昼中、長い時間をかけてT家の館の内を くまなく捜したが、氷河は彼の恋人の姿を見付け出すことはできなかった。
氷河が広い館の中の探索を終えた頃には、既に日は暮れかけていた。
しかし、恋する者は諦めることを知らない。
氷河は、今度は、松明を持って館の庭に出た。

「夜が明けるまで時間がない。そろそろ逃げた方がいいのではないか。夜が明けて、貴様の権利が消えた時、貴様がまだこの館の内にいたら、不法に他家に侵入した犯罪者として、俺は即座に貴様を成敗するぞ」
そんなことを言って、瞬の兄が脅しをかけてきたが、なにしろ恋する男に分別はない。
氷河は、T家の広大な庭の四阿あずまやや番小屋はもちろん、彫像や水路まで、隠し部屋に通じる仕掛けでもあるのではないかと考えて念入りに捜した。
それでも、恋する人の姿は見付からない。
氷河の焦りは、いよいよ切実なものになっていただろうね。
彼は、どうしても是の数の力が有効な夜明け前のうちに、瞬に会わなければならなかったのだから。

ところで、広いT家の庭の北の端に、陰気な石造りの建物があった。
T家代々の父祖が眠る墓所だ。
昼間でも好んで入りたくない場所だが、氷河は躊躇せず その中に入っていこうとした。
その時だ。
瞬の兄が氷河を引き止め、
「もう時間がない。教えてやろう。瞬は この館にはいない。昨夜のうちに、カヴァルツェレの別荘に移した。貴様が 今から駆けつけても、カヴァルツェレに着くのは夜明け過ぎ。諦めるんだな」
と、勝ち誇ったような顔をして氷河に言ったのは。
そして、
「そんな無駄足を踏むより、せめて俺一人だけでもT家の者を殺してみたらどうだ。せっかく是の数を引き当てるという幸運に恵まれながら、何ひとつ得るものがなかった馬鹿者と末代まで嘲られるのは、貴様も不本意だろう」
と、氷河を挑発してきた。

彼の言うことは至極尤もなことだったが、氷河は彼の言葉を疑った。
今日という日は、瞬にとって、その人生の中で最も危険な日だ。
そんな日に、弟を溺愛している瞬の兄が 瞬を自分の目の届かないところに遠ざけるということは、氷河には考えにくかった――考えられなかったのだ。
瞬の可憐な姿は、誰の心に邪まな心を生むことになるかわからない。
瞬は、決して人の手には委ねられない宝石のようなもの。
そして、今日という特別な日、瞬の兄が、氷河への対抗措置より弟の身の安全を重視するのは 考えるまでもないことだ。
それで、氷河はピンときたわけだ。
その墓所の中に瞬がいるのだと。

氷河は、瞬の兄の忠告を無視して、陰気な墓所の中に入っていこうとした。
「これ以上、俺が瞬に会うことを邪魔するようなら、本当に貴様をぶっ殺すぞ!」
などと、物騒なことを言いながら。
氷河の焦りは、極限に達しつつあったろう。
時間は本当に残り少なかったからね。
だが、幸い、氷河はT家の父祖の永遠の眠りを妨げずに済んだ。
墓所の前の騒ぎを聞いて、中に隠れていられなくなった瞬が、庭に出てきてくれたのだ。

瞬と一緒にいるのは、瞬の義理の姉にあたるエスメラルダ姫。
こちらも清純な美貌で知られた美しい夫人で、可憐な花を2輪も我が物にしている瞬の兄を、氷河は さぞかし忌々しく思ったことだろう。
いや、そんなはずはないか。
彼の目は、彼が恋する瞬一人に釘付けだったろうからな。
氷河が恋する花のような恋人は、優しい声で氷河をたしなめた。
「氷河、僕の兄さんに そんなことしないで」
「瞬! あれほど出てくるなと言っておいたのに!」
兄に叱責されても、瞬は微笑んでいたそうだ。
「氷河は、僕にひどいことはしないよ」
そう言って。
やっと出会えた恋人を、夢うつつの思いで見詰めていた氷河は、確認するように瞬にそう言われ、はっと我にかえった。

まあ、その場面を思い描いてみたまえ。
暖かい春の宵。
庭には、針エンジュやオレンジの白い花。
その中に、松明の揺れる光を受けて、霞むように、優しい姿をした恋人が立っている。
一日中 捜し続けて、やっと出会えた恋人。
その恋人の瞳には、確かに信頼の光が宿っている。
百年の恋が永遠の恋に変わる瞬間というのは、そういう時なのではないかと私は思うね。

