女神アテナの結界によって守られ、招かれざる客は探しあてることもできない場所――聖域。
その中心であるアテナ神殿。
それは、ペリクレス政権下フェイディアスによって建造成り、でも あの派手な彩色が施される前のパルテノン神殿がこうだったんじゃないかと思えるような、荘厳な神殿だった。
その荘厳な神殿の玉座のあるホールで 僕と氷河を迎えてくれたのは、どう見ても10代の、“若い”というには若すぎる一人の少女。

姿は少女なのに――何ていうか、50代60代の大人の人でも これほどの貫禄を備えている人は少ないだろうって思えるような迫力と落ち着きが 彼女にはあって、でも確かに姿は10代の少女。
僕や氷河が不老のまま、あと100年も生きたら こんなふうな印象の人間ができあがるんじゃないだろうかって、僕は思ったんだ。
若さと、とんでもない貫禄が同居している美しい少女。
それが、聖域と聖域のすべての聖闘士を統べる女神アテナ そのひとだった。

「氷河、瞬。また会えて嬉しいわ。10年振りね。――と言いたいところだけど、あなたたちと旧交を温めるためには、あなたたちに まず一つの決定をしてもらわないと」
不思議な迫力に満ちた その少女は、紫龍さんたち同様、僕たちのことを知っているようだった。
僕と氷河が知らない、今より10年以上前の僕と氷河のことを。

「一つの決定……?」
「ええ、そうよ。あなたたちは 今ここで、人間の力を超越した不死の神になるか、人間としては最高の力を持っているけれど、いつかは死んでいく人間に戻るか、そのどちらかを選ばなければならないの」
「――」
いったい彼女は何を言っているんだ?
神になるか、人間に戻るか?
なぜ僕たちが そんな選択をしなければならないの?
ううん、それ以前に、そんな選択が この世界にあり得るものなの?

「今 あなたたちは不老の人間、不完全な神とでもいうような状態にあるの。不死の神になることを選ぶのなら、残念ながら、あなたたちの記憶を戻してあげることはできません。人間であることを選んだ場合は、記憶が戻った途端に、あなた方は死すべき人間の身体に戻ります」
「あの……」
彼女が僕と氷河に迫った選択が あまりに荒唐無稽で、僕の理解と常識の範疇を超えたものだったから――その答えをどうやって選べばいいのか わからなくて、僕は、僕の隣りに立っている氷河の顔を横目でこっそりと見上げたんだ。

氷河は 何かに腹を立てているみたいに難しい顔で女神を睨んでいた。
まるで彼女に 馬鹿げた法螺話を聞かされたと思っているような顔。
不機嫌そうで不愉快そうな氷河の その顔を見て、ぼくはものすごく慌てた。
彼女の話は確かに荒唐無稽で常軌を逸したものだけど、でも、彼女が不思議な力を持っている普通の人間でないことは確かだ。
なのに、氷河は、今にも彼女に向かって『詰まらん法螺話を吹くな!』なんて怒鳴り声をあげそうな様子をしていたんだもの。

「あ……あの……でも、僕と氷河はもう、あなたのおっしゃる“不完全な神”というようなものではなくなっていると思います」
「え?」
「あの、だって、僕たち、ギリシャに来てから、怪我は治りにくいし、以前の半分も跳べないし走れないようになっているんです」
「まあ。私はまだ何もしていないのに」
とにかく、アテナに対して暴言を吐く機会を氷河に与えないために、僕は、僕たちが為さなければならないっていう決定には あまり関係ないのだろう事実を口にした。
その事実を聞いたアテナが、なんだか嬉しそうに瞳を輝かせる。

と、そこに、僕が邪魔をしないと どんな暴言を吐くかもしれないと案じていた氷河の、思いがけないほど落ち着いた声が響いてきた。
「とりあえず、俺がまず知りたいことは、俺が記憶を失う以前の瞬を知っていて、そして瞬を好きだったのかということだ」
「ええ、その通りよ」
「つまり、夕べが初めてではなかったんだな。どうりでしっくりくると思った」
「氷河……!」
氷河の難しい顔は、そんなことを考えていたせいだったの?
ううん、それはともかく、こんな若い女の子の前で、氷河ったら 何てことを言うの!

