夢見る頃を過ぎても






砂の上に直接 寝具を置いて、大地の冷たさを我が身に引き受けることを避けるためにある木製の寝台は、高さがせいぜい20センチほどしかなかった。
壁や屋根は外気を遮るためだけにあり、部屋には窓すらもない。
そこは、気温が氷点下に下がる夜を 凍え死ぬことなく過ごすことだけを考慮して建てられた建物だった。
つい数時間前には40度近くあった気温が、日没と共に急に下がり始め、今は真冬の寒さ。
だが、夜間の低気温を耐えることに特化された その建物は、健康な人間が簡単に凍死できるほどの寒さを、確かに遮断してくれていた。

しかし、それは、人間の命を守るためのもの。
人の心までは守ってくれない。
そこまでの配慮は為されていない。
夜の冷たい外気を遮ることのできる壁も、外の音までは遮ってくれない。
いつまでも――永遠に――消えることはないのだろう波の音が、さきほどからずっと 瞬の心を苛み続けていた。

瞬は後悔していた。
もしかしたら二度と再び会うことができないかもしれない人と、あんな別れ方をしてしまったことを。
だが、瞬は、兄と約束したばかりだったのだ。
どんな つらい修行にも、どんな孤独にも耐えて、必ず生き延びて聖闘士になり、再び兄と会うことを。
兄と約束したのだから、その約束は何があっても果たされなければならない。
どんな つらい修行にも、自分は耐え抜いてみせる。
固い決意を胸に刻んだばかりだった瞬に、氷河は、その決意を無にするようなことを言ってきたのだ。
「瞬。一緒に、今すぐ ここから逃げよう」
と。
そんなことができるという考えを持ったこともなかった瞬は、氷河の その言葉の意味をすぐには理解できなかった。
氷河が自分に、何から逃げようと言っているのかということさえ。

「逃げるって、どこへ? どうして?」
「逃げ場所なんか、城戸邸ここでなかったら、どこでもいい。今のまま 修行地に送られたら、おまえは十中八九――」
そこまで言われて、瞬はやっと理解したのである。
氷河は、自分たちに与えられた運命から逃げようと言っているのだということを。
だが、それは、兄との約束を反故にするということ、たった今 決死の覚悟で為したばかりの決意を反故にする提案だった。

「僕は十中八九、なに? 氷河は、僕が聖闘士になれずに死んじゃうっていうの? そんなことないよ。僕は、兄さんと約束したんだ。必ず、生きて帰ってくるよ!」
「意気込みだけじゃ、どうにもならないことがある」
「僕は必ず生きて帰ってくるよ! そして、兄さんともう一度会うんだ!」
許されるなら、叶うことなら、『一人になりたくない! 兄さんと一緒にいたい!』と泣いてすがりたい気持ちを必死に抑えて為した決意を、『意気込みだけでは、どうにもならない』と切って捨てられて、瞬は ひどく腹が立った。

生きて帰る。
その決意をするだけでも、瞬にはとてつもない力が必要だった。
兄を少しでも安心させたくて、兄に不甲斐ない弟だと思われたくなくて、やっと言葉にすることができた、その約束。
氷河は、瞬の まさに命がけの決意を『逃げよう』の一言で、何の意味も価値もないものにしてくれたのだ。
その決意を、実現されることのない、ただの言葉でしかないものだと。

「氷河のばかっ!」
他に 氷河を責める どんな言葉も思いつけず、投げつけた その罵倒が、二人の別れの言葉になってしまった。
瞬はそのまま――氷河に『さよなら』を言うこともできないまま、港に向かうバスに乗せられてしまったのである。


瞬は後悔していた。
氷河は、人並の体力も気力も技術も有していない泣き虫の仲間のために ああ言ってくれたのだ。
彼自身は逃げる必要などないのに、『一緒に・・・逃げよう』と。
そして、氷河の判断は妥当なものだった。

普通に考えれば、城戸邸に集められた子供たちの中で いちばんの泣き虫で弱虫だった子供が、つらい修行を耐え抜き聖闘士になって生きて日本に帰ってこれる可能性は、ほとんどゼロに近い。
決意だけは立派な泣き虫の子供は、仲間たちから引き離され、たった一人で押し込められたアンドロメダ島行きの船の船室の中でも、ずっと泣いていた。
大人たちに強いられた運命から、今 逃げ出さなければ、近い将来 瞬の許を訪れるのは ただ“死”のみ――という氷河の判断は、極めて妥当なものだったのだ。

