僕は、氷河の言葉の意味がよくわからなくて、でも、理解したかったから、一生懸命 考えた。
氷河がそんな僕の頬に急に手で触れてこなかったら、僕は 納得のいく答えが出るまでずっと そこで考え続けていたかもしれない。
氷河に急に触れられて、びっくりして、僕は考えるのを中断させられた。
氷河が僕に触れてる。
実体を伴って僕の許に来ることのなかったハーデスは、決して僕に そんなことをしなかった。
だから――誰かに触れられるのは それが初めてだったから、僕は本当に氷河の手に、その感触にびっくりした。
氷河の手は温かくて、ちょっと不思議な感じがした。
自分の手で自分に触れるのとは、全然違う。
氷河の手は、僕の手とは温度が違ってて、僕の手より大きくて、それから ちょっと硬い感触。
嫌な感じはしなかったけど、僕はちょっと どきどきした。
自分とは違う人に触れてもらうのって、なんだか とても気持ちがいい。

「綺麗だな。普通の人間とは思えないほど。こんなに澄んだ目を初めて見る。無知ゆえの清らかさかというところか。惜しい話だ」
僕が氷河の顔を見上げ、覗き込むと、氷河は――氷河も同じように、僕を見おろし、僕の顔を――多分、僕の目を――見詰めていた。
無知ゆえの清らかさって、惜しいことなの?
地上では、有識で不浄な人が尊敬されるの?
ハーデスは、僕のことを よく清らかだって言ってたけど、僕を無知だと言ったことは一度もなかったよ。

「僕は無知なの?」
僕が尋ねると、氷河は――おそらく、その質問を意外と思ったんだろう。
そんな顔をした。
僕は、そんなに変なことを訊いたつもりはなかったんだけど。
「何か知っているのか? アテナを知らず、地上も知らないんだろう?」
「人間は死ぬ。神は死なない。僕は人間だから、いつか死ぬ」
僕は真面目に訊いたのに、氷河の返事はどこか投げ遣り。
だから、僕は、僕が知っていることの中で特に重要なことを、氷河に知らせてあげたんだ。
そしたら、氷河は、ちょっと感心してくれたみたいだった。
「完全に無知ではないな。ものすごい真理を知っている」

氷河に褒められて、僕は嬉しくなった。
僕は、他にもいろんなことをたくさん知ってるよ。
「冥界には光がない。ハーデスは光を手に入れる」
ハーデスはそんなことを言っていた。
「地上は美しい。でも、地上にいる人間は醜い」
「……」
「人間は欲を持つ。だから、醜くなる。だが、欲を持たないと生きていけない」
もちろん、僕が知っていることは、全部 ハーデスの受け売りだった。
僕は、ハーデスに教えてもらったことを、そのまま氷河に話して聞かせてるだけ。
でも、知識ってそういうものでしょう。
だから、最初は感心してくれたみたいだった氷河が、少しずつ しかめっ面になっていく理由が 僕にはわからなかったんだ。
僕は、氷河が『何か知ってることがあるのか』って訊くから、僕が知ってることを教えてあげただけだったのに。

どうして氷河が しかめっ面になっていくのか、その訳がわかったのは、氷河が、
「それはハーデスの考えだろう。おまえが自分で考えたことや、自分の目や耳で見聞きして、気付いたことはないのか」
と言ってくれたからだった。
氷河がどういうことを聞きたかったのか、具体的に言ってくれたから。
僕が自分で考えたことや気付いたこと。
氷河は、そういうことを知りたいらしかった。
そういうことって、自分の内から生じることで、人に知らせる価値のある知識だとは思えなかったんだけど、でも、氷河が知りたいっていうから、僕は、僕が考えて気付いたことを一つ、氷河に知らせてみたんだ。

「僕は寒い。耐えられなくなったら、自分で自分を抱きしめる。そうすると、温かくなる。少しだけ」
それは、僕一人に関わる個人的な感懐にすぎない。
そんなことを知っても、氷河には何の益もない無価値な情報だよ。
なのに、氷河は、何の価値もない そんな情報に すごく心を動かされたらしくて、突然 僕を抱きしめてくれたんだ。
「かわいそうに。こんなに綺麗で可愛いのに……。地上にいたら誰からも愛されたろうに、こんなところで、たった一人で……」
氷河は僕を しっかり抱きしめて、そして、とっても優しく僕の髪を撫でてくれた。
それは、ハーデスは絶対にしてくれなかったこと。
僕は、氷河の腕と胸に自由を奪われて、すごく いい気持ちになった。

「氷河に抱きしめられるのは、自分で自分を抱きしめるより温かい」
「それはそうだろう」
「温かい」
僕は嬉しくなって、氷河にしがみついていった。
氷河は僕とは違う人だ。
完全に違う人。
違う人に抱きしめてもらうのが、こんなに気持ちいいことだったなんて。
僕はずっとこうしていたいって思った。
だから、氷河に、
「地上に行こう。俺と一緒に」
って言われた時、あんまり迷わずに、
「氷河と一緒なら、ちょっとだけ行ってみてもいい」
って答えたんだ。

氷河は地上に住む人間だから、いつまでも ここにいてはくれないだろう。
僕が この気持ちのいい氷河の手や胸の側にいるには、僕が地上に行くしかない。
ハーデスがいたら、『行くな』って言うのかなって思ったけど、ハーデスは今ここにはいないし、だから当然『行くな』とも言わない。
地上に行くのは、もちろん恐いよ。
すごく恐い。
でも、地上がどんなに汚れに満ちた場所でも、そこには氷河がいる。
冥界がどんなに清浄な場所でも、ハーデスは僕をこんなに いい気持ちにはしてくれない。
地上の汚れた空気が苦しくて耐えられなくなったら、冥界に戻ってくればいいだけ。

その時、僕は、氷河の胸と腕が気持ちよくて、多分、ものすごく大胆な気持ちになっていた。
氷河が僕と手をつないでくれたから(それも すごく わくわくすることだった)、僕は ほとんど“恐い”という気持ちを忘れて、氷河と共に地上に向かったんだ。






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