「生きている人間というものは、なぜ こうも貪欲で好戦的なのか」 高台に建つ城の大きな窓からは、青緑色に輝くエーゲ海を一望することができた。 夜間に吹いていた陸風が動きを止め、無風になっていた早朝の時が過ぎ、そろそろ海から陸に向かう海風が その活動を始めようとする頃。 今日の海風の最初の そよぎに乗って、その呟きは瞬の許に届けられた。 主君であるハーデスの憂いに満ちた声音に、瞬は、ハーデスの帯と胸飾りを選ぶ作業を中断し、その顔をあげることになったのである。 ハーデスは いつも黒衣しか身に着けないのだが、黒という色は、赤、青、白、金、他のどんな色とも合う特殊な色で、ハーデスの装飾品を選ぶ仕事は容易なものではない。 瞬は毎朝、その選択に頭を悩ませていたのだが、今日は その難問とは別の問題が 瞬と瞬の主君の許にやってきたようだった。 「どうかされましたか。何か悲しいことでも」 「悲しいこと? 余は憂い無き国の王と呼ばれているのに?」 「ですが……」 だが、平和に温かく凪いでいる海と空を見詰めているハーデスの心は、今日という日、今という時間を楽しんでいるようには見えない。 瞬が口ごもると、ハーデスは その視線を海の上から室内に戻し、抑揚のない声で 無憂の国の王の憂いの原因を 彼の若い侍従に知らせてきた。 「悲しいのは余ではなく、浅ましい人間たちの方だ。また余の国を侵略しようと企んでか、軍船が一隻、港に入ってきた。昨夜のうちに湾頭まで来ていたようだな。海風の吹くのを待っていたのだろう」 瞬の主君ハーデスの治める国は、憂い無き国――エリシオン――と呼ばれ、エーゲ海の小アジア側に浮かぶ一つの大きな島と、その周辺の中規模の三つの島から成っていた。 冥府を治める神ハーデスが地上に作った その国は、ギリシャには珍しく水が豊富で地味も豊か、港に適した地形に恵まれ、ギリシャの大陸部とエジプト、小アジアを結ぶ交易の拠点として富み栄えている。 移住を望む他国の民も多く、政治、経済、軍事、文化、各分野での人材も豊富。 資源と人材に恵まれている国が栄えないはずはなく、あらゆる分野で隆盛を極めている無憂の国は、他の国の羨望の的になっている。 その繁栄振りは、無憂の国の富と隆盛を妬んだ某国の王が、『 Et In Elysion Ego ――我(死)はエリシオンにも有り)』と書かれた墓石を送ってきたほど。 本来、冥府の王であるハーデスは、その皮肉な贈り物を一笑に付したのであるが。 強大な軍を持たない小国はともかく 有力な神の庇護を得ている国々は、富み栄えるハーデスの国を自領にすることを望み、侵略を試みる国も多い。 そのたび 彼等は強力な冥界軍に撃退されることになるのだが、足るを知らない大国の王たちの貪欲に、ハーデスは辟易しているようだった。 「冥界に引きこもっていた方がよかったかもしれぬ。地上が汚れていくのを見るに見かねて、地上に余の国を建てたのだが、この国の富を欲しがって侵略を企てる身の程知らずな者共が後を絶たぬ。侵略など考えず、素直に交易の関税を払って 共存共栄を図るか、あるいは いっそ余の国の民になってしまえばいいものを」 「そのようなことをおっしゃられても……。ハーデス様は、他国から我が国への移住を望む民に 難しい条件をつけて厳選される。我が国の民になりたくても なれずにいる者が、他国には大勢います」 「醜い欲でまみれた人間を余の国に入れることはできぬ。この国は、余が丹精こめて作った 地上の楽園なのだ。その平和と美しさを乱す可能性のある者は、徹底的に排除しなければならない」 「そのお気持ちはよくわかりますが――」 自国が平和で豊かならば、他国はどうでもいい。 自国の平和を守るために、他国の争いや貧困は顧みない。 ハーデスの力があれば、彼の国の平和と繁栄をギリシャ全土に広げることも可能だというのに、無欲なハーデスは その事業に挑もうとはしない。 瞬は、ハーデスの無欲――それは無欲なのだろうか? ――を残念に思っていた。 そんな瞬を見やって、ハーデスが皮肉げに問うてくる。 