さあ、諸君。 いよいよ我が国の歴史上、最もドラマチックでロマンチックで、だが、実に平凡で、人世の日常茶飯と言っていい事件が起きる時がやってきたようだよ。 まず、事件の内容を語る前に、当時の国情を簡単に説明しておこう。 当時、我が国の都には、2つの勢力ある家があった。 この2つの家を、ここでは、オイディウスの変身物語にあるピュラモスとティスベの物語をなぞって、P家とT家としよう。 ピュラモス家とティスベ家、かっこ、仮名、かっことじ――というわけだ。 なにしろ、両家は、その時から1000年が経った今でも、我が国の二大門閥で、有能な人物を実に多く排出している。 その本流傍流から出た多くの人物が、現在の我が国の政界財界学界で重要な地位を得ている。 この大講堂にも、2つの名門出身の学生が複数いることだろう。 実名を出すのは はばかられる。 両家は今でこそ 一つの家と言っていいほど親密で良好な関係を築いているが、当時は、激しく反目し合っていた。 我が国の くじ引き制度同様、両家の反目がなぜ いつから始まったのか、誰も知らない。 反目の原因は 両家の反目は、皇帝派と教皇派の対立が始まった11世紀の叙任権闘争より はるか昔から続いていたのだからね。 当時、P家には、一人の男子がいて、その名を氷河と言った。 諸君等もご存じの通り、両家は美男美女を生むことでも有名な家だ。 諸君等も、諸君等のイメージする最高の美男子の姿を脳裏に思い描いてくれて構わない。 氷河は、P家本家の跡継ぎ。 一族の者たちが、さっさと妻を持たせて落ち着かせた方がいいのではないかと考えるような血気盛んな総領息子だった。 勢力のある名門の跡継ぎで、しかも風采のよい青年だったから、彼の妻になりたいと望む令嬢はいくらでもいただろう。 しかし、その頃、彼は――まあ、若い者が必ず 諸君等も経験したことがあるだろう。 そう。 恋の病というやつだ。 くじ引きの制度が良いものなのか悪いものなのか、彼は考えたこともなかった。 興味もなかった。 彼は恋に夢中で、欲しいのは恋する人の心だけ。 だが、彼の恋が実る可能性ときたら、それはそれは極少。 いや、皆無と言っていいものだった。 なにしろ、彼の恋する相手は、旧敵T家の、令嬢ならまだしも、令息だったのだからね。 ここで、注意していただきたい。 1000年前と今では、倫理観や宗教観、価値観が違う。 これは、歴史を学ぶ者が忘れてはならない鉄則だ。 現代の、自分の価値観で歴史的事実を判断してはならない。 当時、我が国にはまだキリスト教は入ってきていなかった。 同性同士の恋は忌むべきものではなく、むしろ、異性愛より高次なものとされていたのだ。 この事件で『なぜ氷河は女性ではなく少年に恋したのか』などということを考察することは、全くもって無駄なことだ。 当時の倫理観・価値観では、男子が美しい男子に恋することは ごく自然で、かつ、最も高尚な行為とみなされていたのだ。 その倫理観・価値観を間違っていると糾弾することは無意味だ。 現代に生きる我々の価値観とて、100年後には大変な間違いと考えられるようになっているかもしれないのだからね。 そういったことを踏まえて――氷河の話に戻ろう。 彼は、彼が継ぐべきP家の仇敵であるT家の令息に身も世もあらぬほど、恋焦がれていた。 そのT家の令息は瞬という名で、花のように美しい少年だったそうだ。 氷河より幾つか年下。 美男美女を生むので有名な両家だ。 諸君等は、諸君等がイメージする最高の美少女が、たまたま男子だった姿を思い描いてくれれば――いや、それは難しすぎるか。 そうだな。翼のない天使を脳裏に思い描いて、私の話を聞いてくれたまえ。 そういう描写をしている書物が複数残されている。 ともかく、氷河の恋の成就は非常に困難な状況にあった。 叶わぬ恋の唯一の救いは、瞬がT家の総領息子でなかったことくらい。 瞬は、T家本家の次男。 瞬には当時 既にT家の当主の座を継いでいた兄君がいたのだ。 いや、だが、それは 氷河にとっては必ずしも 救いではなかったかもしれない。 その兄というのが、花のように美しい弟を溺愛していて、それこそ、風にも当たらぬように館の奥に隠し、その純粋さを損なわぬよう細心の注意を払って育てていたそうだからね。 当時は、何度も言うが、異性愛より同性愛の方が高尚な恋と考えられていた。 美しい少年のいる家では、彼がろくでもない男に見初められ、無体な振舞いに脅かされることのないように、家族は相当苦労していたらしい。 そういう多難な恋をしていたんだ。 P家の氷河は。 彼が是のくじを引き当てたいと願うのは自然なことだと、諸君等は思うに違いない。 なにしろ、是の数に当たった者は、何をしても許されるのだからね。 たとえば、是の数を引き当てた者が恋する人をさらってきて犯しても、彼は罪には問われないのだ。 それが、古くからの旧敵である家の一員であり、自分の家と勢力を二分するほどの名門の令息であっても。 だが、そんな不埒な考えを抱くのは、真実の恋をしたことのない者だけだ。 そんな無体を働いて、恋する人に憎まれてしまったら、元も子もない。 欲しいのは、恋人の心なのだ。 だから、氷河は、自分が くじに当たることなど、夢想したこともなければ、期待してもいなかった。 