想像していたのとは かなり違う氷河の暴言に、僕は背筋がひやりとする感覚を味わった。
氷河が言った言葉の意味はわかっているようなのに、聖域の女神は 恥じらう様子も嫌悪の表情も見せなかったけど。
代わりに、彼女は、僕と氷河が記憶を奪われ“不完全な神”として人間社会に放り出されることになった経緯を教えてくれた。

「あなた方は憶えていないでしょうけど、記憶を失う以前、あなた方は私の聖闘士として、人間界に邪欲を抱く神々を倒すという、あってはならない偉業を成し遂げてくれたの。倒された神の汚名をそそぐため、人間に優越する神の名誉を守るため、幾柱もの神が 次から次に あなた方を倒そうとしたのだけれど、彼等は その戦いにことごとく敗れてしまった。そういう手痛い経験を重ねた神々は、最後に、自分たちの名誉を守るためには、いっそあなたたちを、ヘラクレスのように神の地位にまで上げてしまった方が手っ取り早いのではないかと考えるようになったの。神が人間に倒されることには問題があるけど、神が神に倒されるのなら、神の名誉は傷付かないという理屈ね」

僕には よくわからない理屈だ。
本当に わからない。
その神々という・・・・・ひとたち・・・・は、自分たちより弱い存在であるはずの人間に敗北したことが不名誉だから、その不名誉を不名誉でなくするために、敵である僕たちに 自分たちと同等の力を与えることを考えた――ということ?
神々の名誉っていうものは、そんなふうにして守られるものなの?

「それで試してみることにしたのよ。あなたたちから人間でいた頃の記憶を奪い、実際に、神と同じように、人間に傷付けられることのない強大な力、不死の身体で生きてみさせて、その後、どちらかを選ばせる。あなた方が――誰からも傷付けられることのない不死の肉体と永遠の孤独と栄光を選ぶのか、いつかは死ぬ脆弱な人間の肉体と束の間の愛と幸福を選ぶのかを」
そんな訳のわからない名誉のために僕は この10年を、自分を化け物と信じて、そんな自分を悲しみながら生きてきたの?
好きだった人から引き離されて?

「あなた方は、儚く不確かな愛などより不滅であることの方を選ぶに決まってると、神々は言っていたけれど、星矢と紫龍は人間に戻ることを選んだの。あなた方より1年ほど早く、彼等は人間の身体に戻っているわ」
「だってよ! だって、俺たち、一生懸命生きてる・・・・仲間がいたから、神々を倒すなんて 奇跡だって起こせたし、生きてるのが楽しかったんだぜ。孤独と栄光なんて、腹のたしにもならねー」
「詰まらない生を永遠に生き続けることは、永遠に地獄にいることと同義としか思えないな」

星矢さんと紫龍さんが、彼等が人間であることを選んだ理由を訴える。
二人の言葉に、僕は完全に同感した。
“愛”と“不滅”のどちらかを選べと言われたら、人間なら・・・・愛を選ぶはずだ。
神の“不死”は、“生きていること”じゃない。
ただ存在し、消滅しないだけだ。
でも、僕は“生きていたい”んだ。
氷河と一緒に。

「記憶が戻って 人間になったら、俺は 瞬を残して死ぬこともあるのか」
僕には証明の必要もない真実に思えることを語る星矢さんたちの言葉を、それまで無言で聞いていた氷河が アテナに問い、
「ええ」
アテナは、氷河に頷いた。
後先を考えずに突っ走るタイプなのだと思っていたのに、氷河は 変なところで慎重で、変なところで心配性だ。
氷河だって、僕たちがどちらを選ぶのかということは、もう わかっているはずなのに。
「氷河、でも、多分 僕たちはもう、愛を手に入れて、人間に戻りかけていると思う。どっちにしても、僕たち――人間なんだ、きっと。神の意思なんか関係なく、愛し合わずにいられない人間なんだよ」

愛を知ると、人間は いろんな意味で弱くなるんだろう、きっと。
だって、愛してる人の身体をへし折ったり、肩の骨を折ったりできないもの。
そして、一人では生きていけない心の持ち主にもなる。
同時に、死という消滅に耐えられるほど強くもなる。
それが人間なのだと、僕は思った。
僕と氷河は、そういう人間なのだと。

「そうだな」
氷河が頷くと、アテナは、それを僕たち二人の決定と判断したらしい。
「では、あなた方の記憶を戻し、あなた方の肉体を不死ではない人間のものに戻します」
彼女は微笑んで、僕と氷河に宣言した。






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