Super Chance






聖衣を授けると言われても、俺は それを手にして 意気揚々と日本に帰るつもりはなかった。
日本に帰っても ろくなことがないとわかっていたから。

金にあかせて多くの子供の運命を狂わせた糞ジシイは、悪行の報いか 数年前に くたばってくれたそうだが、あの我儘娘は健在。
散々 俺たちを いたぶってくれたタコ野郎も、まだ城戸邸にいるらしい。
そいつらが聖衣を手に入れ聖闘士になった者たちを使って、下品な見世物興行を催す計画を立てているという話も伝わってきていた。

俺は聖闘士になったんだぞ。
我儘娘もサディスティックなタコ野郎も、指先1本で 口をきけない物体にする力を、今の俺は持っている。
その俺が、なぜ 奴等の言いなりにならなければならないんだ?
その必然性を、俺は毫も感じることができなかった。
それに、帰ったところで、6年の時を経て再会できる者と再会できない者とでは、後者の方が圧倒的に多いことがわかっていたしな。

生きているなら、会いたい人はいた。
万に一つの奇蹟が起きて、人と争うことや 人を傷付けることが嫌いな、あの気弱な目をした子供が日本に生きて帰ってきていたなら、俺は、城戸の家の奴等への積もる恨みを かなぐり捨てて、日本に飛んで帰っていただろう。
だが、そんな奇蹟が起こるはずがない。
起こりもしない奇蹟を期待しても無駄なこと。
期待することや希望を持つことの無意味――むしろ有害――を、俺は嫌になるほど知っている。

『マーマは死んでなんかいない。きっと生きている。信じられないような奇蹟が起こって、マーマはきっと俺の許に戻ってきてくれるんだ。マーマは確かに海の底に沈んでいった。だが、誰も実際に彼女の死を見た者はいない』
あの船の事故が起きた時から1年ほどの間、俺は希望を捨てなかった。
俺を守るために、北の海に沈みゆく船に残ったマーマ。
彼女はきっと生きていて、俺を迎えに来てくれる。
そう信じていたから――俺が希望を捨て切れずにいた1年の間、俺は、自分一人で生きていく術を学ぼうとはしなかった。
たった一人で築く未来に考えを及ばせることもしなかった。
空しい希望を抱いていたせいで、俺は1年という時間を無駄にした。
俺はもう、あんな無為の時は過ごしたくない。
ごく幼い頃、1年の時間をかけて、俺は学習したんだ。
奇蹟を待つことの無意味、希望を持つことの有害を。

そう、俺は希望を持つことを恐れていた。
日本に帰って、瞬の生死を知ることが恐かったんだ。
6年前、城戸邸に集められた子供たちの修行地を決める くじ引きが行なわれた日。
あの日は、俺の人生の中で最悪の一日、痛恨の一日だった。
瞬が引いたのは、デスクィーン島。
それがどんなところなのか、得意げに――残酷に――瞬に説明してのけた時の辰巳の顔を、俺は今でも はっきりと憶えている。

未だかつて誰一人 生きて帰ってきた者のない、その地獄の島に瞬の代わりに行くと言い出したのは、瞬の兄だった。
辰巳の言葉に怯える瞬と、そんな瞬を庇い守ろうとする瞬の兄を、俺は黙って見ていることしかできなかった。
俺は、一輝のように瞬を庇ってやれなかったんだ。
その時には、一輝に先に行動を起こされて、そのタイミングを逸しただけだったかもしれない。
一輝の猿真似をすることはプライドが許さないと考えてしまったからだったかもしれない。

だが、その直後、瞬が一輝の代わりに送られることになったアンドロメダ島も デスクィーン島と大差ない過酷な環境の島だということを知らされてからも、俺は瞬のために どんな行動も起こさなかった――起こせなかった。
瞬が送られることになったアンドロメダ島と、俺が行くことになっている極寒のシベリアと、どっちが瞬にとって楽な修行地なんだろうという迷いと躊躇に囚われてしまったせいで。
そうして結局、俺は、瞬に何もしてやれなかった罪悪感と、瞬のために より過酷な道を選んだ一輝への劣等感を抱えて、あの健気で悲しい兄弟と別れることになったんだ。

瞬が生きて帰ってきているのなら、あの時の勇気のなさを、俺は瞬に謝ることもできる。
だが、人と争うことが嫌いで、人を押しのけて自分が生き延びることなど考えることもできなさそうだった瞬が、生きて日本に帰ってきている可能性は無に等しい。
絶望を恐れるあまり 希望を持つことを極力避けて生きていた俺は、瞬の死の事実を知ることが恐くて――日本に帰って、知りたくない事実を知らされることを忌避していた。


