軍船はアテナイのものだった。 知恵と戦いの女神アテナの庇護を受けるアテナイは、スパルタと並ぶギリシャ二大強国の一つである。 ハーデスが治める国の数倍の広さの領土と属国を持ち、強力な軍隊を有するだけでなく、高い文化を誇るアテナイ。 とはいえ、アテナイ軍が他国を侵略するために動いたことは これまで一度もなく、その強大な軍事力は あくまでも他国にアテナイの国力を示すためのもの。 ――と、瞬は思っていた。 本音を言えば、瞬には、アテナイの軍船がこの国にやってきたことが大いに意外だったのである。 ギリシャに数百ある都市国家群の中で突出した国力を有するアテナイとスパルタ。 しかし、強い軍隊だけが自慢のスパルタと違って、アテナイは 文化の面でもギリシャ随一を誇っている。 アテナイだけが、ハーデスの国を妬まずにいられるギリシャ唯一の国だと、瞬は思っていたのだ。 アテナイとスパルタのいずれかがハーデスの国を攻めてくるのなら、それは十中八九 スパルタだろうと、瞬は考えていた。 だというのに、やってきたのはアテナイの船。 なぜこんなことになるのか――こんなことになったのか――が、瞬には どうにも解せなかった。 アテナイからの使者は金髪の若い青年だった。 彼は、部下の一人も伴わず、不敵にも単身でハーデスの居城に乗り込んできた。 しかも、徒手空拳。 いっそ無礼と言っていいほどに、彼は身一つだった。 「アテナイから参上いたしました。アテナイの生まれではありませんが、女神アテナの計らいによりアテナイ市民の権利を与えられている者です」 「アテナとは知らぬ仲でもないが――いや、そなた、名は」 「氷河」 人間の貪欲と好戦的な性質を嫌悪しているハーデスも、氷河の豪胆(あるいは無防備)には呆れているようだった。 戦意のないことを示すために あえてたった一人、武器も持たずにハーデスの前にやってきたのだとしたら、彼の努力は全く功を奏していなかったのだ。 無憂の国の王を見る氷河の目には、今にも獲物の喉笛に食らいついてやろうと身構える狼の目のそれのように 攻撃的な炎が燃えているのが一目瞭然だったから。 ハーデスがアテナイの氷河を謁見したのは、玉座のある広間だった。 警護のためというより国威を示すため、冥闘士を列座させることを 瞬は提案したのだが、ハーデスは 瞬の提案を頑として受け入れなかった。 「あの者に見劣りする部下を 数だけ揃えて並べてみせても、余の威光が増すとは思えぬ」 そう言って。 一国の王であり神でもあるハーデスに狼藉を働く者はいないだろうと思いつつ、玉座の後ろに掛けられた黒いカーテンの陰で、瞬は、たった一人でアテナイからの使者を出迎えたハーデスの大胆に はらはらしていたのである。 ハーデスが『見劣りする』と言って護衛の兵を退けたのは、威厳や戦闘力のことではなく、容貌のことだったのではないかと疑いながら。 アテナイからの使者は美しい青年だった。 顔立ちの端正、鍛えられて均整のとれた体躯、姿勢、所作、身体の周囲に まとっている空気の緊張感。 貴人との謁見の場だというのに、長衣をまとわず、肩布も掛けていない。 むしろ、頑健で しなやかな肢体を見せつけるように簡素な衣服。 彼の前に、彼に劣る容姿の兵を千人並べても、ハーデスなら屈辱と感じるだろう。 それほど アテナイの氷河は――少なくとも、その外見と印象は――見事なもので、ギリシャ人の理想の青年美を具現していた。 だが、瞬の心臓を異様に大きく震わせたものは、彼の外見の美しさではなく、彼の鋭く冷たい眼差し――美しく熱い瞳が作る視線の冷たさ――だったのである。 その冷ややかな眼差しは、見る者の胸に悲しさを運ぶほどで、その眼差しをカーテンの陰から盗み見ているだけで、瞬の胸は ひどく痛んだ。 これほど熱くて冷たい瞳と眼差しの持ち主を、未だ かつて ただの一度も見たことがない。 自信をもって そう思えるのに、彼をどこかで見たことがあるような気がする。 自分がそう感じていることに 瞬は困惑していたのだが、彼は 瞳と眼差しだけでなく その言葉でも、瞬を激しく戸惑わせてくれたのである。 その様に 寂寥感のようなものさえ感じていたから、名乗りに続いて出てきた彼の言葉に、瞬は より一層驚くことになった。 「アテナイには貴国に攻め入る用意がある。抵抗せず、当方の要求を飲めばよし、もし拒否するのであれば、アテナイ軍は即座に貴国に武力をもって侵攻するだろう。我が軍には聖闘士というアテナに特に認められた闘士が数多くいることはご存じだろう。貴国の冥闘士に勝ることはあっても、劣ることのない勇者たちばかりだ」 アテナイからの使者は、神であるハーデスに臆した様子も見せず、傲然と宣言してのけたのだ。 もっとも、彼の言葉に背筋を凍らせ緊張した瞬とは対照的に、アテナイの氷河に正面から対峙しているハーデスの態度は 極めて穏やかで落ち着いたものだったが。 「それは困った。余は争いは好まぬ。で、アテナイの要求とは」 「あなたが我が国から奪ったものを即刻お返し願いたい。それが何であるか、あなたは知っているはず」 「さて……。余の国は豊かで、特段 他国から奪わねばならぬようなものはないように思うが――」 「とぼけるのはやめてもらおう。