あんなに強く抱きしめていたのに、空からオーロラの光が消える頃には、瞬自身がオーロラが見せた幻だったかのように、俺の腕の中から消えてしまっていた。 俺の夢の世界に住んでいる瞬なのか、それとも あれはやはり死んでしまった瞬の幽霊だったのか。 あんなに側にいて、実際に触れることさえしたのに、俺には あの瞬がどういうものだったのかが わからなかった。 だが、普通の生きている人間でないことだけは、悲しいかな 疑いようのない事実だ。 普通の人間なら、この季節のシベリアで、しかも夜、外であんな長話なんかしていられない。 その上、瞬は かなりの軽装だった。 俺でさえ――聖闘士になる前の俺だったら、昨夜の気温では、1時間とかからずに凍え死んでいただろう。 本当にあれはオーロラが見せた幻だったんじゃないかと、俺は思い始めていたんだ。 翌日、今度は日中、陽光の下に瞬が再び姿を現わすまで。 明るい光があふれている場所で見る瞬は、一段と――そういう言い方をしていいものかどうか迷うところだが――可愛かった。 幼い頃の面影は確かに明瞭に残っていたが、幼い頃より 頼りない印象が薄れ、その分、弱さとか迷いとかの雑多な不純物が こそげ落とされて浄化したような――とにかく、その瞳の澄み方が尋常じゃなかった。 人間の目なんてものは、年を経るに従って 濁り汚れていくのが普通だろうに、瞬の瞳は幼い頃より透き通っているようで――これは やはり 死んだことによって種々の欲や雑念から解放されたせいなんだろうと、俺は思った。 「来てくれたのか? やはり、恨みが募っていて成仏できないから?」 瞬に そう尋ねた時、瞬の答えを聞く前から、俺は瞬の答えを知っていた。 こんなに綺麗な目をした瞬が、その心の中に恨みなんか残しているはずがない。 もし そんなものがあったとしても、おそらく瞬は、それらの この瞬に、俺の罪を責めてもらうことは不可能だろう。 その事実を喜べばいいのか悲しめばいいのかを迷っている俺に、瞬は 俺の予想通りの答えを返してきた。 「そうじゃないよ。氷河はちっとも悪くないのに、僕のせいで苦しんでるみたいで、だから……」 「何でもいい。おまえに会えるなら、夢でも幽霊でも」 迷ったあげく、結局 俺は喜ぶことにした。 迷っていたのは どうせ、俺の超自我というやつ――社会のルールや体面を気にする部分――で、俺の心と感情は、再び瞬に会えたことを、とっくに喜んでしまっていたから。 その心のままに、瞬を抱きしめる。 「会って謝りたかった。いや、ただ会いたかったんだ」 言い訳じみたことを言うのをやめて正直になると、俺の心は少し軽くなった。 そう。 俺は もう一度、俺の大好きな瞬に会いたかっただけなんだ。 謝りたかったんじゃない。会って好きだと言いたかった。 許されたいんじゃない。瞬を抱きしめる俺を、瞬に抱きしめ返してほしかった。 俺は――俺がガキだった頃に抱いた ささやかな望みを叶えたかっただけなんだ。 それが どうなれば叶ったことになるのか、具体的に考えたことはなかったが。 「おまえ、綺麗になったな」 本当に綺麗になった。 人間としての造形が綺麗になったのもあるが、その印象も。 それが生物学上の成長によるものなのか、死という変化によるものなのかは わからない。 だが、俺はそんなことはどうでもよかった。 幽霊だろうと、夢の世界の住人だろうと、俺が欲しいのは、今 俺の腕の中に瞬がいてくれることだったから。 「あの……氷河」 「神が みじめな俺を哀れんで、俺をおまえに会わせてくれたのか? 夢より幽霊の方がいいな。夢は 俺が勝手に作りだす幻想にすぎないが、幽霊なら、ここにおまえの意思があるはずだから」 「じゃあ、僕は幽霊だよ。氷河がその方がいいのなら」 「俺が勝手に作った夢じゃないのに、俺に抱きしめられても、おまえは文句を言わないのか」 「言わないよ」 それは、おまえが俺に同情しているから? おまえが優しいから? それとも、俺を拒むことで俺を傷付けたくないからなんだろうか。 瞬の本当の気持ちは俺には量りようもなかったが、ただ瞬が俺の腕の中で大人しくしているのは、瞬が 俺と同じ“好き”という感情に支配されているからではないのだと、それだけは俺にも わかっていた。 実際、瞬は、俺の胸の中で、俺に強く抱きしめられながら、 「でも、あの、氷河、僕、男だよ?」 と、戸惑ったような声で俺に訊いてきたんだから。 「知ってる。ガキの頃は一緒に風呂に入ってたじゃないか」 「だったら……氷河の『好き』って、どういう好きなの」 瞬が不思議そうに尋ねてくる。 瞬は本当に、それがどんな『好き』なのか わかっていないようだった。 瞬は、俺が知っている中で いちばん可愛くて、素直で優しい人間だ。 俺は、瞬以上に可愛くて優しい人間に会ったことがない。 日本でも、シベリアでも。 自分の人生で出会った最も可愛らしくて優しいと思う人に恋をする。 