港を出たところで、僕は何か異様に強い力を感じて――その力の出どころを求めて視線を巡らせた。
僕が感じた力は、驚くべきことに、人間の視線の力だったらしい。
そこには黒いジャケットを身に着けた 一人の金髪の青年がいて、そして 彼は僕を見詰めていた。
びっくりするほど まっすぐ、ほとんど睨んでいるみたいにじっと。

綺麗な人だった。
面立ちの端正は言うに及ばず、見事に均整の取れた理想的なプロポーション。
もし、彼の眼差しが 気に入った女の子を見詰める軽薄なラテン男のそれだったとしても、彼が強靭な肉体の持ち主だということに、僕は疑いを挟むことはなかっただろう。
肩、首、腕、脚。
すべてが力に満ちている。
この人の腹筋や背筋が脆弱なものであるはずがない。
要するに、彼は、強さと美しさを――それも尋常ではない強さと美しさを――兼ね備えた、人間の若い男性としては申し分のない姿の持ち主だった。
輝くような金髪はギリシャ人のものとは思えなかったから、おそらく彼も 今日この国にやってきた旅行者か何かなんだろう。

人に見られるのには慣れ始めていたけど、彼が僕に向けている眼差しは、他の人のそれとは全然違っていた。
つまり、大人しくて引っかけやすそうな女の子を見付けて、声を掛ける機会を窺っている軽薄な男のそれじゃなかった。
まるで10年 探し続けていた親の仇を見付け出した人の目。
人間のそれでなかったら、1ヶ月振りに獲物に巡り会った飢えたライオンの目。
そんな目で、彼は僕を凝視していた。

場所が日本だったなら、10年前のごく短い期間 マスコミを賑わせた僕を知っている可能性も考えられたけど、あれから10年も経った今、しかも異国の地で、化け物としての僕に注目する人なんていないはず。
まして、僕は、10年前と姿が全く変わっていない。
同じ姿をしているからこそ、10年前の化け物と僕を同じ人間だと思う人は、この地上には いないはずなんだ。

こんなふうに、まじまじと見知らぬ人間を見詰め続けるのは、日本では比較的礼儀に適っていないことだ。
ここは日本ではないけど、それを非礼と心得ている僕が、彼の視線に不快の念を抱いたとしても、それはさほどおかしなことではなかったろうと思う。
僕は、でも、彼に見詰められていることを不快とは感じなかった。
ただ、強い――と感じただけで。
そう。それは恐ろしいほど強い力でできた視線だった。

その場には、彼以外の人間も大勢いた。
足がすくんだように その場に棒立ちになっている僕を怪訝に思って、僕を見ていた人も幾人かはいたに違いない。
中には――僕はそういう人たちに辟易していたけど――僕を女の子と勘違いして、秋波を送ってきている男性も いたかもしれない。
でも、僕は、その時、空港に出入りする人たちで ごったがえす その場所で、彼以外の人間の存在を全く認識していなかった――認識できずにいた。

僕には、彼の凝視が悪意によるものだとは思えなかった。
でも、多分、その視線には、悪意ではないにしても、何らかの強い思惟や感情が含まれていたんだろう。
彼が僕に向けてくる視線に、僕は身体の力を奪われていくような錯覚を覚えた。
それは、初めて経験する感覚だった。

僕は、自慢じゃないけど、普通の成人男性の10倍以上の膂力を持っている。
僕の身体は あまり筋肉がついている方じゃないから、それを膂力――筋肉の力――と言っていいのかどうかは わからないけど、僕が腕力や脚力で彼に劣るはずはない。
その上、僕は、怪我や病に縁がなく不老。そして、もしかしたら不死。
体調不良なんて、僕の辞書には載っていない言葉だ。
なのに――なのに、僕は、彼の視線のせいで、あろうことか“目眩い”と呼ばれる現象を起こしかけていた。
平衡感覚が失われ、身体から力が抜けていく。
比喩なんかじゃなく、精神的な――錯覚なんかでもなく、本当に現実に実際に 手足から力が抜けていく。
そのまま、あと5分 彼の瞳の中にいたら、僕は その場に倒れてしまっていただろう。

『彼は何者だ』という疑問より先に、『危険、危険、逃げろ』という警告が、僕の頭の中で けたたましく木霊する。
僕は、ふらつく足で、その警告に従った。
彼に背を向け、その場を離れる。
彼は僕を追おうとした。多分。
でも、僕は、彼から離れなければならないという強迫観念のようなものに かられていて――とにかく、後ろを振り返らず、後先も考えず、ちょうどそこにやってきたタクシーに飛び乗った。
タクシーの運転手は、僕の真っ青な顔を見て、大丈夫かと尋ねてきたけど、『変な人に追いかけられて、恐かったから』と僕が言うと、それで合点したように車のスピードをあげてくれた。






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