氷河には謝りたいと思うし、謝らなければならないと思う。
それは、本当に そう思う。
だが、そんなことは無理だと、瞬の中にいる もう一人の瞬が 悲しそうに瞬に告げてくるのだ。
『それは無理だよ。氷河に謝るためには、君が 生きて日本に帰らなければならないんだから』と。
既に二人の間には数千キロの隔たりがあるから、『謝るのは無理』なのではない――と、瞬の中の瞬は言っていた。
生きて帰ることはできないから、『氷河に謝るのは もう無理』と、瞬の中の瞬は 冷静に(冷酷に)断言する。
おそらく、その判断は正しい。
完全に正しいと思うしかないことを 自分自身に言われて、瞬は泣きたい気持ちになった。

「でも、僕は生きて帰らなきゃならないんだ。兄さんと約束したんだから」
『うん、そうだよ。君は一輝兄さんと約束をした。必ず生きて帰ると。その約束は守らなきゃならない。君は生きて帰らなきゃならないんだ』
兄との約束を守るために、自分は必ず生きて帰らなければならないと思う。
だが、氷河に謝るために生きて帰るのは無理だと思う。
同じ“生きて帰ること”が、兄のためには“必ず実現されなければならないこと”で、氷河のためには、どう考えても“無理なこと”だと感じる。
その違いはなぜ生じるのかと、瞬は訝ったのである。
永遠に終わらない悲しさを語り続けているような波の音を意識の外に追い出すため、瞬は、懸命に心を その謎に集中して考え続けた。
そうして、やがて、瞬は、多分 これは他人である氷河への甘えなのだということに気付いたのである。

兄の期待を裏切ることは絶対にできない。
そんなことをしたら、自分は今度こそ本当に兄に愛想を尽かされてしまうだろう。
そして、兄に見捨てられる。
それは、瞬には死を意味することだった。
邪魔な お荷物でしかない弟を、いつも庇い守ってくれていた兄。
その兄に見捨てられ、守ってもらうことができなくなったら、彼の非力な弟は もはや死ぬしかないのだ。

だが、氷河は、他人だから――最初から愛想を尽かされているも同然の他人だから――瞬が 生きて日本に帰り『あの時は ごめんなさい』と言えなくても、彼は 兄がそうするだろうように瞬の無礼に激怒することはしないだろう。
氷河は、『最初から、そんなことは期待していなかった』の一言で許してくれそうな気がする。
否、彼は、そうするしかないのだ。

自分が死なないために 決して見捨てられたくない兄と、見捨てられたところで自分の生死に何の関わりもない他人の氷河。
瞬にとって、一輝は、瞬の生殺与奪の権を持つ神にも等しい存在だった。
一輝は、絶対の力を持つ神なのだ。
一輝には、瞬を絶望させる力があり、瞬を殺すこともできるが、氷河には その力がない。
だから、瞬は、気安く『ばか!』などという言葉を氷河にぶつけることもできる。
相手が兄であったなら、とてもではないが そんなことはできない。
そんなことで兄の機嫌を損ね、兄に嫌われてしまったら、瞬は死の覚悟さえしなければならなくなるのだ。

(でも、氷河なら許してくれるよね。僕が弱虫の泣き虫のまま死んでしまっても)
だが、そう思うと、それもまた悲しくて涙が出る。
弱虫の仲間のために、自分の運命を変える決意さえしてくれた優しい仲間に、自分は謝ることさえできないのだ。
もう自分は二度と、あの ぶっきらぼうで優しい仲間に会うことはできない。
そう思ほどに悲しくて――瞬はアンドロメダ島に来た最初の夜、泣きながら眠りに就いたのである。
もし もう一度 氷河に会うことができたなら、『ごめんなさい』と『ありがとう』の二つの言葉を、何を置いても氷河に告げるのに。
その夢が叶わぬ夢であることが、瞬は悲しくてならなかった。






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