そうなるはずだったのに。 そんなふうに平穏に、僕の一生は終わるはずだったのに。 ある日、突然、僕が暮らしていた大理石の神殿が崩れ落ちて、すべては変わってしまったんだ。 そこから出てはならないと言われていた神殿がなくなって、僕は、初めて、神殿の外に出た。 出ざるを得なくなった。 神殿の外は――神殿の中も、もちろんそうだったけど――ハーデスの治める冥界。 僕は、当然、そこにはハーデスの静かな眼差しのように整然とした世界が広がっているのだと思っていた。 なのに、そこにあったのは瓦礫の山。 その周囲にあるものも、寒々しく荒涼とした灰色の岩、灰色の山、灰色の大地、灰色の空。 そこは、こんな世界を治める王は きっと とても寂しくて悲しい王だと思えるような世界だった。 ハーデスが治めている世界の様相は、僕が想像していたものと あまりに違っていて、僕を怯えさせ、そして、驚かせた。 僕を驚かせたのは、それだけじゃない。 崩れた神殿を、神殿の外側から見て、僕は初めて知った。 僕が無辺だと思っていた神殿が、本当は ごく小さな石の建物にすぎなかったことを。 ハーデスは多分、この小さな神殿の空間を捻じ曲げて、いろんな場所につなぎ、この神殿には果てがないのだと、僕に錯覚させていたんだろう。 でも、その神殿が急に崩れ落ちてしまったのは なぜ? ハーデスが“余の分身”とまで言っていた僕。 その僕が暮らしていた神殿が崩れ落ちてしまったのに、なぜ ハーデスは僕のところに来てくれないの? ハーデスどころか――そこは誰もいない世界だった。 ただ灰色なだけの。 おそらくハーデスは、この灰色で寂しい世界を僕に見せないために、果てのない――出口のない――神殿を作ったんだろう。 そして、この灰色の世界の寂しさから、僕を隔離し、僕を守っていた。 その神殿がなくなってしまって――灰色で寂しい世界に一人で投げ出され、僕は途方に暮れることになった。 僕はこれから何をすればいいんだろう? ここで待っていれば、ハーデスが僕を迎えに来てくれるの? きっとそうだと、僕は思おうとしたんだけど、その考えは すぐに僕の中から消えてしまった。 今 駆けつけてきてくれないハーデスが、待っていれば来てくれるなんて思えなかったから。 かといって、僕がハーデスを捜しに行くこともできない。 どちらに向かえばいいのかが僕にはわからないから。 じゃあ、僕は、この崩れた神殿の脇で、僕自身が灰色の岩になったように うずくまっていることしかできないんだろうか? 為す術もなく、僕がぼんやりと そんなことを考え始めていた時――あの人が来たんだ。 灰色以外の色のない世界の中に突然、彼は現れた。 「おまえ……生きている人間か?」 僕に話しかけてくれる人は、これまでハーデスしかいなかった。 静かで穏やかな漆黒の神しか。 でも、ふいに僕の前に現われた彼は 金色の髪と青い瞳の持ち主で――僕は、最初は彼の姿を気持ち悪いと思った。 気紛れに集めた がらくたで作った人形みたいだと。 髪の金色、瞳の青。 なんていうか――統一感っていうか、調和っていうものがない。 僕の目には、彼が出来損ないの人形みたいに見えたんだ。 「人間だな?」 その 珍妙な色調の人形が、僕に尋ねてくる。 僕は、彼に答えを返すべきか否かを迷ったんだ。 彼が冥界の住人なら、彼は僕に話しかけてこないはずだった。 なのに 僕に話しかけてくるということは、彼がハーデスの配下の者ではないということ、冥界の外から来た人だということだ。 僕に『人間か』と尋ねてくるんだから、おそらく彼は“地上”から来た人間なんだ。 そんな人が、ハーデスと同じように僕を遇してくれるとは思えない。 ハーデスと同じように僕を大切にしてくれるとは思えない。 そう思えたから――僕は彼の前で怯えていることしかできなかった。 僕がびくびくしているのを見てとって、彼は――もしかしたら、僕が恐がらないように笑顔を作ってくれたのかな? 少し口角を上げて、少し目を細めて――ハーデスが僕を見詰める時の表情に似ている、優しい――多分 微笑。 そうして、ハーデスのそれに似た表情で、彼は僕に言った。 「もう大丈夫だ。ハーデスは、アテナによって封印された。おまえを捕らえ、閉じ込めていたハーデスは もういない」 封印? ハーデスが封印されたというのは どういうこと? ハーデスが僕を捕らえ 閉じ込めていたというのは、どういうこと? ハーデスを――この冥界を統べる王であるハーデスを、どこかの神殿に閉じ込めたということ? 僕が、僕の神殿の果てに行き着くことができず、神殿の外の世界に触れることができなかったように? 僕は、ハーデスが作った神殿に閉じ込められていたの? 封印されていたの? 神殿の中で、僕はいつも自由だったから、これまで僕は そんなふうに考えたことはなかった。 でも、もしそうだったのなら――ハーデスが封印されたせいで、僕の封印が解けたというのなら――僕は、僕のために用意されていた たった一つの運命を失ったことになる。 