氷河の断言を聞いた瞬の兄は、当然のことながら、大いに立腹した。 仇敵の家の息子が仇敵の家の息子を欲しいと、臆面もなく宣言してのけたのだ。 瞬の兄は、それだけでも大変な侮辱を受けたような気分になったことだろう。 これまでも、是の数を引き当てて、高嶺の花を手に入れようとした者は多くいた。 何をしても罪に問われない者が求めるものといえば、いや、ほとんどの男が求めるものといえば、黄金のリンゴの神話の時代から、権力、富、美女と相場が決まっているからね。 が、氷河は、国内で1、2を争う名家の跡を継ぐことが決まっていて、既に富と権力は手にしていた。 それ以上の富と権力を求める必要はなかったし、更なる富と権力を手に入れて、人々の羨望の念を大きくするのは、あまり賢明な やり方ではなかった。 賢明だったから、氷河が 王女や王位に見向きもしなかったのだとは、私には到底 思えないがね。 彼は恋をしていたのだ。 真実の恋を。 恋人の姿以外、見たいものはなく、恋人の声以外、聞きたいものはなく、恋人の心以外、欲しいものもなかった。 ただ、それだけのこと。 分別ではなく、恋の情熱が 氷河を導くものだったのだ。 「俺の邪魔をするな」 と、恋する氷河は言い、 「たとえ この場で貴様に殺されることになっても、我が家の財産をすべて奪われても、俺は瞬を守る」 と、瞬の兄は言う。 両者は互いに退く気配を見せない。 業を煮やした氷河は、その場にいたT家の家令を捕まえて、脅しをかけた。 「瞬の居どころを言え。でないと、貴様は今ここで命を失うことになるかもしれん。知っているだろう。今日一日、俺は誰を殺しても罪には問われない」 とね。 その様を見た瞬の兄は、 「そいつは、罪のない人間を殺すようなことはできない。答えるな」 と家令に釘を刺したそうだ。 我が国の男子は昔から礼節を重んじる者であり、仇敵同士といえど、その点は、互いに騎士として信頼し合っていたということだろう。 もっとも、瞬の兄は、 「そいつは瞬に害を為すかもしれん」 と続けたそうだから、恋の力が人の心をどれほど乱すものであるかということも、瞬の兄は知っていたわけだな。 「俺はそんなことはしない」 という氷河の反駁に、 「あらゆる人間の生殺与奪の権を与えられたら、人は変わるものだ」 瞬の兄は冷笑で答えた。 神のそれにも似た絶対的な力を手に入れたなら、普段は清廉潔白の士であった者も変貌する。 清廉潔白の士のままではいられない。 その者が恋の情欲に取り憑かれているなら なおさら、というわけだ。 諸君等には、ここで、是の数に当たった者たちの多くは、被支配者層に属する善良な市民だったことを、思い出してほしい、 彼等は、絶対的な力を手に入れるや、平生の彼等なら決してしないであろうことをした。 善良な市民である彼等が そうしたのは、自分がそういうことを行なっても罰を受けないことがわかっていたからではない。 そうではなく――彼等の社会において、それが罪ではなかったからだ。 そうであったろうと、私は思っている。 それが罪だという意識があれば、罰を受けることはないとわかっていても、人は自分が罪を犯すことを恐れるものだ。 神はすべてを見ているのだから。 我々が生きている社会が、どういう行為を罪とみなすかということは、非常に重要なことだ。 我が国では罪とされている行為、だが他国では罪ではない行為があるとしよう。 諸君は、母国内ではその行為を行なうことはないだろうが、他国では おそらくその行為を行なう。 少なくとも行ないやすくなるだろう。 たとえば、それこそ同性愛とかいったものだ。 そういうことを考えると、その国が採用している法というものは、実に実に重要なものだ。 法は、国が目指す理想を物語るものであると同時に、個々人の価値観や善悪の判断基準の構築に 非常に大きな影響を及ぼすものだからね。 さて、そんなふうに、T家の当主とP家の次期当主が、互いに一歩も引かずに睨み合っているところに、小さな女の子が瞬からの伝言を持ってやってきた。 当時の貴族の家では、準貴族の家の子女を行儀見習い兼 小間使いとして預かる慣習があったから、そういう少女だったのだろう。 彼女が氷河に手渡した手紙には、 「氷河が是の数を引き当てたと聞きました。その力で、僕の家と氷河の家の と記してあったそうだ。 自分に与えられた特別な力を、氷河は必ず よいことに使う。 そう、瞬は信じている。 恋する人に、そんなふうに信頼を示されたら、氷河としても奮起しないわけにはいかなかったろう。 2つの家の仲違いをやめさせる。 それは、氷河自身の望むところでもあったろう。 