返さぬというのであれば、こっちは 力をもってしても、取り返すと言っているんだ!」 「威勢のいい若者だ。そなた、聖闘士のようだが、単身乗り込んでくるとは、よほど腕に自信があるのであろうな。しかし、少しばかり思慮に欠けているようだ。そなたは、自分が ここで余に捕えられ拘束されるかもしれぬとは考えなかったのか」 「今日の日没までに俺が船に戻らなかったなら、交渉決裂とみなし、俺の乗ってきた船は速やかにアテナイに戻る手筈になっている。そして、船隊を整えて、この国に攻め込んでくる」 アテナイの氷河は、戯れ言を言っているようには見えなかった。 今すぐ 自分一人ででも戦いを始めてやろうとでもいうかのように気色ばみ、いきり立っている。 その様子に ハーデスが少しでも たじろぐ気配を見せていたなら、瞬は、『姿を見せるな』という王の命令に逆らって、二人の間に割って入っていただろう。 気負い立っているアテナイの使者に ハーデスが全く動じる様子を見せなかったので、瞬は かろうじて主君の命令に従っていられたのだった。 「迷惑な話だ。そなた、しばし 我が国に滞在してはどうか。そうすれば、余の国が攻め滅ぼすには惜しい国だということがわかると思うが」 「俺は、あなたが我が国から奪ったものを返してもらいたいだけだ。物見遊山のために こんなところまで来たのではない!」 「ならば……そうだな。軍と軍の戦いではなく、戦士同士の戦いで決めるというのはどうだ? そなた、聖闘士なのだろう? 我が国の戦士と戦ってみたくはないか? それとも、勝てる自信がないかな」 それが挑発の言葉だということは わかっているのだろうが、だからといって、ハーデスの言葉を冷静に聞き流すことができるほど、アテナイの使者は老練ではないらしい。 彼は むっとした顔になり、彼を挑発する神の顔を睨みつけた。 「何なら、この国で最強の者と戦ってもいい。貴国の戦士は、力や技ではなく 容姿で選ばれた者たちばかりだそうではないか。享楽の国の戦士など大した力も技もあるまい」 「そなたを見た限りでは、アテナも余と同じ基準で自国の兵を選んでいるように思えるが……まあ よい。では、そなたが我が国の戦士と戦って勝った場合には、アテナイの要求を受け入れることを考えてみよう。そなたが負けたら、その時には――」 「好きにして構わん。首を刎ねるなり、槍で突き刺すなり」 「余はそういう血なまぐさいことは苦手なのだ。そなたが負けた時には、我が国との交渉のため、しばらく この城に滞在すると 船にいる仲間に知らせを入れて、物見遊山の罰に耐えてもらおうか」 「貴様、何を企んでいる」 ハーデス様は何を企んでいるのか――アテナイの氷河と 全く同じことを、瞬も 無憂の国の王の玉座の陰で考えていた。 「そなたに 余の国の素晴らしさを認めさせ、この国を攻めることの愚を悟ってもらいたいだけだ」 不信感を露わにしているアテナイの氷河に、ハーデスは静かな笑みと共に、いささか底意のあるように感じられる答えを返すことをした。 アテナの聖闘士もハーデスの冥闘士も、神に その称号を与えられた者は、尋常の人間とは次元の異なる戦闘力を有している。 そのような者たちに城の内で戦われれば、城の半壊程度の損害は覚悟しなければならない。 戦いは城の外庭の闘技場で行なおうと、ハーデスはアテナイの氷河に提案し、アテナイの氷河は その提案に異議を唱えなかった。 「せいぜい強い戦士を選ぶことだ」 と言い置いて、氷河が案内も乞わずに玉座の間を出て行く。 彼が その周囲に まとっている緊張した空気を五感で感じられなくなるのを待って、身を潜めていたカーテンの陰から出、瞬はハーデスの玉座に歩み寄っていったのである。 「三巨頭の誰かを呼びますか」 「それは不要だ。あの者……氷河と言ったか。なかなか美しい男ではないか。そなたはどう思う?」 「それは……そう思いますけど……」 「あの者を我が国に留め置いて、余の 「ハーデス様……」 そんなことだろうとは思っていたのだ。 思いたくなかったのだが、思っていた。 嫌な予感が的中したことを知って、瞬は、短い溜め息を洩らすことになったのである。 「また、悪い癖を……。彼は我が国を攻めると言っているんですよ」 「余は 美しい者が好きなのだ。だから、そなたを側近くに置いている。瞬、そなた、あの者と戦ってみよ」 「僕が? 三巨頭の誰かで十分なのでは」 「美しい戦いを見たいのだ。戦いの技で あの者に伍する者は 我が国にも いないではないだろうが、あの者に対抗できる美貌の持ち主は、そなたしかおらぬ」 「……」 そういう理由で、国運がかかった戦いに関わる闘士を選ぶハーデスに、瞬は またしても――今度は長い溜め息を――洩らすことになったのである。 瞬は、ハーデスが言うほど自分を美しいと思ったことはなかったし、アテナイの氷河に匹敵する美貌の持ち主は この国にはハーデスしかいないのではないかと、胸中では思っていたのだが、まさか正直に その考えをハーデスに告げるわけにはいかない。 この国の王を戦いの庭に立たせるわけにはいかないのだ。 「……ご命令とあらば、それはもちろん従いますが」 ハーデスの身を守るために、瞬は王の命令に従うしかなかった。 |