「ご命令通り、知らせてまいりましたが……。なぜ こんなことをなさるのです。もしかしたら、これは、アテナの聖闘士たちを ただの人間にしてしまう絶好の機会なのかもしれませんのに。記憶の女神もユニークな戦い方を思いついたもの。奴等から戦う理由の記憶を奪うというのは、確かに妙計です」 黒衣の女は、もちろん彼女だった。 今は彼女に実体を与える力も持たず、雌伏の時を耐えるばかりの彼女の主人が、腹心の部下の言葉に不機嫌そうな声(だけ)を返す。 「余は冥界を支配する神なのだぞ。今もそうだ。その余が成し得なかったことを、たかが記憶の神などに……」 「お気持ちは わからぬでもありませんが、しかし――」 「記憶を奪われても、人間は その瞬間から すぐにまた新たな記憶を培い、積み重ね始める。そして、いずれは新たな戦いの理由を手に入れる。放っておいてもな」 「ならば、放っておけばよろしいのに」 「まったくだ」 彼女の言葉に同意しながら、冥界の王は、彼の力を封じた者たちを放っておくことなど、全く考えていないようだった。 「アテナの聖闘士たちはエリシオンに辿り着くことができるでしょうか」 「さて。今の あれらは、アテナのことを忘れている、ただの聖闘士にすぎないわけだしな。だが、辿り着いてもらわねば困る。余以外の者が あれらを変えてしまうのは不愉快だ」 『まるで自分の大切な玩具を余人に奪われたくない子供のような』と、彼女は言葉にはせず思った。 今は“思い”が宙を漂っているだけの元冥府の住人たちが、言葉を形作ろうが形作るまいが 大した違いはないことはわかっていたのだが。 思いだけの存在である者の思いは、思いだけの存在である者に筒抜けなのだ。 「あの者たちがアテナのことを忘れてしまったということは――あの者たちはアテナのために戦っていたのですか? たとえば、平和を望む心や、同胞である人間を守りたいという思いのためではなく、アテナに命じられたから?」 「アテナは、あれらにとって、そういった心や望みを映し出す鏡、象徴のようなものなのだろう。我等は高見の見物としゃれこもう。余は、もちろん、あれらの勝利を信じているが」 “余の大切な玩具”は余のものなのだから、余以外の者に屈することは決して許さない――そう言っているような冥府の王が、彼の敵だった者たちに向ける信頼を、パンドラは なぜか微笑ましく思ったのだった。 |