翌日、求婚の使いに出る瞬のために、ラーリン侯爵は、御者を一人と、3頭の馬が引くトロイカを用意してくれた。
トロイカになど乗ったことがなかった瞬は、時折 遠くに小さな家や林が見える他は 特段 目にとめるものもない イラリオノフ家の館までの道のりを、それなりに楽しむことができたのである。
普通の馬車の車輪がスキーの板状になっている その乗り物は、驚くほど揺れが少なく、スピードも速かった。
残念ながら“雪の白樺並木”はどこにもなかったが、なるほどラーリン家に釣り合っているのだろうと思えるイラリオノフ家の館の前に到着するまでの行程は、至って快適だった

面倒くさがりのくせに実務能力のあるラーリン侯爵が、事前にイラリオノフ家に連絡を入れていたのかどうかは わからなかったが、トロイカの扉に打たれているラーリン公爵家の紋章は、何より有効な通行手形だったらしい。
「ラーリン侯爵家から参りました。オリガ姫に お目通りを」
館の正面にある玄関に迎えに出てきた イラリオノフ家の執事らしき男性に そう告げると、彼はすぐに瞬を館の内に招じ入れてくれた。

さほどの時を置かずに、イラリオノフ家の主らしき壮年の男性が、
「やっと来たか!」
と、声をひそめるでもなく――大声というほどのものでもなかったが――言いながら、玄関ホールに立つラーリン家の使いの許に駆けてきた。
彼が口にした『やっと』という言葉の持つ響きによって、瞬は、ラーリン侯爵が この訪問を事前にイラリオノフ家に通知していなかったことを察することができたのである。
その噛みしめるように 感慨深い響きは、彼が待っていた時間が1日2日程度のものではなく、もっと長い期間――1年、あるいはそれ以上だったことを物語っていたから。
それだけ長い間、毎日 じりじりしながら、彼は、イラリオノフ家と釣り合いのとれたラーリン家からの申込みを待ち続けていた――ということのようだった。

息せき切って玄関ホールに駆けつけてきたイラリオノフ家の当主は、ラーリン家からの使いの姿を見て、
「変わった趣向だな」
と呟き、顔をしかめた。
それはそうだろう。
その意見には 瞬も全く同感だったので、あまり礼に適っているとは思えないイラリオノフ家の当主の呟きを、瞬は不快とは思わなかった。
むしろ、瞬は 逆に申し訳ない気持ちでいっぱいだったのである。
が、何はともあれ、瞬は、彼にとって 待ちわびていた使者だったらしい。
性別未分化の子供めいた姿を見くびられ警戒不要と思われたのか、瞬は、すぐに 小間使いが二人控えているだけの客間で、オリガ姫との面会を許されることになったのだった。


「ご用の向きは、父から聞きました。でも、ラーリン家のアルセーニ様が私を妻に望んでいるなんて、そんなのはありえないことだと、私は思うのよ。父や兄は、妥当すぎて、驚くようなことではないって言ってたけれど――むしろ遅すぎたくらいだと言っていたけど――」
瞬は、イラリオノフ家の当主に“ご用の向き”を具体的に告げた記憶がなかった。
ただ執事らしき男性に、オリガ姫への目通りを願い出ただけで。
もちろんイラリオノフ家の当主が察した(?)“ご用の向き”は間違ったものではなかったので、瞬は その点に関して突っ込みを入れようとは思わなかったのだが。
そんなことより、瞬は、言葉にしなくても察してもらえるほど“妥当”で“遅すぎたくらい”の この申込みを、当のオリガ姫が なぜ『ありえないこと』と考えているのか、そちらの方が気になった。

「どうして それをありえないことだと お思いになるんですか」
「それは、だって――」
オリガ姫は、あとに続く言葉を口にしなかった。
代わりに、しばしの間、瞬の表情を 探るような目で見詰め、やがてゆっくりと力なく首を横に振った。
「父や兄の言う通り、これは あまりに妥当で驚くようなことではないのかもしれないわね。アルセーニ様が ご自分でいらっしゃらないということは、この結びつきに対するアルセーニ様の熱意は その程度のものということなのでしょう。とても妥当な振舞いだわ」
「え……」

