それを幸運といっていいのか、あるいは それはやはり不吉なことなのか。
二人の仲間に散々馬鹿にされ(馬鹿にされたと思い込み)怒髪天を衝いていた瞬が、1日も経たぬうちに その怒りを忘れることになったのは、翌日 またしても出現した からの香水瓶のせいだった。
その小瓶は、昨夜同様、瞬が気付かぬうちに、瞬の部屋の窓の桟に ひっそりと、だが実に堂々と置かれていたのだという。

「続けて無意味な侵入を企てる人もいないだろうとは思ったんだけど、万一のこともあるから、僕、夕べは、ベッドに入ってから1時間ごとに起きて、部屋の中に何か変わったところはないか確認してたの。窓とドアの周囲は特に注意してたよ。4時までは確かになかった。5時に起きたら、いつのまにか 置かれてたんだ」
「また、からの香水瓶か? 前日のものと同じものか?」
昨日、賢明な沈黙を守って瞬の機嫌を損ねずに済んだ ただ一人の男が瞬に尋ね、彼に尋ねられた瞬が不安顔で頷く。

「うん。からっぽの香水瓶。瓶は昨日のとは違ってたけど……。最初のは青い瓶だったんだ。今朝のは赤い瓶だったよ」
「最初は真夜中、2本目は明け方か。置かれた時間は遅くなっている――というか、早くなっているようだな。2本目は朝方に置かれたと考えるのが妥当だ」
「んな、置かれた時間なんかどうだっていいことだろ。重要なのは、誰が瞬の寝込みを襲ったのかってことだ。で、瞬?」
星矢は、昨日の自分の言動が 瞬を おかんむり状態にしたことに、全く懲りていないようだった。
窺うような目で仲間に確認を入れてくる星矢に、
「どこも痛くなんかありません!」
瞬が怒声で答える。
途端に星矢は、あからさまに詰まらなそうな顔になった。

「ちぇ。でも、瞬のケツが痛くないってんなら、犯人は やっぱり氷河じゃないってことかー」
「……」
犯人が氷河でないなら、この事件に興味も関心もないと言わんばかりの態度で、ソファの背もたれに身体を預けてしまった星矢に、瞬は――そして、星矢よりは懲りることを知っている氷河も――しばし 口をきく気力を失ってしまったのである。
たとえ瞬の身体のどこにも痛みがなかったとしても、一度だけなら ともかく二度までも、この城戸邸とアンドロメダ座の聖闘士が 正体不明の何者かに侵入と接近を許してしまったということは、十分に異常事態で非常事態である。
その異常と非常より、あくまでも 仲間の身を気にかける星矢の優しさが(?)様々な意味で、氷河と瞬の気力を殺いだ。

そんな瞬が、少しばかり気力を取り戻すことができたのは、
「城戸邸のメイドの中に、不審人物を目撃した者はいないのか」
という、至極まともで常識的な紫龍の問いかけのおかげだったろう。
「まだ確認はしてないけど、最初の時は誰も知らないって言ってたから、今度もきっと同じだと思う」
「そうか……。だが、おそらく そうだろうな」
「うん……」
「……」
「……」

それにしても、世の中は奇妙なものである。
まともで常識的な視点に立った者たちだけでは討議は弾まず、また一向に進展もしないのだ。
まともで常識的な紫龍と瞬のやりとりは すぐに暗礁に乗り上げ、彼等は結局、討議を進展させるために、突飛で非常識な星矢の思いつきを待たなければならなくなった。

「なあ、でもさ。瞬が敵の侵入に気付かないってのが、そもそも おかしな話だろ。普通なら ありえないことだ。犯人は、特殊な力を持つ聖闘士なんじゃないのか。サガやカノンみたいに他人の精神操ったり混乱させたりできる技を使える奴。それなら、犯人の姿を見ちまった瞬から、その記憶を消しちまうこともできるじゃん」
「それは可能かもしれん――が、何のために」
「奴等が瞬のケツ狙ってるって話は聞いたことねーなー」
何を言っても結局 そこに帰着する星矢に、氷河が こめかみを ひくつかせる。
瞬も、この展開には そろそろ本気で疲れを感じ始めていた。

「ならさ、聖域関係者じゃなく、敵方はどうだ? ソレントの笛は肉体よりも精神を攻撃する技だったし、オルフェの竪琴は相手を ぐーすか眠らせちまうことができたぞ。だったら、対峙する人間の記憶を操作できる技を使える奴だっているかもしれないぜ」
「では、やはり 新たな敵の宣戦布告か」
という、一見まともそうなやりとりも、星矢は、最後には、
「瞬のケツが痛くないのなら、そうかもしれねーなー」
というところに話を持っていってしまうのだ。

ここが皆が集うラウンジでなく自室だったなら、瞬は星矢のせいで生じる疲労のためにベッドに身を投げ出し、顔を枕に突っ伏して泣き出してしまっていたかもしれない。
自室でなくても――人目のあるラウンジでも――仲間の身を気遣う星矢の優しさに感極まった瞬は、 いっそ本当に そうしてしまおうかと思ったのである。
瞬が仲間たちの前で そうせずに済んだのは、
「だとしたら、この件は 沙織さんの耳に入れておいた方がいいかもしれん」
という、極めて まともで常識的な紫龍の一言のせいだった。

「だめっ! そんな、たかが からっぽの香水瓶のことで、沙織さんを煩わせるなんて!」
紫龍の 極めて まともで常識的な提案に、瞬はすぐさま大反対した。
「なんでだよ。知らせておくくらい――」
急に元気になった瞬を訝って、星矢が瞬を問いただしてくる。
瞬は、そんな星矢を険しい目つきで睨みつけた。
「星矢が余計なこと言いそうで嫌なの!」
「余計なことって何だよ」
「余計なことは余計なことだよ!」

それを声に出して言うことは ためらわれる。
瞬が自分では口にできずにいることを 瞬の代わりに言葉にし、星矢の暴走を牽制したのは、瞬以上に 星矢の優しさを快く思っていなかった某白鳥座の聖闘士だった。
「瞬の尻が痛くないというようなことだ!」
瞬のために、半ば以上 星矢を咎める口調で氷河は言ったのだが、それはむしろ瞬の逆鱗に触れることになってしまったらしい。

「氷河のばかっ!」
結局、氷河は、昨日同様、瞬の機嫌を損ね、その日一日、瞬にそっぽを向かれ続けることになったのだった。






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