地上で、僕は、アテナに会った。 氷河以外のアテナの聖闘士にも。 彼等はみんなハーデスの敵なのに、ハーデスのものだった僕にとても優しくしてくれた。 アテナは、地上の光と同じような温かさを持った瞳の持ち主で、側にいると、それだけで僕まで温かいものにしてしまうような人だった。 アテナの聖闘士たちは、僕よりハーデスのそれに近い色でできていたけど、彼等の表情や声は、地上の光のように明るく輝いていた。 瞳なんて、ハーデスのそれと ほとんど同じ色をしてるのに、星矢たちの瞳は眩しいくらい きらきら輝いているんだ。 僕が、『ずっと地上にいて、氷河たちみたいに温かく輝くものになりたい』って言ったら、アテナはすごく嬉しそうに笑って、彼女の神殿の中にある部屋を一つ、僕にくれた。 アテナが僕にくれた場所は、ハーデスが僕を住まわせていた あの神殿とは違って、無限ではなかった。 その空間の端も果ても、僕は自分の手と目で確かめることができた。 無限ではなくて、ちょうど僕に必要なだけの広さがあって、それに、隣りの部屋が氷河の部屋なんだ。 それだけでも、その部屋は とても素敵な場所だった。 アテナは優しかった。 あとで氷河に教えてもらったんだけど、アテナはハーデスと同じ神なんだって。 おんなじ神なのに、アテナはハーデスとは全然違う。 同じところを一つも見付けられなくて、だから、アテナが神だって知った時には、僕はすごくびっくりしたよ。 氷河以外のアテナの聖闘士たちも(氷河は、彼等を『俺の仲間たち』と呼んでいた)、すごく親切だった。 もちろん、僕をここに連れてきてくれた氷河は特別だけど、“氷河の仲間たち”は氷河とおんなじくらい優しくて親切で、僕に いろんなことを教えてくれた。 僕は、地上の人たちは、幸福と不幸を自分で選ぶんだろうと考えていたんだけど、その推察は当たっていた。 地上にいるんだから、僕も当然 同じことをしなければならなかった。 それまで僕は、どんな些細なことでも 自分で何かを選ぶっていうことをしたことがなかったから、自分でいろんなことを選ぶ行為が楽しくてならなかった。 たとえば、聖域で(アテナの神殿を中心におく その辺り一帯を“聖域”と言うんだって)、今日は東の方を見学しに行くか、西の方を見学しに行くか。 氷河と一緒に花畑に行くか、星矢と一緒に駆け比べをするか、紫龍に文字の読み方を教えてもらうか。 そんなふうなことを、僕は何でも自分で選べるんだ。 ハーデスに与えられるものを受け取っていればよかった冥界での暮らしとは違って、地上では毎日――ううん、すべての瞬間瞬間で、僕は何かを選ばなければならなかった。 本当に、選択の連続。 それは、緊張の連続でもあった。 いつでも何でも自分で選ばなければならないのって、すごく楽しいけど、すごく疲れることだよ。 慣れていないせいもあったかもしれないけど、僕はそうだった。 星矢に、『星矢は疲れないの?』って訊いたら、星矢は『そりゃあ、疲れるさ』って。 星矢は毎朝 太陽が昇ると、『覚悟を決めて起きるか、もう少し寝ているか』を10分おきくらいに何度も悩むんだって。 僕は、そういうことを悩んだことはなかったから(目覚めたら、すぐベッドから出て、その日の活動を始めたかったから)、僕は星矢ほど大変じゃないんだって思った。 星矢ほど大変じゃないにしても、選ぶことに不慣れなせいもあって、僕は何度も失敗した。 ほんとに いろんな失敗をした。 間違った選択をして、氷河を悲しませたりもした。 だって、僕は、知らなかったんだ。 キスっていうのが、特別に大好きだっていう気持ちを 自分以外の人に伝えるための 地上での約束事だなんてこと。 僕は氷河に抱きしめてもらうのは とっても好きだった。 氷河の腕や胸は温かくて気持ちよくて、僕に『いつまでもここにいていいんだ』って言ってくれてるみたいだったし、氷河の規則正しくて力強い鼓動は、いつも僕の気持ちを安心させてくれるものだったから。 