困ったことに、オリガ姫は かなり勘のいい姫らしい。
そして、彼女は、ラーリン家の当主とイラリオノフ家の令嬢による“妥当な結婚”に、少なからず反発心を抱いているらしい。
その推察は、瞬に課せられた任務の遂行という点から見れば あまり喜ばしいことではなかったのだが、そんなオリガ姫に、瞬はむしろ好意を抱いたのである。
人生における この重大事を、妥当なことだから 妥当に受け入れるような姫より、妥当すぎることに反発心を抱いている姫の方に、21世紀に生きる瞬は より人間らしさを感じることができたから。

イラリオノフ家のオリガ姫は、自身を 実際より美しく見せることより 動きやすさを重視したデザインの さっぱりしたドレスを身に着けていた。
宝石といえば、胸元のエメラルドだけ。
それは かなりの大きさを有したものだったが、オリガ姫の装いは、ラーリン家と釣り合うほどの財力を持つ有力貴族の家の令嬢としては、質素といっていいほどのものだった。
そういうところは、虚飾と欺瞞に満ちた宮廷の空気を毛嫌いしていたラーリン侯爵好みなのではないかと、瞬は思った。
歳は瞬より少し上。18、19というところだろうか。
目をみはるほど美しいわけではないが、印象は決して悪くない。
絶対に愚鈍ではなく、むしろ理知的な瞳の輝き。
まっすぐで素直な眼差しには、人を惹きつける ある種の魅力が 確かにあった。

「ところで、あなたは、どういう事情で アルセーニ様のお使いを務めることになったの? 求婚の使いに、こんな若い――」
言いかけてから、オリガ姫は 僅かに首をかしげた。
おそらく、瞬に出会った大抵の人間がそうであるように、瞬の性別に確信を持てなかったのだろう。
性別だけでなく、年齢も 判じかねたのかもしれなかった。

「僕は、侯爵――アルセーニの遠い親戚なんです。アルセーニがなぜそう思ったのかは 僕にはわかりかねますが、僕が恋の使いにふさわしいから、この役目を僕に任せることにしたと、彼は言っていました」
「恋の使い? アルセーニ様が私に恋なんかしているわけがないでしょう。アルセーニ様も、私の父や兄同様、ラーリン家とイラリオノフ家の結びつきを妥当だと思っているだけ。恋なんて――」
それまで 比較的 冷静な態度で瞬に対峙していたオリガ姫が、突然 その口調を苛立たしげなものに変える。
どうやら、瞬が自分を“求婚の使い”ではなく“恋の使い”と言ったことが、彼女の気に障ったようだった。

「恋なんて?」
いよいよ人間的な――自分の心を隠し取り繕うことができないらしいオリガ姫に、なぜか わくわくしながら、瞬は彼女に反問した。
瞬のイメージする大貴族の姫君とは全く異なる様相で、オリガ姫が 瞬の反問に答えてくる。
「どんな田舎に住んでいたって、貴族は貴族。貴族の娘は好きな人と結婚なんかできない。恋なんか知ったら、かえって不幸になる。あんなのは、本の中にしかないものなんだと割り切って、諦めるしかないんだわ……!」
「そんなことは――」

この生き生きとした姫が、“割り切って”“諦める”ようなことがあっていいものだろうか。
そんなことはあってはならないと瞬は思い、その考えを言葉にしようとした。
その寸前で、そうすることを思いとどまったのは、瞬が、自分はこの時代の人間ではないのだということを思い出したからだった。
当然 瞬は この時代の常識やしきたりを知らず、21世紀の価値観によってしか 物事を考えられない。
から100年以上の時が流れた19世紀に発表されたトルストイの『アンナ・カレーニナ』で、当時のロシア社交界の常識を無視して恋に走ったアンナ・カレーニナは、社交界のしきたりから逸脱した恋の報いを受け、その身を破滅させている。
瞬は、オリガ姫に現代人の価値観で不用意なことを言うわけにはいかなかった。

