それを幸運といっていいのか、あるいは やはり不運なのか。 二人の仲間に散々馬鹿にされ(馬鹿にされたと思い込み)怒髪天を衝いていた瞬が、1日も経たぬうちに その怒りを忘れることになったのは、翌日 またしても出現した からの香水瓶のせいだった。 3本目の香水瓶が出現したのは、しかし、今度は瞬の部屋ではなかった。 問題の香水瓶は、今度は日中、いつ誰が入ってくるかわからない城戸邸ラウンジのセンターテーブルに、忽然と その姿を現わしたのである。 コバルトブルーの、高さ10センチほどの香水瓶。 最初に、その香水瓶に気付いたのは、先々日から瞬の身を気遣い続けていた某天馬座の聖闘士だった。 「何だ、これ」 「もしかして、これが噂の――」 ほんの2時間前、アテナの聖闘士たちが午後のトレーニングをするためにジムに向かった時、その瓶は そこにはなかった。 アテナの聖闘士たちは4人が4人共、その事実を知っていた。 もちろん彼等は、2時間以上、ここにいなかったのだし、城戸邸の者なら誰でも自由に この部屋に入ることはできる。 しかし、昨日、昨々日の流れを鑑みると、この場所に3本目の香水瓶を置いた者が城戸邸の住人である可能性は ごく僅少。 それは 非常に考えにくいことだった。 「いったい何者のしわざなんだ……!」 その何者かのせいで、2日続けて瞬の機嫌を損ねてしまった氷河が、苛立たしげに 青い香水瓶を手に取る。 いっそ叩き割ってやろうかという氷河の苛立ちを消してしまったのは、その瓶に記された文字――香水の名前だった。 「Je Reviens ……」 「なに? 何か書いてあんのか」 「ジュルヴィアン。フランス語だ。『私は戻ってくる』」 「私は戻ってくる? 犯人はターミネーターかよ。 I’ll be back !」 「聞いたことのない名前だな。女性用の香水には あまり詳しくないが……」 「香水の名前なんか知らねーけど、んなことより、なんか この香水瓶、古臭くないか? 今時のセンスじゃないっていうか、アンティークぼいっていうか」 言われてみれば、星矢の指摘通りだった。 デザインのセンスが悪いわけではない。 しかし、確かに、それは、今時の会社が採用するようなデザインではなかった。 紫龍同様、女性向けの香水に造詣が深いわけではなかったが、それくらいのことは氷河にも見てとれた。 「Worth ――ウォルト社……。聞いたことがないな。メンズは扱っていない会社なのか。紫龍、おまえ、聞いたことがあるか」 「ないな。メンズを扱っていないというより、既に存在しない会社の製品と考えるのが妥当ではないか? このデザインは、どう見ても半世紀以上前のセンスだ」 それが古いものだということは感じ取れても、ファッション関係のブランドはユニクロしか知らない星矢が、真面目な顔で香水の発売元を論じている仲間たちに顔をしかめる。 今 問題なのは、香水の発売元などではなく、女物の からの香水瓶が、真っ昼間、部外者は入り込むことのできないはずの場所に突如 出現したということなのだ。 「その香水が どこで作られて誰が売ってるかなんて、どうでもいいことだろ。問題なのは、それを売ってる奴じゃなく買った奴の方なんだから。そんなことよりさ、真っ昼間に、誰が来るかわからない場所に、誰にも見付からずに こんなもの置いとくなんて、ほぼ不可能なことだろ。となれば、今度こそ誰かが犯人の姿を見てるんじゃないか?」 「メイドさんたちには聞いてみるけど……」 そう告げる瞬の声は、いかにも心許なげだった。 邸内にいてはならない者の姿を見た者がいたのなら、わざわざ聞いてまわらなくても、目撃者から瞬たちに報告があるはずなのである。 城戸邸の主である沙織が聖域に出掛けて この家に滞在していない今、この家の主人格――使用人でない者――は、瞬たち4人だけなのだから。 