それは不思議なことでも何でもないと思うんだが、瞬は小さな頃から自分の美点に無頓着――というか、自覚がなかったからな。 どうすれば、俺の『好き』の内容を瞬に正しく理解してもらえるのか。 その方法を考えて――いや、俺は ろくに考えもしなかった。 ただ 自分の中にある『瞬が好きだ』という気持ちに 素直に率直に従って行動を起こしただけで。 つまり、俺は、瞬を抱きしめていた腕の力を少し緩め、俺の真意を知ろうとして俺の顔を見上げ覗き込んできた瞬の唇に、俺の唇を重ねたんだ。 「こういう“好き”だ」 いくら瞬でも これで わからないはずがないと、ある意味 軽い気持ちで告げた俺の前で、瞬が(幽霊の瞬が)その頬を真っ赤に染める。 それから瞬は、幽霊とは思えない力で――それとも、人間という生き物は死ぬと腕力が増すのか?――俺の胸を両手で突き飛ばし、そのまま身体の向きを変えることなく、一瞬で2、3メートルほど後方に飛びすさった。 「瞬!」 聖闘士かと思うほどの その素早さ、その身軽さ。 いや、人と争うことのできない瞬が聖闘士になれたはずはないから、それは 生きている肉体を失った幽霊ならではの力なんだろう。 ともかく、俺の手の届かない場所に一瞬で移動した瞬は、そのまま踵を返して、今度こそ本当に俺の手の届かないところに逃げていこうとしていた。多分。 本音を言えば、俺には、瞬に逃げ出されるような ひどいことを自分がしたという意識はなかったんだ。 何年間もずっと気に掛けていた瞬。 どんな人に出会っても、俺のいちばんであり続けた瞬。 その瞬に再会して――たとえ幽霊になってしまっていたにしても、再会できて――俺は、このチャンスを逃すまいと考え、俺の正直な心を瞬に告げただけだった。 瞬が既に死んでしまった人間だということが、俺を少し無責任にしたところはあったかもしれないし、自分が瞬に 必ずまた会えるとは限らないのだという危機感のせいで、俺が焦慮に似た感情を抱いていたのも事実だ。 しかし、それは俺の正直で真面目な気持ちで、決して嘘じゃなかった。悪ふざけでもなかった。 好きだと告げてキスすることは、それほど悪逆無道な振舞いか? マーマはいつも俺にそうしてくれていたぞ。 キスは唇じゃなく頬にだったが。 そんなふうに、瞬に弁明したいことや説明したいことは いくらでもあったんだ。 だが、悠長にそんなことをしている時間は 俺には与えられていなかったし、そういう状況下で大事なことは、俺の考えじゃなく、瞬が俺の言動をどう感じたのかということの方だろう。 俺は、瞬に嫌われたくなかった。 二度と会えなくなるのも嫌だった。 となれば、この場は俺が折れるしかない。 仕方がないだろう。 俺は瞬が好きなんだから。 そして、瞬は――瞬はおそらく、俺が瞬を好きなようには 俺を好きでいてくれないんだから。 「瞬、怒ったのか !? なら、謝る。二度とこんなことはしないから、また来てくれ。おまえが来てくれないと、俺は――俺は、多分死ぬ……!」 俺は、俺に背を向けて駆け出した瞬の後ろ姿に向かって、情けない声を張りあげた。 情けない上に、それは卑怯な言葉でもあったろう。 『言うことをきいてくれないなら、死んでやる』なんて、子供がよくやる脅迫だ。 だが、俺は、そんな卑劣な脅迫をしたつもりはなかった。 俺は本当に死ぬつもりだったから。 たとえ幽霊でも、瞬に再び会うことが叶わなかったら、俺は本当に死ぬしかないと思っていた。 マーマを失い、その上 瞬まで失ってしまったら、それは俺にとってのすべての希望が失われたも同然のことだ。 そんな世界で生きていたって仕様がないじゃないか。 幽霊の瞬に会うまでは、俺には まだ 生きている瞬に再会できる希望があった。 だから、死ぬことはできなかった。 クリスチャンだから死ねないなんて理屈は、実は全く関係がない。 そもそも自殺が 人間の命を司る神の権限を犯すものだなんて考えは、イエスの死から1200年以上の時間が過ぎてから トマス・アクィナスが言い出したこと。 神は そんなこと考えてもいなかったに違いないんだ。 瞬の死が確定し、俺の希望はなくなった。 瞬がもし二度と俺に会いにきてくれないというのなら、俺が生き続けることには何の意味もない。 生きていることに意味のない人間が採る道はただ一つだ。 そんなことを考えながら、俺は、そんなことを考えている自分を自嘲していた。 俺の死は、俺の生と同じくらい無意味なものだ。 マーマや瞬と同じように死んだものになったところで、俺が死後に行く世界は、善良で優しかった二人とは違う場所だということはわかりきっているんだから。 だから、俺が自分の死を考えるのは、俺が楽になりたいからだった。 ただそれだけのことなんだ。 たとえ死んでも、俺の願いは叶わない。 たとえ死んでも、俺は俺の希望を取り戻すことはできない。 それが、大切な人を二人まで 自分のせいで死なせてしまった俺の生と死ということなんだ。 |