僕は、その時、自分が 幸福と不幸の間を行き来しなければならない人間にされてしまったことを、直感で悟った。 「この冥界は、まもなく崩壊する。俺と一緒に来い」 彼は そう言って、僕に手を差しのべてきた。 でも、どうして 僕にその手を取ることができただろう。 彼は僕の知らない人で、彼が僕を連れていこうとしているのは 僕の知らない場所。 いずれ僕が治めるはずだった冥界の内にいてさえ、これほど心細いのに、冥界の外に行くなんて、恐くて、僕には とてもできない。 僕の怯懦に苛立ったのか、彼は、彼が今まで その顔に浮かべていた微笑を消した。 そして、なんだか すごく気が急いているみたいに、僕に尋ねてきた。 「おまえ、口はきけるか? ハーデスはもういない。おまえは自由なんだ。わかるか?」 自由? 自由って何。 僕は、それまで自分が何かに縛りつけられているなんて考えたことはなかった。 僕はいつだって自由だった。 僕が閉じ込められていた神殿を壊されて初めて、僕は自分が自由でなかったことを知らされたんだ。 僕を自由でなかったものにした人が、僕を自由だと言うのは おかしいよ。 「早く来い。地上に出る通り道がふさがってしまう」 やっぱり 彼は、地上から来た人みたいだった。 浅ましい欲、絶えることのない不満、醜悪な争い。そんなことを繰り返しながら自分の一生を終える地上の人間たちの中の一人。 彼が地上から来た人だということを知らされて、僕はなおさら恐くなり、自分の身体を硬くした。 そんな僕を見て、彼は――彼は、僕とは逆に緊張を解いて、そして、長い溜め息を一つ ついた。 「おまえ、名前は」 「瞬」 僕は、自分では気付かずにいたけど――彼が緊張しているから、僕自身もすごく緊張していたらしかった。 彼から ぴりぴりしている感じが消えると、僕も少し身体から力を抜くことができた。 彼の質問に答えられるくらいには。 「口はきけるんだな。生きているのに、なぜこんなところにいるんだ」 「ハーデスが僕を選んでくれたの。それで、ここに連れてきてくれた」 「選んで――連れてきた? 何のために。いつからだ」 「小さい頃。僕は、大きくなったら、この身体の中にハーデスの魂を置いて、ハーデスの魂の命じるように動くの。冥界の王になって、一生を終えるんだって」 ハーデス以外の人と話をするのは初めてだったから、僕は自分が話そうと思っていることを うまく話せているかどうか不安だった。 もしかしたら、僕は あまりうまく話せていなかったのかもしれない。 僕は、僕が生きるはずだった一生――地上の人間のそれに比べれば、はるかに美しい一生――を彼に語ったつもりだったのに、彼は僕の話を聞くと その途端に、何ていうか――ひどく 痛ましげな目で僕を見詰めてきたから。 「では、おまえは、ハーデスへの生け贄として、この冥界に連れてこられたのか? まだ小さな頃に? ひどいことを……。ハーデスは人間の命を何だと思っているんだ」 「ひどい? ハーデスが?」 なぜハーデスが“ひどい”んだろう? ハーデスは、僕の願い事は、どんなことでもきいてくれたよ? 「もう大丈夫だ。おまえは、ハーデスから解放された。おまえは これからは おまえの生きたいように生きられるんだ。きっと アテナがいいようにしてくれる」 「アテナって、なに」 「人間の心身の自由を尊重してくれる神だ」 神? この人は、地上から来た“人間”ではないの? 「神っていうのは――」 あの天井画で巨人たちと戦っていた人たちの一人? ハーデスと同じ神? 僕は、頭が少し こんがらがってきた。 考えが整理できなくて、瞬きを幾度か繰り返す。 そんな僕を見て、彼は、また一つ 溜め息をついた。 「アテナも知らないのか」 「あなたがアテナ?」 「俺は氷河だ。――人間だ。アテナの聖闘士」 「アテナの聖闘士はハーデスの何?」 「敵だ」 「僕の敵?」 「おまえはハーデスじゃない」 「じゃあ、僕は何?」 「瞬だと言ったろう。自分で名乗った」 「瞬とハーデスは違うもの?」 「当たりまえだ」 「……」 僕とハーデスは違うものだと、アテナの聖闘士――氷河――は 事もなげに言うけど、ハーデスがいなかったら、僕は今の僕ではいられなかったよ。 冥界に来ることもなく、浅ましい欲望と絶えることのない不満と 醜悪な争いが満ちている地上で、汚れた醜いものになってた。 今の僕とは違う僕になってた。 ハーデスがいてくれたから、僕は僕なんだ。 それでも僕とハーデスは違うものなんだろうか。 もちろん、僕は人間で、ハーデスは神だ。 氷河が違うというのは、そういう属性のことなんだろうか。 確かに 僕とハーデスは、そういう意味では違うものだけど、でも、僕たちの運命は一つで、同じ未来を共有することが決まっているのに。 それとも、氷河は、僕とハーデスが一つのものになる未来が実現しなくなったっていうことを言ってるんだろうか――? |