翌日、4本目の香水瓶を見付けたのは、またしても瞬だった。
それは、城戸邸のエントランスホールの正面奥、瞬が毎日 花を活け変えている花瓶の陰に ひっそりと置かれていた。
沙織のしわざと知らされていた瞬は、今度は さほどの驚きもなく、無色透明の その小瓶を、仲間たちの許に持っていったのである。

「 Vers Toi ――ヴェル トワ。『君の許へ』」
氷河が読み上げた香水の銘に、星矢が薄く笑いながら両の肩をすくめる。
謎が解けてしまった今、アテナの聖闘士にとって、それは もはや気にとめるようなことではなくなっていた。

「沙織さんも念が入ってるなー。何も帰ってくる当日にまで、こんなことしなくてもいいのに」
「だが、からの香水瓶連続出現事件も、これが最後だろう。沙織さんは今日のうちに日本に帰ってくるはずだ」
「もう帰ってきてるわよ。からの香水瓶連続出現事件って、何のこと?」
「おわっ」
さすがは神というべきか、はたまた、香水瓶の謎が解けたことで気が緩み、アテナの聖闘士たちが してはならない油断をしていたせいなのか。
突然響いてきた彼等の女神の声に――女神の帰還に気付かずにいた自分たちに――アテナの聖闘士たちは一様に ぎょっとした顔になってしまったのだった。

「ただいま。私の留守中、何か変わったことがあったの?」
彼女の聖闘士たちとは対照的に、アテナの顔は、至って さわやか、かつ、極めて晴れやかである。
からの香水瓶などで彼女の聖闘士たちを困惑させておきながら、彼女は 白々しいほど罪のない笑顔。
もしかしたら、それが悪意のない いたずらだったせいで、彼女は自分が仕掛けた悪ふざけのことを既に忘れてしまっているのではないかとさえ、星矢たちは思ったのだった。

「何も知らない振りしても駄目だぞ、沙織さん。香水瓶で瞬に いたずらを仕掛けただろ。いや、いたずらの相手は氷河か」
「香水瓶って、何のこと?」
真顔で問い返してくる女神アテナに、彼女の聖闘士たちは一抹の不安を覚えることになったのである。
事件の経緯を順を追って すべて説明するよう沙織に求められ、彼等の不安は決定的なものになった。
そして、
「どんなものなのか見てみたいわ。その香水瓶を、全部 ここに持っていらっしゃい」
と 沙織に命じられるに及び、彼等は、この一連の犯行の犯人が彼女ではなかったことを確信するに至ったのである。

テーブルに並べられた4本の香水瓶を見詰め、彼等の女神が何やら考え込む素振りを見せる。
聖闘士たちは、沙織が次に口にする言葉を、固唾を飲んで待っていた。
問題の香水瓶を、2、3分ほど 詳しく観察し、そのあとで得心したように沙織が告げた言葉。
それは、
「ああ、やっぱり これはラブレターね」
というものだった。

「ラブレター?」
アテナの脅しを兼ねた教育的指導の瓶が、突然ラブレターに変貌する。
アテナの聖闘士たちは、沙織のその言葉に、しばし呆けてしまったのだった。
「ラブレターというのは、どういうことですか」
仲間うちで最初に気を取り直した紫龍が、沙織に尋ねる。
沙織は、4本の香水瓶の最初の1本――紺色の球形の瓶を手に取り、質問者に頷いた。

「これは、第二次大戦前にフランスのウォルト社が発売した5連作の香水よ。でも、変ね。順番が違う。3番目が抜けているわ」
「ラブレターというのは、どういうことですか!」
氷河が苛立った声で、紫龍のそれと全く同じ質問を繰り返したのは、沙織の答えが質問の内容に即したものではなかったからだったろう。
4本の からの香水瓶がラブレターだというのなら、それは どう考えても瞬宛てのものということになり、それは氷河には捨て置くことのできない大問題だったのだ。

氷河の激した様子を一瞬 意味ありげな目で見やってから、沙織は、どちらかといえば笑顔で、氷河の質問内容に即した答えを返してきた。
どちらかといえば、質問者である氷河ではなく、瞬に向かって。
「これは本当は 5本あるの。最初の紺色の瓶に星の模様がある瓶が、 Dans la nuit ――ダン ラ ニュイ。『真夜中に』という香水よ。2本目の赤い瓶が、 Vers le Jour ――ヴェル レジュール。『夜明け前に』。3本目は、ここにはないけど、緑色の瓶で、 Sans Adieu ――サン アデュー。『さよならは言わない』。4本目が、そのコバルトブルーの瓶。 Je Reviens ――ジュルヴィアン。『私は戻ってくる』。5本目が、無色透明のそれね。 Vers Toi ――ヴェル トワ。『君の許へ』」

「へー、そうなんだ。で?」
フランス料理でさえ箸で食べたがって、沙織に顔をしかめさせるのを常としている星矢には、沙織が口にしたフランス語の意味など どうでもいいことだった。
彼が知りたいのは、そのジューだのデューだのベルだのが、なぜラブレターでありえるのかということ、そして、そのラブレターを瞬に送ったのは誰なのかということだったのだ。