おそらく――生きて帰ってきた者は少なかった。
だから、辰巳は、城戸の命令を無視する不従順な俺のところに 連絡を入れてきたんだろう。
例の下品な見世物興行を開催するのに必要な聖闘士の頭数を揃えるために。
俺がいる場所は 電話線も通っていないようなところだったから、俺はそれまで のらりくらりと 城戸の要求から逃げることができていたんだが、奴はそんな俺の許に、衛星回線で通話できる電話を送りつけてきやがった。

せめて、聖闘士になるために俺が重ねてきた辛苦に敬意を表して、礼を尽くし、直接迎えに来るくらいのことをしてみせてもいいだろうに、奴は そういう殊勝さを持ち合わせていなかったらしい。
6年前と少しも変わらぬ高飛車な口調で、奴は、さっさと日本に帰ってこいと、俺を怒鳴りつけてきた。

奴の態度の不愉快はともかく、電話は、手紙や伝言とは違う双方向性を持つコミュニケーションツールだ。
俺は、覚悟を決めることを余儀なくされ、実際に覚悟を決めたんだ。
聞かなければなるまいと思った。
いつまでも現実から逃げていられないことは わかっていたから。

「瞬と一輝は帰ってきているのか。……生きて」
辰巳に そう尋ねた時、おそらく俺の声は震えていただろう。
だから辰巳は 自分の通話相手の持つ力を恐れる様子もなく、あの耳障りな胴間声で偉そうに わめきたてやがったんだ。
「生きて帰ってこれるわけがないだろう。もっと楽な場所に送られたガキ共でも9割以上が脱落しているのに」

自分がどれほど残酷なことを言っているのか、辰巳は全く自覚していないようだった。
その“9割以上の子供”の死に、自分が責任を負っているなんてことは、奴は少しも考えていない。
「気候温暖な日本から、極寒灼熱地獄の絶海の孤島に送られたんだ。体温調整機能の未熟な子供は、修行以前に気候にやられる。おまえが聖闘士になれたことだって、俺は奇蹟だと思っているんだ。おまえ以外で聖衣を持ち帰ることができたのは、ギリシャ、中国、カナダ、アルジェリア、フィンランド、皆 温帯か、そうでなければ それなりの文明国に送られた奴ばかりだ。気候が厳しい上に、文明の利器もない場所で、身体もできていないガキが生き延びられるわけがない」

「そうか……」
そんなことだろうと、察してはいた。
期待はするまい、希望は持つまいと、俺は自分に言いきかせ続けていた。
だが、実際に瞬が生きて帰ってきていないという事実を知らされると、俺はやはり大きな衝撃を受けずにはいられなかった。
希望など抱いていないつもりで――それでも、俺は、心のどこかで奇蹟が起こることを期待していたものらしい。

だが、希望は完全に打ち砕かれた。
俺はもう瞬に、あの時の勇気のなさを謝ることもできない。
あの時からずっと忘れられずにいた後悔を消し去ることは、多分 一生できないんだ。

「死んだ奴のことなんかより、貴様はいつ日本に帰国するんだ!」
後悔などという言葉すら知らぬげな辰巳の声の調子が、俺の神経を逆撫でする。
奴の声は、俺を支配していた落胆と失望を、一瞬で憤怒に変えてくれた。
「俺の聖衣は、第四紀洪積世から融けたことの無い永久氷壁の中にあるそうだ。まあ、夏まで待ってみるさ。それで融けなかったら、来年の夏。来年も駄目だったら、再来年だな」
「おいこら! 貴様、なに ふざけたことを言っているんだ!」

ふざけているのはどっちだ !?
瞬の命を――瞬だけじゃない、何十人もの子供の命を奪う悪行の片棒を担いでおいて、その命を悼む様子の一つも見せず、生き延びた者たちを利用することだけを平気で考えていられる貴様は、ふざけずに真面目に自分の人生を生きていると言えるのか !?
決して過去を振り返らない その前向きな性質は羨ましいと思わないでもないが、そんな性質は全く尊敬できない。
俺は、尊敬できない男に送りつけられた電話機を、そろそろ勢いを失いかけていた暖炉の火の中に放り込んだ。

そして、俺は、この北の果ての地でマーマと瞬の命と魂を弔いながら、己れの死の時を待つことを決意したんだ。
希望のすべてを失ったのに、即座に死ぬことを考えなかったのは、俺が自殺を重罪と考えるクリスチャンの はしくれだったからなのか、それとも、この世に未練があったからなのか。
いや、多分、そのどちらでもない。
人間なんて、放っておいても いずれは死ぬ運命なのだから、死ぬために わざわざ自分から行動を起こすのは面倒だと、俺は思ったんだ。
自分の勇気のなさが招いた“瞬の死”という事実に打ちのめされて、俺は自分の中に死ぬための気力を生むこともできなかった。






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