1時間後、氷河が4階の部屋から下りてくると、瞬は先に そこに来ていた。 さほど広くない、テーブルが5、6卓あるきりのロビーのソファの一つに瞬が腰掛けている。 そして、その瞬の周りを、この町の住人とおぼしき若い男たちが5人で取り囲んでいた。 「君、どこから来たの」 「日本です」 「日本? 日本人には見えないなー。別の血も混じってるんだろう?」 「ロシア語、上手いね。先生について勉強したの?」 「こんな何もない辺鄙な町に、なんでまた、君みたいな子が」 「オーロラや凍った海を見たくて。ロシア語は友人に教えてもらいました」 「オーロラはともかく、凍った海? 変なものを――」 「変でも何でも いいよ。俺たちが案内してやろう。この辺りは、町を出ると、道も標識もないから、一人で行くと方向を見失うよ」 「あ、それは大丈夫なんです。この辺りの地理に詳しい連れがいますから」 「連れー? でも、部屋は一人で――もしかして、俺たちのこと警戒して、嘘ついてる?」 「そんなことは……氷河、僕、ここだよ!」 春には まだ間があるというのに、そこで繰り広げられていたのは、綺麗な花に群がる蜜蜂たちの図。 その中心で可憐に咲いていた花が、自分の“連れ”の登場に気付いて、勢いよく右手をあげる。 一斉に後ろを振り返った蜜蜂たちは、そこに彼等の群れの一員ではない男の姿を認め、一様に眉をひそめた。 まるで、この場にあってはならないものを見付けてしまった人間のような表情を浮かべて。 そして、それぞれに幾度も氷河の上に視線を投げながら、掛けていた椅子から立ち上がり、その場から退散する。 実情はどうあれ、建前は旅行者のための宿泊施設であるホテルのロビーに 地元では見かけない人間の姿があることは奇妙なことでも不思議なことでもない。 にもかかわらず、まるで真夏にダイヤモンドダストのきらめきを目の当たりにしてしまったような彼等の目。 無言で向かい側のソファに腰をおろした氷河の前で、瞬は首をかしげることになったのである。 「氷河、知ってる人たち?」 「いや」 「そう? でも、なんだか――」 「俺は、日本に行くまでは この町にいたから、向こうが一方的に俺を知っているということはあるかかもしれん」 「日本に行くまで……って、じゃあ、氷河は それまで この町でマーマと暮らしていたの?」 「ああ」 氷河の首肯に、瞬が得心した顔になる。 氷河の説明を聞いて、瞬は、蜜蜂青年たちの不可解な態度の訳を理解した(つもりになった)のだった。 彼等は、彼等の幼い子供の頃を思い出したか、あるいは、完全に思い出しきれないことに戸惑っていたのだ――と。 「氷河のマーマはものすごく綺麗なひとだったから、氷河とマーマって、綺麗な 「それはどうか知らんが、小さな町だからな……」 「きっとそうだよ」 あの青年たちは、氷河よりは少し歳がいっているようだった。 氷河の母が生きていた頃には おそらく12、3歳の少年だったろう。 彼等が思春期の頃、同じ町で暮らしていた美しい年上の女性。 その女性に似た美しく幼い少年。 彼等にとって、氷河たち 彼等の奇妙な態度の訳を知ると、瞬は 彼等に親近感を覚え、同時に微笑ましい気持ちにもなったのである。 ホテルのティーラウンジで出されたお茶には、イチゴの砂糖漬けや白桃のジャム、パンケーキやクッキーがついてきた。 夕食は 素朴で温かい料理が並び、その量の多さには度肝を抜かされたが、ともかく、瞬は、ロシアでの最初の夜を、極めて快適に楽しい気持ちで過ごすことができたのである。 「ダイヤモンドダストは、晴れてさえいれば、このホテルにいても見られるが、オーロラは天気や気温に左右されるから、俺たちが ここにいる間に必ず見られるとは限らないぞ。オーロラが現われる可能性が高いのは やはり夜だし、天候を確認して、重装備で出掛けなければならない。それでも見れるかどうかは――」 「うん。僕、もともとオーロラは見れたらラッキーくらいの気持ちでいたから。僕、それより、海に行きたい。凍った海を見たことがないんだ」 「おまえも変わっている。凍った海なんて、ただ それだけのものだぞ。オーロラのように色や形を変えて 目を楽しませてくれるものではないし、ダイヤモンドダストのように輝いているわけでもない。灰色の姿をして、ただそこにあるだけだ」 「でも、氷河は毎日、そんな海を見ていたんでしょう? 僕は、氷河が見ていた海が見たいの」 「まあ、確かに、オーロラと違って、海は見損ねることはないな」 「うん。じゃあ、明日は海を見にいこうね!」 そんなことを話しながら、いつもの3倍以上の時間をかけても 出された料理をすべて食べきることは不可能と瞬が悟ったのは、夜もかなり深まってから。 夜更けになると、レストランには、食事より酒を飲むためにやってくる客の方が多くなってきた。 瞬は、明朝 早起きをしてダイヤモンドダストを見るために、早目に部屋に戻ることにしたのである。 瞬と氷河がレストランを出る時、例の蜜蜂たちはまだ レストラン内にあるバーカウンターにいて、そして しきりに ちらちらと瞬たちの方に視線をなげ、二人の様子を窺っていた。 「あの人たち、まだ氷河のこと気にしてるみたい。やっぱり、マーマとこの町にいた頃の氷河を憶えているんだよ」 「奴等が気にしているのはおまえだ。おまえが可愛いから。一緒にいる俺が邪魔なんだろう」 「まさか」 その頃には、瞬の中にはしっかりと、昔 この町では美しい母子が住人たちの羨望の的になっていたのだという考えが根づいてしまっていた。 その美しい女性が 既にこの世にいないことは悲劇だが、彼女と彼女の息子の姿は、今も この町の住人たちの記憶に 消し去り難いものとして残っているのだ――と。 瞬は、何の変哲もない、だが美しい思い出を持っている この町が、とても好きになっていた。 |