当然、氷河は愛する人の望みを叶えてやりたいと心から思った。 ところが、ここに一つの問題があった。 氷河は、実は、両家がなぜ反目し合っているのかを知らなかったんだ。 氷河だけではない。 実は、誰も知らなかった。 原因がわかっていない問題を解決するのは困難なことだ。 経済上の損得が原因なら金銭で、領地の所有権が原因なら領地の境界を取り決めることで、問題は解決できる。 だが、原因がわからず、憎しみの感情だけが肥大し、長い時間をかけて複雑に絡み合ってしまった問題を、どう解決すればいいのか。 そんな問題の解決法は、私でも思いつかんよ。 似たような事例を人類の歴史に求めてみても――それは、どちらかの勢力が もう一方の勢力を根絶やしにすることでしか完全な解決を見ることはない。 それを“解決”と言っていいと仮定しての話だがね。 いずれにしても、そんな“解決”は瞬を悲しませるだけのものだろう。 氷河は、そういった解決方法を採るわけにしいかなかった。 というより、そういった解決方法を採ること自体が、そもそも不可能なことだったのだ。 当時、都に住まう者たちのほとんどが、P家とT家、二つの陣営に分かれて争っていた。 P家がT家に あるいは、T家がP家に それは あまりにも乱暴――無理な話だ。 是の数に当たった者は何をしても罪に問われないといっても、それは氷河ひとりだけのこと。 P家陣営の者たちにT家陣営の者たちの抹殺を命じ、その命令を実行してしまったら、P家陣営の多くの者が牢獄行きになってしまうのだ。 そして、一人の人間が一日の内にできることなど、たかが知れている。 そんな解決方法は不可能なこと、してはならぬことと、氷河もそれは認識していた。 P家の氷河は、賢明な青年だったのだろう。 いや、むしろ現実的な青年だったと言うべきかな。 たった一日で、数百年間続いてきた両家の反目を解消することは不可能なことと、彼は判断した。 それが不可能なことなのであれば、せめて自分の恋だけは実らせたいと考えたのだろう。 彼は、仇敵であるT家の当主に、再度 頭を下げて頼んだんだ。 「頼む。瞬の居場所を教えてくれ。明日の夜明けまでにどうしても、俺は瞬に会わなければならないんだ」 と。 瞬の兄は、氷河の振舞いに驚いたろう。 おそらく、あっけにとられた。 今日一日、この国で最も強大な力を持っている者が、仇敵に頭を下げて、ものを頼む。 それは、瞬の兄には意想外のことだった。 無論、だからといって、氷河の願いを聞き届けることは、彼には到底できることではなかったのだがね。 「瞬の身が危険にさらされるようなことを、この俺がすると思っているのか」 彼はそう言って、氷河の依頼を拒絶した。 まあ、瞬の兄に、他の答えの持ち合わせはなかっただろう。 だが、氷河も、それで素直に引き下がるわけにはいかない。 彼は、瞬の兄を問い質した。 「なぜ 俺の家と瞬の家は これほどまでに憎み合っているんだ? 理由を教えてくれ。俺は、貴様に対しても貴様の家に対しても、どんな恨みも抱いていない。憎んでもいない。俺は、両家の反目をこそ、憎んでいる」 氷河は瞬の兄に 強い口調で そう訴えたのだが、瞬の兄の返答は驚くべきものだった。 彼は、 「反目の理由など知らん。二つの拮抗した力を持つ勢力があったら、その二つが争うのは必然のことだ」 と答えてきたのだ。 馬鹿げている――と、おそらく、氷河は思った。 思ったことを、言葉にもしただろう。 当然だな。 そして、その馬鹿げたことを甘んじて受け入れている瞬の兄の相手などしていられないと、氷河は考えた。 瞬の兄に背を向け、瞬の兄の存在を無視し、氷河はT家の館の中を 瞬の姿を求めて捜しまわり始めたんだ。 先刻 瞬の伝言を運んできてくれた行儀見習いの少女が館の中に戻っていったので、館の中に瞬がいると踏んだのだな。 氷河は、今日一日、明日の夜明けまでは、何をしても罪に問われない。 T家の者は、氷河のすることを黙って見ているしかなかった。 鍵のかかっている部屋の鍵も、求められるまま氷河に差し出すしかなかった。 中には武器庫や宝飾品を収納している部屋もあった。 「好きなものを好きなだけ持っていって構わんぞ」 と、T家の当主は氷河に言ったそうだ。 氷河が その提案を受け入れたなら、瞬の兄としては万々歳だったろう。 武器や宝石などというものは、いずれ取り戻すことができる。取り戻す方法は いくらでもある。 だが、最愛の弟の純潔や命は、一度奪われてしまったら最後、二度と元に戻すことはできないのだからな。 もちろん、恋する氷河は、瞬の兄の提案に耳も貸さなかった。 |