でも、ある日 氷河の鼓動が急に大きく速くなって――そして、氷河が僕の唇に氷河の唇を押しつけてきた時、僕は氷河に食べられちゃうんじゃないかと思って、恐くなって、氷河を突き飛ばしてしまった。 僕は、『氷河から逃げない』っていうことを選ぶことができなかったんだ。 氷河が悲しそうな顔をするから、僕は すぐに自分の選択を後悔した。 明るい空の色をした氷河の瞳が曇るのを初めて見て、びっくりして、恐くなって、悲しくなって――そんなふうな いろんな気持ちが ごちゃまぜになって、氷河の前にいられなくなって、僕は その場から逃げ出した。 星矢や紫龍に相談したら、星矢たちは、氷河は僕を食べようとしたんじゃないって教えてくれた。 それがキスっていうもので、特別に大好きだっていう気持ちを 自分以外の人に伝えるための 地上での約束事なんだってことも。 僕は氷河のことが大好きだったから、すぐに氷河のところに行って、ごめんなさいって謝ったよ。 氷河は、あの綺麗な顔を ちょっとだけ変なふうに歪めて、でも、すぐに僕を許してくれた。 そんな失敗を繰り返しながら、僕は いろんなことを覚えていったんだ。 たくさんの選択をして、その結果を自分の目や耳で確かめて、それが良い選択だったか間違った選択だったのかを考えて、間違った選択だったと思ったら、二度と同じ過ちを繰り返さないように、記憶に刻んだ。 僕は、地上にいる人間は、自分が幸福になるか不幸になるかを 自分で選び決めるのだろうと思っていた。 そして、何を選ぶこともできない人間である僕は、幸福にも不幸にもなれないんだろうと思っていたんだ。 それは、ある意味では正しい推察だったけど、ある意味では違っていた。 地上の人間たちは、自分が幸福になるか不幸になるかを 自分だけでは決めることができない者たちだった。 地上の人間たちは、冥界の神殿で たった一人で暮らしていた僕とは違って、一人じゃないから。 地上では、人は一人で生きていないから、自分以外の誰かのせいで不幸になったり幸福になったりすることもあるんだ。 たとえば――僕が星矢のお師匠さんだっていう人の乱暴な言葉使いが恐くて、『魔鈴さんが恐い』って言った時のこと。 星矢は、すぐに、 「そんなことないって。魔鈴さんは 確かに、言うことはきついし、言葉使いも乱暴だけど、ほんとは滅茶苦茶優しくて、すごくいい人だぜ!」 って、強い口調で言い募ってきた。 地上の人間は、自分の好きな人や好きなものを 嫌われると、それに反感を抱くみたいだった。 最初は、よく わからなかったんだ。 僕が魔鈴さんを恐いと思ったって、星矢が魔鈴さんを恐いと思うようになるわけじゃないのに、どうして星矢は、そんなに向きになって、僕が僕一人で感じたことを 変えさせようとするのかって、それがとても不思議だった。 不思議というか、変なこと、無意味なことだと思った。 そう考えてしまう僕の方がおかしいのかって、僕は紫龍に訊いてみたんだ。 (その頃には、僕は、僕の知りたいことや 理解できないことを、いちばん わかりやすく丁寧に説明してくれるのは紫龍だってことが わかってたから) そしたら、紫龍は、急に僕に言った。 「氷河は、おまえに 良からぬことをしようとして、地上に連れてきたんだ」 って。 僕は、すぐ。 「そんなことない。氷河は温かくて優しくて親切だよ!」 って、紫龍に反論した。 紫龍の言う“良からぬこと”っていうのがどんなことなのかも わかってなかったのに。 でも、氷河は いつだって、僕に いいことばかりしてくれたし、いいものをたくさん僕に見せてくれた。 大勢の いい人にも会わせてくれた。 僕は、氷河と一緒に地上に来て 本当によかったと思ってたんだ。 氷河が“良からぬこと”をしようとして僕を地上に連れてきたんだとしたら、僕が今 “いい”とか“素敵だ”とか思っていることが全部“良くないもの”になってしまう。 