「明日には、沙織さんが聖域から戻ってくるはずだから、相談してみよう。というか、やはり これは報告しておいた方がいいことのような気がするぞ」 「うん、そうだね……」 邸内に からの香水瓶を置いてまわっている犯人に たとえ悪意はないのだとしても、彼(彼女)は、城戸邸の厳重なセキュリティシステムをかいくぐって、この犯行(?)を続けていることになる。 これはやはり沙織に知らせずにおいていいことではないと告げる紫龍の言葉に、瞬が頷きかけた時、 「あーっ、そういうことかーっ!」 星矢が突然 室内に素頓狂な叫び声を響かせたせいで、瞬はその行為を中断させられてしまったのだった。 「なんだ、急に大声をあげて」 木霊が残るほどの星矢の大音声に、紫龍が眉間に皺を作って眉根を寄せる。 紫龍の眉の具合いなど気に掛けた様子もなく、星矢は、彼が大声をあげるに至った理由を 気負い込んで語り始めた。 「あのさ、犯人は沙織さんなんじゃねーか? 『私は戻ってくる』ってのは、沙織さんの脅しを兼ねた事前通告でさ。つまり、これは、沙織さんがいなくても、清廉潔白で規則正しい生活をしてろっていう、アテナの教育的指導なんだよ。沙織さんなら やりそうじゃん、そういうこと」 「それは――確かに沙織さんなら、人に命じて、香水瓶をあちこちに置かせることも、この家のセキュリティシステムをかいくぐることもできるだろうが……。ああ、確かに、沙織さんなら、メイドに口止めすることもできるな」 「だろ! 瞬のケツが痛くないことも、それで説明つくしさ!」 確かに、それで すべての説明はつく。 この屋敷の主人にして女神でもある彼女になら、この一連の犯行(?)を成し遂げることは至極 容易なことだろう。 否、他に実体を持たない幽霊の真犯人がいるのでもない限り、この一連の犯行を成し遂げることのできる人物は彼女しかいない。 その点に関しては、異議も異存もない。 しかし、星矢の仲間たちは、星矢が導き出した結論を、どんな疑いも抱かずに受け入れることはできなかったのである。 確かに彼女は一連の犯行を実行できる。 だが、星矢の推理は、何といっても その動機に説得力が全くなかったのだ。 「それはありえないことではないが、しかし、沙織さんが規則正しい生活をさせるために釘を刺すなら、その相手は瞬ではなく おまえになると思うが。瞬は、おまえと違って、沙織さんが不在だからといって 廊下を走ったり、夜更かしをしたり、暴飲暴食をしたりはしない」 「そりゃ、沙織さんは、刺さなくてもいい釘を瞬に刺したりなんかしないさ。沙織さんの脅しのターゲットは、瞬じゃなく氷河なんだよ。女神の留守をいいことに、瞬に よからぬ真似はするなって」 星矢は自分の推理に自信満々である。 その勢いに流されたわけではないだろうが、星矢の推理には確かに一理があると、まもなく 紫龍も認めることになったようだった。 「動機がそれだというのなら、確かに沙織さんは やりかねない。なにしろ あの人は、何でも面白がる人だから」 「沙織さんに釘など刺されなくても、俺はそんなことはしない!」 星矢が提唱し、紫龍が賛同の意を示した その推理に、氷河はもちろん 即座に異議を唱えた。 仲間たちに からかい半分で瞬への恋を――恋の多難と進展のなさを――おちょくられるだけなら、まだ我慢もできる。 だが、よりにもよってアテナが――アテナの聖闘士にとって至高の存在であるアテナが――そんな意図をもって彼女の聖闘士に釘を刺してきたのだという考えは、氷河には到底 受け入れられることではなかった。 それは、つまり、彼女が彼女の聖闘士の理性と自制心を信じていないということになるのだ。 が、星矢は すっかり、 星矢が大らかに笑って 氷河の憤慨を受け流してのける。 「瞬の同意を取りつけずに んなことしたら、おまえは返り討ちに合うこと必至だもんな。