「余の国の最大の特産品が何か知っているか」 「多くの穀物と――鉱物でしょうか。金、鉄、錫、鉛、宝石類……」 「いや。美男美女だ。他国では、そう言われているそうだ。余は面食いという病に侵されていて、美しい者は諸手をあげて我が国に迎え入れるが、醜い者の移住は許さない。余の国の存在を忌々しく思っているのは、己れの醜さを自覚し 余の国の民になることを断念した者たちなのかもしれぬ」 「……」 その無責任な噂は、瞬も聞いたことがあった。 事実、この城には、瞬の知る限り、一般に“美しい”と言われる容貌の持ち主しかいない。 だが、ハーデスが、才さえあれば 美醜に囚われず美男美女とは言い難い者たちにも 彼の国への移住を許していることを、瞬は知っていた。 冥界軍や鉱物の発掘場には、様々な人種・容貌を持つ者たちが数多くいた。 いずれにしても ハーデスの美形好みの噂は、真実の一部にすぎない。 「欲もありましょうが、恐怖もあるかもしれません。これほど富み栄え、強力な軍をも備えている我が国が、いつ侵略の手を周辺国家に伸ばさぬとも限らない。そのような疑心暗鬼に囚われて、攻められる前に攻め滅ぼしてしまおうと考えている者も多いのかもしれません」 「侵略? そなたが この国の王であったなら、そうするのか? だとしたら、まず手始めに軍を送るのはどの国だ? アテナイか? それともスパルタか」 「え……」 ここで ギリシャの二大強国の名を出してくるハーデスの大胆に、瞬は戸惑った。 そして、答えに窮する。 ハーデスの国が他国を侵略するという考えは、瞬が自分で生んだものではなかったのだ。 「すみません。三巨頭がそんな話をしているのを聞いたものですから、それが普通の考え方なのかと……。僕は争い事は嫌いです」 「であろうな。ラダマンティスあたりが、さっさとこちらから撃って出るべきだと息巻いている姿が目に見えるようだ」 「はい……」 ハーデスの言う通りだった。 瞬が三巨頭の話を聞いた時――聞く気はなかったのだが、ラダマンティスの声が大きすぎたのだ――最も強硬な主戦派はラダマンティスだった。 アイアコスは、ハーデスの命令があればすぐにでも出陣するという姿勢。 ミーノスは、攻めてくる者たちを撃退し続けていれば、やがて愚かな者たちは身の程を知り静かになるだろうと、冷ややかな声で言っていた。 いずれにしても、ハーデスにその気はないらしい。 人間の貪欲と好戦的な性質を厭う彼のこと、おそらくそうなのだろうとは思っていたのだが、瞬は改めてハーデスの無欲な態度に安堵した。 ハーデスに領土的野心はないのだ。 だが、醜いものを極端に嫌う彼は、人間たちの我欲が目に余るようになれば、その醜悪を地上から排斥すべく、彼の軍を動かすことがないとは 言い切れないところがあった。 あまりハーデスを刺激しないでほしいと思っていたところに、またしても他国の船。 ハーデスではないが、なぜ人はこうも貪欲で好戦的なのかと、瞬は胸中で嘆きの息を洩らすことになった。 無憂の国の王主従の嘆きと憂いの原因である船に、ハーデスが再び視線を投げる。 海風で帆を膨らませた大型船が 辺りを払うように 堂々とした様子で港に入ってくるのを認め、彼は僅かに眉をひそめた。 「しかし、あれは――商船ではなく確かに軍船なのだが、たった一隻というのは解せぬ。まさか、たった一隻に乗れるだけの兵で、余の軍に太刀打ちできると考えるような愚かな王がいるとも思えぬが」 「斥候を出しましょうか? 他の船が いずこかに隠れているかもしれません」 「いや、それには及ばぬ。奇襲するつもりなのであれば、一隻だけでも こちらに姿を見せて、迎撃の用意を整える時間を与えるようなことはすまい。用向きはあちらから提示してくるだろう。使者を迎える準備だけは整えておけ」 「はい。では、今日の帯と胸飾りは金と紅玉にしましょう。我が国の富と力を認めた他国からの使者が 気後れしてくれるように」 「金は重くて嫌いなのだが」 言いながら、それでもハーデスは瞬が差し出したものを 突き返すことはしなかった。 |