愛しい人の前に立ち、氷河は、
「夜明けまでには、まだ間があるな」
と震える声で言った。
夜明けまでは、誰も氷河のすることを止めることはできない。
それをいいことに、氷河は、彼の恋人の手を取り、言葉を重ねた。
「俺は、今なら、力づくで おまえを奪っても、誰にも咎められない。おまえは非の数を引き当てるという不幸に見舞われたそうだ。俺が是の数の権利を持つ者でなくても、おまえは俺に逆らえない」
脅迫じみた氷河の その言葉を、瞬は微笑して聞いていたそうだ。

「だが、俺は、おまえを愛しているから、偶然に与えられた力に驕って、おまえに無体なことはできない」
「氷河……」
「そう、伝えたかったんだ。俺の是の数の力が有効なうちに。夜が明ける前に」
「氷河の権利が消えてから そう言われたのだとしても、僕は氷河の言葉を信じたのに」
「しかし、それでは信憑性に欠けるじゃないか。負け惜しみにも聞こえる」
「そんなことない。僕は氷河の言うことを信じたよ」
「瞬……ありがとう」
そうして二人は、ひしと抱き合い――抱き合って、だが、それ以上のことはできなかっただろう。
そこには瞬の兄をはじめ、T家の者たちが20名ほど立ち会っていたそうだから。

ちなみに、このあたりのやりとりは、その20人の中の1人――瞬の又従兄に当たる男性が記録していたものの引用だ。
彼は、のちに、この日の出来事を一つの戯曲にまとめあげている。
昨今では滅多に上演されることはないし、当時も あまり上演されなかったそうだが、それは作品の出来が悪いのではなく、適当な役者を見付けることが困難だという理由によるものだったろう。
月のような美少年だの、すがしい青空のような美少年だのというのは、捜せば見付からないこともないだろうが、花のような美少年というのは なかなかいないものだ。
当時は、女性が舞台に立つことは禁じられていたので、少女に代役をさせることもできなかったからね。

「本当は、少しだけ、無体なこともしたいと、悪い考えを抱くこともしたんだが」
「夜が明けて、氷河の是の数の効力が失われ、僕が非の数の束縛から解放されてからね。僕たちは、僕たちの心だけに動かされて愛し合うんだよ」
「い……いいのかっ」
「大きな声、出さないで」

二人のいかにも親密な様子に、瞬の兄を筆頭に T家の者たちは皆、あっけにとられることになった。
彼等は知らなかったのだが、氷河と瞬の恋が始まったのは、もう6年も前。
二人は、まだ幼い子供だった頃に 神殿で会い、互いに惹かれ合い、機会を見付けては こっそり内緒で会っていたのだ。
恋心というものは、ピュラモスとティスベの例でもわかる通り、どんな狭い隙間もすり抜けて、恋する人の許に飛んでいくもの、どれほど短い時間も恋の炎を燃やすために費やすものだからね。

瞬の兄はといえば、宿敵の家の総領息子の胸の中で大人しくしている弟に唖然呆然だ。
全く立場を失ったていのT家の当主に、氷河は言った。
「俺は多くは望まない。どんな力を与えられても、その力をT家に対して用いようとは考えない。瞬が育った家が滅ぶことを、俺が望んだりするわけがない。ただ、今日の夜明け以降も、俺が瞬と自由に会うことを許してもらいたい。貴様の立場を気遣う瞬が 人前で堂々と会うことはできないと言うせいで、俺たちは これまでいつも、人目を避けて密会するしかなかったんだ」

T家の当主の立場を気遣い 遠慮していたように氷河は言うが、瞬の兄としては、『何を言うか、この泥棒猫!』と仇敵の家の総領息子を怒鳴りつけたいところだったろう。
弟の様子を見ていると、氷河の望みが瞬の望みでもあることは明白で、気の毒な瞬の兄には、氷河を怒鳴りつけることも、氷河に殴りかかっていくこともできなかったのだが。

「瞬、俺はおまえのためを思って……。いつか我が家がP家をしのぐ存在になり、おまえがこの国第一の貴公子になることを――」
瞬の兄の弁解の声には力がなかった。
彼の弟が望んでいることは、そんなことではない。
悲しいことに、T家の当主は それがわからないほど愚鈍でも鈍感でもなかったのだ。
「兄さんは、僕が二つの家の仲違いを喜ぶと思っているの? 僕は、みんなが仲良くなることしか望まないよ」
「おまえなら、そうだろう」
瞬の兄はむっとした顔になった。
弟のそんな考え方が不愉快だったというのではなく――彼は、その場で自分がどんな顔をすればいいのかがわからなかったのだろう。
瞬は、そんな兄に何も言えず、瞬の兄も、そんな弟に何も言えない。
そして、氷河が求める許しを、瞬の兄はなかなか氷河に与えてはくれなかった。






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