「だから、この香水瓶は本当は5本あって、5本で1通のラブレターになっているのよ。二人で情熱的な『夜』を過ごして迎えた『夜明け』。立ち去らなければならないが、『さよならは言わない』。なぜなら、『私は戻ってくる』から。『君の許へ』――というわけね」
「なるほど。フランス版 後朝きぬぎぬの歌というわけですか」
「まさしく、それね。してみると、日本の恋の作法は、フランスの恋の粋の千年先を行っていたということかしら」
紫龍の例えが気に入ったらしく、沙織が口許に楽しげな笑みを刻む。
が、彼女はすぐに その笑みを消し去った。

「この中のジュルヴィアンは、第二次大戦が始まると爆発的に売り上げを伸ばしたと聞いているわ。戦いに行くことになった兵士たちが、妻や恋人に『私は戻ってくる』と記された香水を贈って、戦地に向かったの。平和な時には洒落たラブレターだったものが、戦時には、文字通り命をかけたメッセージになった――というわけね」
「あ……」
アテナの――アテナでないにしても誰かの――いたずらの道具だと思っていた小さな瓶に込められた、悲しく切ない思い。
沙織の語ったエピソードに、瞬の瞳は すぐに潤み始めた。
戦うことを生業なりわいとする聖闘士とも思えない瞬の涙もろさに、沙織は――沙織もまた、切ない微笑を浮かべた。
そして、そんな瞬を心配顔で見詰めている氷河の方に向き直る。

「稀少なものだから、揃えられなかったの?」
「は?」
沙織の質問の意味を、氷河は咄嗟に理解することができなかったのである。
やがて理解して、氷河は困惑した。
沙織はどうやら、からの香水瓶を瞬に贈ったのは白鳥座の聖闘士だと思い込んでいるらしい。
「瞬にラブレターを送るなんて、あなたしかいないじゃないの」
まるで星矢のように、そうと決めつけている沙織に、氷河はしばし声を失った。

「瞬のケツを痛くしなかったのは、ちゃんと瞬の返事をもらってからと考えたわけか。男だな。氷河。見直したぜ」
「いや、俺は――」
「直接、瞬に告白なんかしたら、どこから一輝が飛んでくるか、わかったものではないしな。この方法なら、瞬の危機に反応する一輝のセンサーに引っかからないというわけだ。考えたな、氷河」
沙織のみならず、星矢や紫龍までもが、瞬へのラブレターとなれば、それを送ったのは氷河だと決めつけ信じ込んでいる。
だが、それは完全に誤解だった。
そんなラブレターを送ることなど氷河はしていなかったし、考えたこともなかった。

氷河は もちろん、彼等の誤解を解こうとしたのである。
『俺はそんなことをしていない』と言おうとした。
にもかかわらず、彼がそうすることができなかったのは、星矢が、
「瞬。氷河は本気なんだって、ほんとはおまえだって わかってんだろ? いい加減で覚悟決めちまえよ。んで、今夜は多少 痛くても我慢してやるんだな」
と言って、瞬をけしかけていったせい。
星矢にけしかけられた瞬が、
「ば……ばかっ!」
と、星矢の無責任な扇動を小さな声で咎めたきり、頬を真っ赤に染めて俯いてしまったせいだった。
いつもなら、もっと憤りを露わにし、怒った振りをして逃げてしまう瞬が、今日は逃げずに その場に――瞬を恋する男の許に――留まったままでいるのだ。

Je Reviens ――ジュルヴィアン。『私は戻ってくる』。
悲しい兵士たちのエピソードに心を動かされ、瞬は ついに覚悟を決めてくれたのか――。
その期待が、氷河に、真実を告白することを躊躇させたのである。

瞬の様子がいつも違うことには、星矢や紫龍もすぐに気付いたらしい。
もしかしたら この場から逃げ出したいと思っているのかもしれないが、今は あえて逃げることはすまいと覚悟を決めたらしい瞬に、瞬の仲間たちは――特に星矢は――色めきたった。
「これって、もしかして、大団円のめでたしめでたしってやつか !? ついに氷河の苦労と努力が報われることになったわけ !? 」
これまで幾度も奇蹟を起こしてきた星矢が、生まれて初めて本当の奇蹟を間の当たりにした人間のそれのように、瞳を輝かせる。
それから1分ほど待って、瞬が 仲間の言葉にどんな異議も申し立ててこないことを確認すると、星矢は改めて
「やったー! 大団円のめでたしめでたしだーっ!」
と、周囲に歓声を響かせた。

その歓声にも、瞬は何も言ってこない。
星矢の瞳は いよいよ明るく輝き、紫龍と沙織は静かに この奇蹟に感じ入っている。
これで本当に、ついに氷河の長い片思いは実ったのだと、その場にいる誰もが確信した時だった。
まるで深い地の底から這い上がり、地上に噴出した間欠泉のように、
「勝手に、大団円の めでたしめでたしにするなーっ !! 」
という雄叫びが、アテナとアテナの聖闘士たちのいる部屋に響き渡ったのは。






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