沙織さんも、それはわかってるさ。だから、ジョークなんだよ、ジョーク。沙織さんは、道ならぬ恋に苦しんでるおまえを からかって遊んでるだけ」 「……」 それが女神であろうと、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間であろうと、真面目な恋心を からかいの種にされることは、氷河は大いに不本意だった。 だが、同時に、それは、氷河の心を安んじさせることでもあったのである。 星矢が主張する『犯人=女神説』は、その目的が何であれ、瞬をターゲットにして何かをしようとしている不審人物は存在しないということだったから。 星矢たちに言いたいことは多々あった。 しかし、最後には氷河は、それらの言葉のすべてを喉の奥に押しやり、 「沙織さんのいたずらだったのか。よかった……」 と呟くことになったのである。 「よかったな。得体の知れない恋敵の出現ではなかったようだ」 「ああ。あ、いや、もちろん、どんな恋敵が出現しようと、俺は決して負けないが」 紫龍の激励に(?)、氷河が、彼にしては素直すぎるほど素直に頷く。 そんな仲間たちのやりとりに素直でいられなくなったのは、今度は氷河ではなく、氷河に恋されている(ことになっている)瞬その人だった。 「冗談はいい加減にしてください! ほんとに、みんな、なに考えてるの! 氷河の恋敵なんて、そんな人、いるはずないでしょう! 馬鹿馬鹿しい!」 男子である氷河が、男子である自分を恋愛対象として見ている。 そんな事態を、普通に容認している仲間たちが、瞬には理解できなかった。 その上、そんな氷河に恋敵がいるなど、根拠のない妄想にしても、荒唐無稽、前衛的、革新的に過ぎる。 常識的、後衛的、保守的な瞬には、仲間たちが 事もなげに言うジョークを平然と笑って受け流すことはできなかった。 というより、瞬は、彼等のジョークを笑って受け流せてしまってはならないと思っていたのである。 「馬鹿馬鹿しいって、そう思うのは おまえの勝手だけどさ。でも、氷河がこんだけ おまえに惚れてるんだから、他におまえに惚れてる奴がいないとは限らないだろ」 「氷河のそれだって、錯覚です! 単なる気の迷い! 僕は男なんだから!」 「おまえ、今時、そんな考え、時代遅れが過ぎるって」 「星矢の言う通りだ。そういう考えに固執していると、へたをすると差別主義者として見られるようになる。気をつけた方がいい」 「さ……差別するつもりなんて ないよ! 僕はただ、氷河が僕を好きだなんて、そんなの変だって言ってるだけで……」 氷河の恋という問題に限れば、瞬は城戸邸や聖域において、いつも四面楚歌だった。 瞬が変だと思うことを、瞬の周囲の人間たちは、至って気軽に容認し、無責任に思えるほど陽気に その恋の成就を期待しているのだ。 「変だよ……そんなの……」 反駁の言葉が涙声になる。 そんな瞬に、氷河は、 「……そうだな。俺は変なんだろう、多分」 と言ってやることしかできなかった。 瞬の願いはどんなことでも叶えてやりたいと思うし、瞬には いつも笑っていてほしいと思う。 だが、いくら瞬のためだと言いきかせても、氷河は自分の中にある瞬への思いを消し去ることだけはできなかったのだ。 「ま、強く生きろよ、氷河」 「うむ。どうこう言って、瞬がおまえを意識しているのは確実だからな。おまえはアテナの聖闘士なんだ。こんなことくらいで諦めるんじゃないぞ。諦めたら、そこで試合終了だと、某安西先生も言っていた」 本気なのか、ふざけて面白がっているにすぎないのか、その判断は さておくとして、氷河の仲間たちは、この件に関してだけは いつも氷河の味方だった。 多難な恋をしている仲間を激励してくれる星矢と紫龍に、氷河は少々空虚な笑みを返すことになったのである。 |