そもそも、くじに当たる確率というのが、当時で500万分の1しかなかったのだ。 当時の我が国には、それだけの人口があった。 氷河の恋が実る確率と、くじに当たる確率のどちらが大きかったか。 そのあたりの考察は、数学の教授達に任せることにしよう。 この講義では取り扱わない。 氷河は、自分が是の数に当たることを考えていなかった。 そしてまた、非の数を引き当てることを恐れてもいなかった。 自分が人に羨まれたり憎まれたりしていないという自信があったわけではない。 なにしろ名門の御曹司。しかも若く美男。ふさわしい教養も身につけていた。 それだけで、彼を羨む者は多かったろう。 非の数に当たってしまった者は、誰に襲われても、その結果 命を落としても、襲った者を罪に問うことはできない。 罪を犯していないということになっている者を攻撃し傷付けるようなことをしたら、その行為こそが罪となるわけだが、過剰防衛にならない程度に反撃することは許されていた。 甚大な被害を受けたのでない限り、我々が 詰まらぬ喧嘩を いちいち裁判所に持っていかないのと同じことだ。 氷河は、頑健な肉体を持ち、剣術も巧みな青年だった。 大抵の者を軽く いなす自信はあったろうし、それが叶わぬ場合には、巧みに逃げおおせる自信もあっただろう。 つまり、くじは氷河にとって無意味なものだった。 彼が射とめたいのは、くじの数などではなく、T家の美しい若君の心だった。 ところが、運命とは皮肉なものだ。 ある年のくじ引きで、P家の氷河が、是の数字に当たってしまったのだ。 それが事件の発端だ。 あるいは、その年、非の数を引き当ててしまったのが、T家の瞬だったことが。 P家の者は奮い立った。 春分の日、氷河はT家の者を皆殺しにしてしまっても、罪に問われない。 そういう、P家の者にとっては胸のすくような事態が現実のものになったのだ。 是の数を引き当てた者が、T家の者を皆殺しにしてしまっても、それは氷河の当然の権利。 T家の者は、それを己れの運命と、従容として受け入れなければならないのだ。 P家の者にとっては、目の上のたんこぶを綺麗さっぱり取り除くことのできる好機。 もちろん、実際に手を下すのが許されているのは氷河ひとりだけなのだが、P家の一族郎党は誰もが武者震いしたことだろう。 逆に、全く別の意味で、T家の者たちの間には緊張が走ることになった。 P家の氷河が是の数に当たったというだけなら、氷河ひとりの襲撃に備えればいいだけのことだ。 T家では、だが、その上、非の数に当たってしまった瞬の身の安全を守ることもしなければならない。 その場合、警戒の対象は この国の人間全員なのだ。 いくら館の奥深くに隠して育てたといっても、瞬は健康な肉体を持った歴とした男子だ。 女子のように、本当に館の奥に閉じ込めておくことはできなかった。 まず、当時の善良な市民の一人として、神殿――当時は、祈りの場は教会ではなかったのだ――に通わないわけにはいかない。 剣術や馬術の習得・鍛錬は、館の中では行なえない。 学問に関しても、当時 我が国には既に初等教育を行なう学校があって、貴族の子弟はそこに通うのが慣例となっていた。 また、瞬には、T家本家の一員として人脈を作っておく必要もあった。 要するに、T家の瞬の美貌は国中に知れ渡っていたのだ。 瞬の兄の友人の中にさえ、瞬に恋する青年は幾人もいた。 ともかく、その二重の天災を知った瞬の兄が最初にしたことは、すぐさま弟を人知れぬ場所に隠すことだった。 瞬が人の恨みを買うような少年でないことは、誰もが認める事実だったのだが、瞬は美しい少年で、P家の氷河のみならず、誰がどんな危害を加えないとも限らなかったからね。 そうしてから、T家の者たちは、彼等の宿敵である氷河の襲来に備えたのだ。 是の数に当たった者は何をしても罪に問われない。 是の数の権利を持つ者に殺される者以上に“犬死に”の言葉がふさわしい者はいない。 だが、T家の者たちも、むざむざ無抵抗で氷河に殺されるつもりはなかった。 罪を犯していない――ということになっている人間に攻撃を加えることは 許されることではないが、防御に努めることは罪にはならない。 何とか 春分の日1日、氷河ひとりの襲撃を防ぎきれば、それで窮地を脱することはできるのだ。 諸君等は、なぜ T家の者たちは氷河の手の及ばないところに逃げようとしなかったのか、それを不思議に思うかもしれない。 が、彼等は都から逃げ出すわけにはいかなかったのだ。 なにしろ都の住人が、P家党とT家党の二つに分かれて反目し合っている。 都の住人の半数はT家党。 彼等を見捨てて、T家の主筋の者たちだけが安全な場所に逃げるわけにはいかない。 そんなことをしたら、T家は、仲間を見捨てた卑怯者の家として、従来の支持者のみならず、すべての国民の信頼を失ってしまうだろう。 それくらいなら むしろ、氷河を館内に迎え入れてしまった方が、被害も最小限で済むというわけだ。 何をしても罪に問われないのは氷河ひとりであって、P家の者全員が是の数の恩恵に預かるわけではない。 T家の者たちは、氷河ひとりの動向に注意していればよかった。 その線で 運命の日を何とかやり過ごそうと考え、T家の者たちは氷河の来襲を迎える準備に当たったのだ。 |