そんなこと、あっちゃいけないし、そんなのは嫌だし、それ以前に、そんなこと ありえない。 氷河は温かくて優しくて綺麗。 紫龍は 何か誤解してるんだって、僕は思った。 僕は その時、まるで星矢みたいに向きになっていたと思う。 そんな僕を見て、紫龍は、すごく楽しそうに笑った。 「そういうことだ。自分の好きな人は、自分以外の人間にも いい人だと思っていてほしいだろう? 人が人を好きになるということは、何というか……自分の心の一部が その人と重なっているようなものなんだ。自分が人に嫌われるのは、あまり愉快なことじゃない。だから、その誤解を正したいと思う。おまえが氷河を庇わずにいられないように、星矢も星矢の大切な人を守りたいと思ったんだ」 「あ……」 紫龍にそう言われて、僕は、やっと『魔鈴さんはいい人だよ』って言い張った時の星矢の気持ちが わかったんだ。 まるで、僕の心の一部が 星矢の心に重なったみたいに。 それは何ていうか――直接 触れ合っているわけじゃないのに、温かい 氷河に抱きしめてもらうのと同じくらい――ううん、それ以上に僕を温かい気持ちにしてくれた。 人間っていうのは、なんて たった一人じゃないんだろう。 誰かのために腹を立てたり、笑ったり――きっと 泣いたりすることもあるんだろう。 そういう人間たちは、自分が幸福になるか不幸になるかを 自分一人で決めることは ほぼ不可能だ。 自分の好きな人も幸せでいてくれないと、その人は幸せにはなれないんだもの。 冥界で たった一人で生きていることより、地上の人間として みんなと一緒に生きることは、とてもとても難しい――。 ともあれ、紫龍に そのことを教えてもらってから、僕は注意深くなった。 人の気持ちを一生懸命考えて、その人の価値観や感情を尊重するようになった。 だって、僕に親切にしてくれる人たちには幸せでいてほしいもの。 その方法を考えるのは、とても難しいことだったけど、すごく楽しいことでもあったよ。 失敗もしたけど、『ごめんなさい』って言うと、みんなは許してくれた。 そんなことを繰り返しているうちに、僕は、難しいから生きているのは楽しいんだって思えるようになった。 そう思えるようになったら、生きるのは難しいってことを知らなかった頃より、毎日が楽しくなった。 「瞬って、無知でも何でもないじゃん。氷河より利口かもしれないぜ」 「慎重で賢明だ。自分以外の人間の心や立場を考慮することができる。優しくて強いということだな」 一人ではなく みんなと一緒にいるうちに、僕の心は星矢や紫龍たちと重なる部分が大きくなっていったんだと思う。 星矢たちに そんなふうに褒めてもらって、僕はすごく嬉しい気持ちになった。 僕が氷河より利口っていうのは お世辞だったわかってたけど。 氷河は僕よりずっと たくさん いろんなことを知っていたもの。 星矢は、氷河をからかうために そんなことを言うんだ。 それは星矢が氷河を見誤っているわけじゃなく、氷河に対する親愛の情を示すための本気でない嘘。 人は、その人を好きだから、心にもない嘘を言うこともある。 知れば知るほど、人間っていうのは難しくて複雑で面倒。 でも、その根底にあるものが、自分以外の人間の存在を認める心なんだってことがわかるから、僕は どんどん地上の人間たちが好きになっていった。 それから、僕は、身体も鍛えたよ。 氷河たちに少しでも近付きたくて、氷河たちを守ってあげられる僕になりたかったから。 冥界にいた頃には、僕は、そういう気持ちを抱くこともなかった。 冥界で、ハーデスに与えられた神殿の中で一人ぽっちで生きていた頃には、僕は、人が そんな気持ちを抱くことがあるなんてことすら知らなかったんだ。 アテナは、僕が聖闘士になるにふさわしい心を備えているって、言ってくれた。 |