「姫には、好きな方はいらっしゃらないんですか」
「私は、男性は 父と兄しか知らないわ。家族以外の男性と軽々しく打ち解けるようなことは、貴族の娘にあるまじきことなんですって。父は、私をラーリン家かヴィノグラードフ家に お嫁にやりたいみたい」
「ラーリン侯爵――アルセーニをどうお思いなんですか」
「どう思うも何も――会ったことがないもの」
「一度も?」
「ええ」

おそらく、それは事実なのだろう。
娘に『家族以外の男性と軽々しく打ち解けることは、貴族の娘にあるまじきこと』と躾けるような父親が、オリガ姫の自由な外出を許すはずはないし、ラーリン侯爵は、自分の妻になるかもしれない女性の品定めを、昨日出会ったばかりの見ず知らずの他人に委ねるほど 不精な変人なのだ。
会って言葉を交わしたこともない二人が、『その結びつきが妥当だから』という理由で、これからの一生を共にしようとしている。
瞬には、それは非常に不幸なことのように思われた。
同時に、不快だった。
あれほど氷河に面差しの似ている人が、そんなふうに愛のない人生を送ることは。
貴族社会の常識や しきたりを無視して貴族社会からドロップアウトし 熱烈な恋をしろとまでは言わないが――それは彼の心に任せるしかないことで、第三者にどうこう言えるようなことではないが――せめて優しい愛情のある人生を、瞬は、彼に送ってほしかった。

「あの……会ったら、きっと好きになると思います。ラ――アルセーニはとても美しくて颯爽とした男性です。健康だし、親切で、勤勉で――」
「私は、十人並みの器量しかないわ。宮廷に行ったこともないし、アルセーニ様から見たら、私は野暮ったい田舎娘でしょう。会って、お気に召してもらえなかったら……多分、だめよ」
「え……」
『会って、お気に召してもらえなかったら』――その仮定文は、もしかしたら、そのまま『会って、お気に召してもらえたら』という仮定文に換言できるものなのではないか。
オリガ姫はラーリン公爵に、燃えるような恋とまではいかなくても、ほのかな好意くらいは感じているのではないか。
オリガ姫の口調は、瞬には、見知らぬ他人を語ったものとは思えなかった。
それどころか――。

自分の推察が正しいことを確かめるために、瞬は 他意も邪気もない子供を装って、さりげなくオリガ姫に探りを入れた。
「オリガ姫は、もしかして、公爵と会ったことはなくても、見たことくらいはあるんですか? 評判を聞いたことくらいは――」
オリガ姫は、誰かに それを語りたくてたまらずにいたものらしい。
わざわざ無邪気な子供を装うようなことをしなくても、瞬は最初からオリガ姫の気持ちを知ることができていたようだった。
「アルセーニ様は、たまに、狩りの獲物を追って、うちの領地の方までいらっしゃることがあるから、遠くから お姿を見掛けたことくらいはあるわ。とても颯爽としてらして、時々、あの方の馬についていけなくなった供の者をからかって、楽しそうな笑い声をあげて――まるで太陽のような方だと――」
「……」

どうやら オリガ姫は、公爵に会ったことはなくても、憧れてはいるらしい。
それも、彼が『妥当な結婚相手だから』ではなく、『楽しそうな笑い声をあげている彼が太陽のようだから』。
全くの他人事ひとごと――他人の恋の話だというのに、その事実を知った瞬の胸は、急に どきどきと高鳴り始めたのである。
「あの……姫。姫は、アルセーニとヴィノグラードフ家のご令息だったら、どっちがいいですか? ご自分の夫として迎えるなら」
推察が確信に変わりかけている今、まわりくどい言葉で探りを入れるのはまだるっこしい。
自分でも芸がなさすぎると呆れかえるほど直截的な言葉で、瞬はオリガ姫に尋ねた。

オリガ姫の答えは、
「ヴィノグラードフ家のご令息って誰のこと? 奥様を二人も亡くした、50過ぎのおじいちゃんでも ご令息なんて言うのかしら」
というもの。
この勝負、ラーリン公爵の方に分があるのは確かな事実のようだった。






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